おたおた (4) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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工工四を開いた。『とうがにあやぐ』はけっこう長い曲だ。
おばあさん、歌は歌えるってことなんだ。だったら、これから始めても問題ないかもしれないな。 さて、授業の方針を決めなければ。オジイは、ボクにタブ譜から教えた。でも、トヨさんの場合、『とうがにあやぐ』を弾きたいという、はっきりとした目標がある。タブ譜で童謡を練習し、工工四に移行するという手間をかけるよりも、最初から『とうがにあやぐ』の工工四を見てもらった方がよさそうだ。一つ一つ、勘所と使う指を覚えてもらうことにする。構え方、弾き方など一通り説明して、さっそく工工四を追ってみた。 「次は〈七〉です。はい。小指ですね」 「小指。ちょっと待ってよ」 「はい。いえいえ、それは中弦です。女弦の小指」 「ちょっと待ってよ」 「もう少しこっちを。そうです。で、〈四〉。中弦です」 「よん・・・これねー」 「いえ、左手は放したまま」 「・・・あい・・・ああ」 「次は、〈五〉、女弦人差し指。前に出てきましたよ」 「・・・あ・・・あい・・・あっがい」 「〈七〉です。ここでも出たでしょう。女弦小指です」 指が動かない。思うように動かないってのは、わかるよ。ボクもそうだったもの。でも、なかなか動かない。「小指」と言ってあげても、小指が動くまでに時間がかかる。ボクが指示してから、痩せた皺だらけの指が動くまでのもどかしさ。ボクは、目をつぶった。大きく深呼吸をした。 ああ、また違う音だ。 「小指です!」 ああ、しまった。つい声が大きくなっちゃった。その時だ。店主の明るい声がした。 「じゃあ、次はアキちゃん!」 「はーい!」 アキちゃんが右手を上げて、こちらのテーブルにやってきた。アキちゃんは、ボクに向かってウインクした。ボクと交代するってことらしい。助かった。助けられた。でも、少し惨めな気持ちにもなった。 「すみません。じゃあ、交代します」 ボクは立ち上がった。トヨさんは、まだ工工四を見ながら、震える指を動かそうとしている。アキちゃんは、ボクが座っていた椅子に座ると、こう言った。
トヨさんは、アキちゃんの声にわれに返ったという風に顔を上げた。アキちゃんは、トヨさんから三線を受け取って、工工四を見ながら『とうがにあやぐ』の歌持を弾いた。 「早いよー」 トヨさんが、アキちゃんの三線にクレームをつけた。 「ごめん。こんな感じ?」 今度はさきほどよりもずいぶんゆっくりと弾いた。すると、トヨさんが歌い始めた。 「うぷーゆーてぃらー」 低い音から、徐々に高い音へ。声にまで皺が刻み込まれているような、そんな味わいある歌声だ。トヨさんの動かない指に苛つき、苛ついてしまった自分に苛ついていた先ほどまでのもやもやが、トヨさんの声で少しずつ透明に戻っていく。初めて聞くけれど、いい歌だ。トヨさんの声も、いい声だ。 「あ!ごめん、おばあ。間違えた!」 「アハハハ。アキちゃん、へたくそだねー」
工工四は、トヨさんの方を向いている。それを、向かい側に座っているアキちゃんが見て演奏している。ここまで演奏できただけでも、けっこうすごいことだと思う。 「ありがとう。久しぶりに歌ったさー。民謡はおもしろいね」 「おばあ、上手!」 店主とナンちゃんが拍手した。少し遅れてボクも。
トヨさんは、体をねじってボクの方を向いて、コクリと頭を下げた。ボクは恥ずかしかった。もっともっと、丁寧に、優しく、わかりやすく、ゆっくりと。アキちゃんとトヨさんのやりとりを見ていて、そう心に誓った。ごめんなさい、トヨさん。 「おばあ、その先生は優秀だから。安心してね」
そう言うのがせいいっぱいだった。 「できましたよ」 店主の声だ。トヨさんの三線の弦が新しくなった。 「ありがとうねー」 「これで、家でもしっかり練習できますね」 トヨさんは嬉しそうに三線を受け取った。 「あの、じゃあ、練習を続けましょうか」 ボクはアキちゃんに目配せした。アキちゃんは席を譲ってくれた。 「先生。またお願いします」 「はい。じゃあ、最初から。少しずつ行きましょう。ゆっくりと」 トヨさんに言ったんじゃない。ボクに言い聞かせたんだ。 アキちゃんが微笑んでいた。 「どきどき」へ→ |