2007年9月6日〜10月6日 6ページ目 /15
クルージ・ナポカ
紀元前2世紀にローマ帝国の植民地となったナポカ、その後11世紀にはドイツ人が商工ギルドを結成し、
ハンガリー王の庇護の下に街づくりが行われました。
日程表 : ルーマニア 通貨:(1RON=48円) <値段表記はチップや飲み物代含む>
日程 |
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都 市 名 |
移動距離 km |
滞在日数 |
スケジュール |
9月 |
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16日 |
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クルージ・ナポカ |
203 |
1泊 |
紀元前2世紀のローマの植民都市、中世はギルドが活躍した町 |
旅程11日目、シギショアラ発12時4分の列車(距離:203Km、料金37RON=1,800円)で3時間、車中隣乗り合わせの女性と
おしゃべりしたり、又空いているコンパートメントへ移動、客車の写真を撮ったり、あっという間に午後3時クルージ・ナポカに到着。
ネット検索、予約の”HOTEL Da ja vu”の、素敵なペンション風ホテルに感激しつつ、早速トランクを部屋に放り込み、徒歩で20分
ほどの旧市街へ観光、ほとほと疲れを知らない健康体ですね。 @52E=\8.5
ルーマニア国鉄の報告:
ルーマニア国鉄・車両 客車への上り口が高くて重いトランクに四苦八苦、でも乗り合わせの男性に助けられ、無事乗車。 |
続き: 2等車内は、6人用のコンパートメントで狭く、大きなトランクは通路に並べます。 |
続き: 途中、空っぽの客車に勝手に移動し、写真を撮ったり、持参のスナックを食べたりしました。 |
続き: クルージ・ナポカ の駅舎 |
町の名前、クルージはドイツ語、ナポカはラテン語(紀元前2世紀のローマ帝国の植民地としてのナポカ。その後11世紀以降、
ハンガリー王の保護の下、ドイツ商人が町の繁栄をもたらしこの町をクルージと呼んだ。20世紀になり、クルージとナポカが
合併し、クルージ・ナポカとなった。)
町の人口約33万人の内、ハンガリー人が約2割を占めるほど、ハンガリーとの関わりが深く、街の中心にある聖ミハイ教会の
正面にハンガリー王であるマーチャシュ一世の騎馬姿の像があります。
賑やかなメイン通り: 鉄道駅から直線に延びるオレア通りを歩き、橋を渡ると約20分ほどで、旧市街の中心にある統一広場に着きます。 |
続き: 統一広場そばの、クルージ・ナポカの市庁舎と周りの建物 |
統一広場に建つ聖ミハイ教会と国立美術館: 広場の周りは、中世の建物が並び、市民達が三々五々散歩したり、ベンチでおしゃべりしたり、私も交じって至極なひと時を過ごしました。 |
聖ミハイ教会: オスマン軍に勝利した事を讃えて、15世紀に造られたハンガリー系カトリックの教会、ハンガリー王であるマーチャシュ一世の騎馬姿の像が建てられています。 |
聖ミハイ教会から1989年12月21日通りを東に徒歩5分にある、ルーマニア正教聖堂 |
統一広場から西北にあるソメルシュ川を渡り、坂を20分ほど上がった小高いにある城塞 |
続き:オーストラリア・ハンガリー帝国に統治されていた1715年に建てられた城塞で、ここからの街並はきれいでした。 |
続き:城塞の横にあるルーマニアの英雄たちを記念して建てられた十字架 |
”HOTEL Da ja vu” : 素敵なペンション風ホテルに一泊しました。
中世の建物群が並ぶ、素敵な街並
ここでの滞在は夕方からの半日だけでしたが、統一広場を中心に徒歩圏内で十分観光出来、 又夕食には地元でも人気の日本食レストラン“TOKYO”でお寿司を食べ、ゆったり した気分にひたり、明朝の、5時間の汽車の旅に備え、英気を養いました。 2007/9/16 日曜日 |
ルーマニア
1ページ ブカレスト |
6ページ クルージ・ナポカ |
2ページ シナイア |
7ページ グラ・フモール 1P |
3ページ ブラショフ |
7ページ グラ・フモール 2P |
4ページ シビウ |
8ページ ヤシ |
5ページ シギショアラ |
9ページ ブカレスト |
ブルガリア 以下準備中
10ページ ルセ |
14ページ プロヴディフ |
11ページ ヴェリコ・タルノヴォ |
15ページの1 リラの僧院 |
12ページ カザンラク |
15ページの2 ソフィア |
13ページ コプリフシティツア |
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