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第六章 (3)
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第六章
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エピローグ
 小さな声で練習していたのでは、ここに来た意味がない。意を決して、大きな声で歌ってみた。ジョギングの人が振り返った。子どもがこっちを指さした。散歩しているおばあさんが首を伸ばしてこっちを見た。そんな様子が、タブ譜を見るボクの目の隅っこに見えた。でも、不思議だ。一度大きな声を出してしまうと、声を出している間は、恥ずかしいという気持ちにならないんだ。ボクの声が、ボクの周りを囲ってくれているような感じと言えばいいだろうか。緊張も不安も無くなっていったんだ。
 何度も間違えながら、なんとか最後まで歌いきった。声を出しているときは恥ずかしさを感じなかったのに、歌い終わったとたんに周りが気になりだした。でも、ボクが心配しているほど、周りの人はボクのことを気にしていないらしい。ジョギングの人も子どももおばあさんも、少しこちらを見ただけで何事もなかったかのように遠ざかっていった。人だかりができるわけでもなく、話しかけられるわけでもなく。少しほっとして、少しがっかりした。
 家では囁くような声で練習をしていたわけだけれど、こうして大きな声で練習をすると、うまく歌えていると思う部分と、駄目な部分がはっきりしてくる。息も続かない。ま、それが良い練習になるってわけだ。

 ぽかぽかとした柔らかい日差しに包まれて、一時間ほど練習をした。午前中で切り上げようかと思っていたのだけれど、気分がいいので、午後も引き続きここで練習することにした。家に早く帰っても、明るい時間にはオジイは出てこないだろうし。
 お昼ご飯はコンビニの弁当だ。河川敷で食べると、ピクニック気分で楽しい。一人ぼっちだけど。

 それから夕方まで、人目をはばからずに練習していたら、三度声をかけられた。一度目は、隣のアパートのおばさん。時々ゴミ出しのときに顔を合わせる人だった。甲高い声で、一人で話したいことをまくしたてて帰っていった。二度目はどこかの宗教の人だった。糸巻きから出てきたオジイと暮らしているボクには、どんな神様でも信じることができそうだけれど、練習中だと断った。
 三度目は、女性だった。歌っているとき、斜め後方に人の気配を感じたんだ。でも、途中でやめずに最後まで歌いきった。途中、二カ所間違えたけれど、それは人の気配が気になったから。ということにしておいてほしい。で、歌い終わったときに声をかけられた。


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