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二人が戻ってきた。さっきと同じ、手ぶらだ。ただ一つ違っていたのは、あの仕入れ担当者の笑顔が、完全に消えていたことだ。笑っていない顔を初めて見たよ。
ソファーとドアの間で宙ぶらりんになっているボクに、社長さんは笑顔でソファーの方をすすめた。ボクは座った。
「 |
担当者と相談をしましてね。最初の約束通り、千二百ケースでお願いします」 |
ボクは、耳を疑った。
「千二百!で、いいんですか?六百じゃなくて?」
社長さんは、笑顔で頷いた。ボクは飛び上がりそうになった体を、辛うじてソファの上に押さえつけていた。
「ありがとうございます!本当に、ありがとうございます」
相談したって言ってるけれど、社長さんの隣に座った仕入れ担当者の顔を見れば、社長さんが無理を通したって事はすぐにわかった。ボクは何度もお礼を言った。
社長さんの気が変わらないうちに契約だ。書類を確認して握手。社長さんの力強い握手に比べて、仕入れ担当者の手は心なしか力無いように感じたが笑顔は戻っていた。ともかく、契約は完了した。
これからもよろしくお願いします。という、決まり文句で立ち上がろうとしたとき、社長さんはボクの目を見て、こんなことを言い出したんだ。
「来月、末娘が結婚するんです」
「それはそれは、おめでとうございます」
社長さんは話を続けた。結婚式は外国の教会だそうだ。で、日本に戻ってから、ごく内輪の結婚披露パーティーをする。媒酌人とかかたくるしい挨拶とかのない、二人の門出をお祝いする会だそうだ。娘の結婚。うーん。独身のボクにはよくわからないけれど、複雑な心境なんだろうなあ。社長さんの話を、ボクは仕入れ担当者に負けないくらいの笑顔で聞いていた。
「 |
そこで、二人のために、是非一曲お願いしたいのですよ」 |
これって、つまり、パーティーへの招待だ。すごいぞ。取引先の社長さんから、娘さんの結婚披露パーティーに招待された。これを機会に、ウチの会社との関係がもっと親密になるかもしれない・・・と、普通なら大喜びするべきだ。しかし、「二人のために一曲」というのは困る。まだ練習を始めて一ヶ月にもならない。人に聞いていただけるような、しかも、お祝いの席で演奏できるような腕じゃないよ。「演奏はしませんけれど、パーティーには行きます」なんて言えないし。ここはやんわりとお断りするべきだよな。まあ、断ったからって「だったら、契約は破棄です」とは言われないだろう。
ボクは笑顔を崩さないように注意しながら、息を吸い込んで、ゆっくりとこう言った。
「 |
あのう、パーティーにご招待頂けることは本当に嬉しいんです。でも」 |
「 |
私も嬉しいんですよ。あなたが、私のふる里の歌を勉強してくれているなんて、本当に嬉しい。よろしく、よろしくお願いします」 |
「はい。もう、喜んでうかがいます」
こう答えるしかないじゃないか。
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