GO MOUTH HERE MOUTH 理不尽なのがたまらない
 時々、三線や歌についての苦情をいただきます。といいましても、私が叱られたというのではないのですけれど。

 歌三味線を始めると、「なんでこうなるの?」と理不尽に思えることがたくさんありますよね。

○歌と三線とが、一緒じゃない
○メロディーと言葉が合ってない
○同じ歌なのに、いろんな歌い方?
○1番と2番では、歌詞の長さが違う!
○曲の長さも違う!!

 以上のような「理不尽さ」を検証していきたいと思います。

 このほかに「工工四とCDの演奏が違う」というのもよく聞く話ですが、これについては「手本がない」をご覧いただきましょう。

 では、こちらから。

○歌と三線とが、一緒じゃない

 『新安里屋ユンタ』で、「さーきーみは」の部分は、「四ー上ー中工」という音の流れですよね。でも、三線は「四合上合中工」と演奏されることが多いようです。歌の中には〈合〉なんて出てこないのに、三線は〈合〉を鳴らす。理不尽です。

 そう思うかもしれませんが、三線と歌がまったく同じ音だけですとおもしろみがないですよね。間に〈合〉が入ることで、リズムを感じることができますし、力強くなります。ということでご勘弁ください。
 琉球古典の『かぎやで風』では、もっと顕著です。

三線
             

 「ぬーふー」の部分は、歌は「〈工〉ーーー」なのに、三線は〈工〉〈五〉〈工〉〈尺〉〈工〉〈合〉と、音が上がったり下がったり。いろんな音が出てきます。これは『新安里屋ユンタ』とは比較にならないほどややこしいです。
 古典的な曲ですと、このような(これ以上の)複雑な「歌と三線のからみあい」が出てくることが多いと思います。
 これがもしポップスであれば、ベースやピアノなどがいろいろとお手伝いしてくれて、一つの曲になりますが、『かぎやで風」は、とりあえず三線が最初から最後まで歌を支え続けなければなりません。基本的に、三線一本で「曲」として成り立つようになっているのが、民謡や古典音楽の特徴だと思っています。それで、時にこのような複雑な音の動きをするのでしょう。

 つまり、歌が「〈工〉ーーー」なのに、三線が〈五〉や〈合〉を使うというのは、歌と三線で曲を作り上げてしまうという特性のためで、もしそれを「歌と三線をまったく同じ音だけ」にしてしまえば、曲として成り立たなくなってしまうということでしょう。
 試しに「ぬーふー」の部分の三線を、〈工〉だけで演奏してみましょう。歌いやすいかもしれませんけれど、味気ない曲になってしまいます。

 他の理不尽さにも、このような理由があるのでしょうか。つづく。

○メロディーと言葉が合ってない

『小浜節』の2番の歌詞では、
「・・・・うしく (息継ぎ) だしみりば・・・」
と歌います。「押し下し」「見れば」なのに、「押しく」「だし見れば」と切れるわけです。理不尽です。

 理不尽ですけれど、まあ、よくある話です。基本的に、一つの曲は一つのメロディーなわけでして。それに、必要な歌詞を当てはめるとなると、ときには不適切な部分で息を継がなければならないこともある。と割り切って考えましょう。現代の歌にも、そういうのはたくさんありますし。
 でも、不思議に思うことがあります。上手な人が歌っているときには、言葉の切れ目に違和感がないですよね。よく聞いてみると、確かに言葉の途中で息を継いでいるのに、気持ちよく聞くことができる。これはきっと、「息は継いでいるけれど、気持ちが途切れていない」ということなのでしょう。歌詞を理解して歌うことの大切さは、ここにもあるように思えます。

○同じ歌なのに、いろんな歌?

『新安里屋ユンタ』の「マタハーリヌ」の部分は、「四四上ー中上」だったり「四四上ー上中」だったりと、人によって歌い方が違っています。同じ曲なんでしょ?理不尽です。

 歌い方が違う。どっちが正しいんだ!と言いたくなる気持ち、よくわかります。でも、考え方を変えると、これほど都合のよいことはありません。つまり、「正しい歌い方は、決まっていない」と考えるわけです。すると、どうでしょう。
 「え?だったら、私の歌い方も、正しいってわけ?」
 そうです。あれも正しい。それも正しい。だったら、こっちも正しいってわけです。ありがたいことです。
 と同時に、「正しい」とされる範囲、あるいは「気持ちよい」と思える範囲は広いけれども、やはりどこかに限界があって、それを逸脱してしまうと「それは、違う歌になってしまっているよ」と言われるのでしょう。その範囲については、別の記事で書くことにしますが、とにかく、いろんな歌い方があるということを喜ぶとしましょう。

○1番と2番で、歌詞の長さが違う!

『なりやまあやぐ』では「さーなりやまや」という歌詞と、「さーなりやまんみゃいてぃ」とう歌詞を、同じメロディーに乗せています。後者の方が言葉が長いですよね。長さの違う歌詞を同じメロディーに押し込むなんて、理不尽です。

 なるほど。言いたいことはわかります。
 では、「なりやまんみゃいてぃ」を一番と同じ長さにするために、「なりやまん」で切っちゃいましょう。え?それでは意味が通らない?そうですよね。意味が通らなければ歌になりません。かといって、長い歌詞には長いメロディーを、なんて言っていたら、一つの曲なのに、一番と二番で長さが違う!なんてことになってしまいます。歌いにくくて困るでしょう?だから、長い歌詞も同じメロディーに押し込んである。ああ、なんて親切なんでしょ。親心ってやつですか。
 というのは、冗談ですけど。
 同じメロディーに、長い歌詞を詰め込んだり短い歌詞を伸して入れるのは、歌いにくいと思います。
 沖縄の歌にも定型詩があります。「琉歌」と呼ばれ「8,8,8,6音」で構成されます。これですと、1番も2番も3番も、いつもきれいに整った歌になります。確かに美しい。しかも、別の琉歌も流用できて「一曲覚えればいろんな歌詞で長く歌い続けられる」という特典付きです。
 でも、そうでない歌も味わい深いものですよ。『なりやまあやぐ』も、歌詞の長い部分と短い部分があってこそおもしろいと思いますよ。それに、こういう歌には生の方言が使われていることが多いと思うのです。無理に決められた形に合わせようとして作られた言葉よりも、こういった生のままの言葉の方がより力強いのではないか。私は方言を知りませんけれど、そんなことを思っています。

○曲の長さも違う!!

 八重山の『下原節』は、1番から4番まで、曲の長さがちがっているし、琉球舞踊の『金細工』は、ところどころ曲の長さが違っています。囃子部分に歌詞が割り込んだり、それはもうやりたい放題です。理不尽すぎます。

 ハハハ・・・えーっと・・・

 『下原節』は、しかたないでしょう。歌詞の長さが違うんだし・・・だめ?
 だったら、こうしましょう。
 この歌は、いろんな人の成功例と失敗例を歌っているんです。うらやましいとか、気の毒だとか、そういう内容ですので、まあ、それぞれ長かったり短かったりするのもしかたないんじゃないでしょうかねえ。歌詞を覚えると、メロディーは自然に出てきますよね。でしょ?

 『金細工』ですか。こちらは、舞踊曲ですね。登場人物が三名で芝居のような形になっています。それぞれの台詞が(踊り手は歌いませんが)歌詞になっています。そうです。台詞としての味わいを活かすために、時には短く、時には長くなっているんです。実際に舞台を見ますと、この歌の長短やメロディーの変化が、全体の中でおもしろいアクセントになっていますし、人物の心の動きを伝える役目もしていると思えてきます。このイレギュラーな部分が『金細工』の持ち味であり、おもしろさなのだろうと思います。たぶん。


 結局、どれも私の言い訳なんですけどね。
 みなさん、歌三線を練習していると、いろいろ辛いこともあるでしょうけれど、がんばってください。というところで、まとめです。

 以前、大阪の知人から、こんなメールをいただきました。

 ところで、小浜節。ようやくメロディーも覚え、工工四は簡単。けどあんなもん、弾きながら歌えるのがおかしいです。小浜節の弾き語りができるならドラムも叩けるだろうと思えるくらいいろんな感覚をバラバラに作動させなければならないように感じます。西洋音楽に慣れきっているからでしょうけどね。あまりにも理不尽な歌に思えます。

 お察しの通り、この記事を書き始めたのは、このメールがきっかけでした。沖縄の歌を「理不尽」だとおっしゃいます。ところが、続きがありまして。

 でも、歌えるようになると、ただ聴いていただけのときには感じなかった魅力が感じられる。ホントにきれいな曲ですね。

 理不尽なのが、たまらない。まったくその通りです。たまらなく、ステキなんです。知人はそれを言いたいのです。

 理不尽なことが、美しい。それが楽しい。続けていると、きっとそう思えます。



GO MOUTH HERE MOUTH 胡弓が合わない
胡弓とは

 私は胡弓(こきゅう)を持っていません。演奏もできません。でも、興味があって調べてみました。
 胡弓と聞いて、中国の「二胡」を思い浮かべる人も多いようです。二胡もいいですよね。たった二本の弦ですが、独奏を聴いても(テレビで見ただけですけど)とても表情の豊かな音でした。
 琉球古典の中に登場する胡弓の音を聞いて「あ、二胡が入ってる」と勘違いする人もいるとか。

 沖縄の胡弓は、方言で「くーちょー」とも呼ばれます。三線の小型のような形をしています。棹は、やはり黒檀。弦は3本ないし4本。お椀のような形をした胴に蛇皮を張り、馬の尾の毛をはった弓で弦をこすって音を出します。

 琉球古典では、胡弓が使われます。でも、琉球古典のCDを聞いても、胡弓の入っていない場合もありますよね。むしろ、入っていない方が多いかも?
 沖縄民謡にも使われますが、それほど多くはないですね。沖縄芝居の悲しい場面に使われていた記憶があります。他でも使われるでしょうけれど、あまり意識したことがないです。
 八重山民謡、宮古民謡では、使われないはずです。
 ということで、沖縄の楽器の中では、愛好者の少ない方ではないかと思います。

 邦楽の世界にも、胡弓があるんですね。見た目も、邦楽の三味線を小さくしたような形で、皮は白。当然弓でひきます。
 邦楽というと、「三味線(三弦)、箏、尺八」という組み合わせを思い浮かべますが、古くは「三味線、箏、胡弓」という組み合わせだったとか。
 現在、この胡弓を取り入れて演奏される曲では「越中おわら節」が一番有名ではないかということですが、私は確認していません。


撥弦楽器と擦弦楽器

 三線は、撥弦楽器(はつげんがっき)です。つまり、弦をはじく楽器です。

 「テン   テン   テン    テンテン   テン   テン」

 と、弦を弾いた時には「テン」と大きな音が出ますが、その後には余韻が残るだけ。その余韻もどんどん小さくなっていきます。

 胡弓は、擦弦楽器(さつげんがっき)です。

 「キーーーキーーーキーーーーキーキーーーキーーーキーー」

 「擦」は「こする」意味で、つまり、弦をこすって音を出す楽器です。一番有名なのはバイオリンでしょうか。
 三線とちがって、擦弦楽器である胡弓は、弓を引いている間は一定の音を出し続けることができます。いえ、音を大きくすることだって可能です。撥弦楽器が弦を弾いた後は、ほとんど余韻にまかせるしかないのに対して擦弦楽器は音の表現の自由度が高いわけです。二胡やバイオリンなどが豊かな表情を作り出せる秘密の一つは、ここにあると言えそうです。


歌と胡弓

 ある流派のある人たちが演奏する古い録音の『かぎやで風』を聞きました。三線、箏、笛、胡弓、太鼓の合奏で、歌は入っていません。胡弓の演奏者は、たいへん有名な人でした。
 残念ながら、聞きづらいです。演奏しておられる人には申し訳ありませんが、私にはどうしても聞きづらいのです。歌が入っていないからではありません。かえって、歌が無くてよかったと思うくらいでして。

 笛は、歌の音をたどって吹くのが基本です。二昔前の笛の演奏には、音程の悪いものが多くありました。それが、最近ではきれいに歌に合わせてくれていて、とても聞きやすくなりました。
 昔の胡弓奏者は、三線の音をたどっていました。三線の音と歌とでは、微妙に違う部分があります。本来同じであるべきかもしれませんが、とにかく、現在のところそのズレは存在し続けています。三線と歌の場合、違っていても、それほど気にならないのは、聞き手が慣れているからでもあるでしょうけれど、三線が撥弦楽器であることで救われているのだろうと思っています。つまり、音が長く続かない。歌声との不協和音を、長く感じないで済むのです。
 ところが、擦弦楽器である胡弓は、そうはいきません。歌とのズレは、長く強くはっきりと聞こえます。聞いていて辛くなります。
 先の『かぎやで風』は、歌が入っていません。でも、笛が歌の役目をしていますので、胡弓とのズレが気になります。さらには三線と胡弓の音のズレもあります。これに歌が入っていたらと思うと、恐ろしい。
 ですが、最近では、「三線と同じ」ではなくて、歌の通りに演奏するのが基本になっているそうです。そうしますと、笛と同じ音を鳴らすことに。うーん。やっぱり邪魔になってしまいそうですよねえ。

胡弓が入ることで音に厚みが増す。
独特の哀調を帯びた音が沖縄音楽の奥深さを感じさせる。

 そうかもしれません。でも、本気でこのような説明をするなら、もっと音程に気を配ってほしいです。
 笛が、沖縄芸能の普及浸透と共に正確な音程を身につけたように(と私は思っていますが)、胡弓も、これから正確な音程を身につけるのではないか。あるいは、今その坂を登りつつあるのではないか。なかには、その坂を上り詰めた人もおられるのではないか。という期待ももっています。そんな胡弓を聞いて、先の言葉を思いだしてみたいものです。

お前は、何もわかっていない。あの微妙なズレ。あれも音楽なのだ。あの美しさがわからないようなら、琉球古典を味わう資格はない」

 と言う人がおられるのでしたら、私にはそれを否定することはできません。それが、私に理解できないレベルの「美」なのかもしれないからです。正確な音程を身につけるという方向は、私の幻想にすぎないということになります。しかし、こんなことを書くと、世の胡弓奏者からしかられるかもしれませんが、今の私には、「あんな胡弓ならない方がいいです」としか、言えません。




GO MOUTH HERE MOUTH 手本がない
 三線を始めたきっかけは?

 「『島唄』が好きで、自分で歌えたらなーと思って」

 この場合は、『島唄』が収録されたCDを見つければ、それがお手本になります。工工四も「正調琉球民謡工工四第十一巻」で見つけられるはずです。

 「八重山民謡が好きなんです。八重山のいろんな民謡を歌えるようになりたい」

 ならば、「CDがたくさんありますし、工工四もありますよー」とまあ、こんな風に答えておしまい。と思ったら、難しい問題があるんですよね。そうです。CDと工工四が合っているかどうかという問題が。

 ジャンルによって、その問題の程度も違ってきそうです。

【琉球古典】
 琉球古典を勉強している人の場合は、教室に通っている人がほとんどだとは思います。その場合は、先生の歌という、間違いのない手本がありますので問題は少ないでしょう。それでも、「普段は八重山民謡やってるんだけど、ちょっと琉球古典のあの曲も・・・」という場合もあるかもしれません。
 琉球古典ですと、工工四の通りに演奏するのが基本ですので、自分の持っている工工四と同じ流派の人が歌うCDであれば、どのCDでも大丈夫だろうと思われます。あとは好みの問題で、だれのCDにするかを決めましょう。

【沖縄民謡】
 これはたいへんです。同じ歌い手でも、こっちのCDとあっちのCDでは歌持が違うとか、曲の長さがちがうとか、歌詞がちがうといったことがあります。となれば、工工四と同じ歌い方を探すのは不可能に近い。
 この場合、工工四に頼らずに、CDを聞いて三線伴奏も覚えてしまうというのが一番よいやりかたなのでしょう。ですが、それができるなら苦労はしません。できないから困っているわけでして。ならば、とりあえず歌はCDの歌い方を覚えて、三線は工工四を参考にしながら練習しましょう。CDと工工四が少しくらい違っていても、歌をしっかりと覚えていれば、工工四の通りの三線で、なんとか歌えるものです。そうして練習しながらどうしても満足できない部分があれば、その部分だけ自分で都合の良い伴奏を作ってしまうというのが正しいやり方でしょう。

【八重山民謡】
 八重山民謡の場合は、琉球古典と沖縄民謡の中間程度の困難さ?
 琉球古典ほど、しっかりと流派ごとの歌い方が確立されているとは言えませんが、有名な流派では、ほぼ工工四通りに歌っているCDがあります。
 しかし、有名歌手になりますと、どうしても「自分流」が入ってきます。これは非難すべきことではないと思います。お客さんを楽しませることと、自分らしさを出して自分の歌にするという点で、正しいことでしょう。ただ、それを覚えるとなると、基準となる工工四が見つからないということになります。
 基準のはっきりした流派の工工四とCDを使うか、有名歌手の歌い方を勉強するために、自分で三線伴奏を聞き取って覚えるか。という選択になるでしょう。

【その他】
 沖縄ポップスなどと呼ばれる、最近流行の曲の場合。
 そういう曲を集めた工工四を見つけることができます。おそらく、この種の曲をやってみたいとおもっている人は、歌を覚えてしまっていると思われます。覚えていなければ、まず覚えましょう。あとは、その工工四を見ながら歌を乗せる作業となります。
 CDなどで聞くポップスは、三線だけでなくいろいろな楽器が伴奏に使われています。それを、自分一人の三線に置き換えると、ちょっと頼りない伴奏に聞こえるでしょう。工工四も三線伴奏だけを書いているわけでして、見ていて「なんじゃこりゃ!」と思うような工工四があったり、「これ、音が一つ足りないじゃん!」と工工四に八つ当たりしたくなる場合もあるかもしれません。それも、ご自身が覚えた歌の方に合わせるという形で克服するしかありません。
 三線伴奏だけでは、限界があるということを理解したうえで楽しむことでしょう。そのあたりのお話は、こちらをご覧ください。→「CDみたいに聞こえない」

 さて、お手本が見つかった、と思って安心していたら、新たな問題が。
 あなたが、女性ならきっとこんなことを感じているはずです。

私は、ごく普通にCDと出会い、ごく普通にCDを買いました。ただ一つ違っていたのは
歌い手は、男声だったのです。


異性の声は手本にしにくい

 女性にとっては深刻な問題です。ジャンルにかかわらず、CDで聞く三線音楽は、圧倒的に男声が多い。女声は極めて少ないです。

 ここは、悩める女性のために考えてみます。

 なぜ、男性のCDだと練習しにくいのか。
 女性が男性と一緒に歌う場合、一般的には女性の方が一オクターブ高い声を出していることが多いのです。(「声が高いから調弦を低く?」参照)ですから、男性の声で録音されたCDを練習に使うと、女性には「声が高すぎて歌えない」と感じることがあります。だからといって、一オクターブ下げて男性と同じ高さの声を出すと、今度は低すぎてなんだか変。となります。

【CDを手に入れたい】
 まず、女性の歌っているCDを見つける努力をしましょう。
 女性の歌声が録音されているCDを普通に購入できる曲なら、それをお手本にすれば問題ないですね。ポップスなどは、女性歌手のCDがあるでしょうし、男性が歌っていても比較的「女声にも歌える範囲」の高さのものが多いようですが、いかがですか?
 男女の差が明確なのは沖縄民謡の場合でしょう。女性の場合は調弦が低いですよね。男性は「B」や「C」あたりかと思います。女性は「A」かもっと低いくらいでしょう。有名な女声歌手のCDがいくつかありますので、見つけることは難しくないでしょう。また、男女ペアで歌っている曲は、女性に合わせて低めになっていることが多いようです。
 八重山民謡の方は、女性と男性が同じくらいの調弦で歌っていることが少なくないようです。高音を好む人が多いこと。そして、男性の歌に合わせて女性が返しを入れるという形が多いことがその理由かもしれません。ということは、八重山民謡の場合は、女性の声が録音されているからといって安心できない。女性なのに高すぎるということがあるわけですね。
 沖縄県内ですと、沖縄音楽のCDがレコード店や三味線店に並んでいるわけですが、県外ではなかなか見つからないでしょう。そんなときにはインターネットでしょうね。また、友人が沖縄に住んでいるという場合には、テレビやラジオを録音してもらうこともできそうですね。
 みなさん、いろいろ苦労しておられるようです。ある人は「やっぱり根気なんです」ともおっしゃいました。

 どうしても見つからなかった場合はどうするか。男声のCDで練習することになりますよね。


【男性のお手本で練習する】
○CDは聞くだけ
 繰り返しになりますが、同じ調弦で歌っても、女性は男性の1オクターブ高い声で歌っています。女性は声が高いから、調弦も高くしたほうがいいだろうと、男性より高くすると、高すぎて苦しくなります。ですから、男性よりも低い調弦で歌うのが普通です。
 その点を考えると、男性のお手本で歌うときには、調弦に注意して、無理に高い声でがんばりすぎないことでしょうね。
 「そんなこと言ったって、CDが『C♯』で、私の三線が『B』だったら一緒に弾けないよ?」
 そうなんです。無理です。ですから、CDは耳で聞く。聞いて覚えたら、ご自分に合った高さの三線を弾いて歌うわけです。きちんと覚えていれば、問題なく歌えるはずです。歌持を弾くことで、自然に「キーの変更」が頭の中でできてしまうのです。

○パソコンでキーを変更
 どうしてもCDと一緒に歌いたい。と思っている人もいますよね。そんなときに便利なのが、本日ご紹介するこれです!と言いたいのですけれど、私は持っていません。私が持っていなくても、作ってくれた人がいらっしゃるんですねえ。それがフリーソフト。
 知人からの情報では、「音程」を変えることができる「フリーソフト」があるそうです。この二つをキーワードに検索してみてください。スピードを変えずにキーだけを変えられたり、キーを変えずにスピードだけ変えるという芸当ができるソフトが、無料で入手できるそうです。ありがたいことです。
 ソフトのダウンロードをしなければならないこと。音源をパソコンに取り込む必要があること。そして、パソコンの前で歌の練習をすること(?)など、クリアすべき点はいくつかありそうですが、キーの違いに悩んでいる人にはとても便利なものだと思います。私は、パソコンについての知識が乏しいですから、もっと詳しい人に聞いていただくほうがよいでしょう。近くにそういう人がいない場合は、掲示板を探して書き込んでみてください。丁寧に教えてくれる人が、必ず見つかります。

○高い声に合わせてみる
 そのまま男性の声に合わせて歌ってしまうというやり方もあります。
 「キーが合わなくて困っているっていうのに、そのまま歌え?どういうこと?」
 こういうことです。
 CD(男声)の方が高すぎて歌えないという女性がほとんどですよね。もし、無理にCDに合わせようとすると、声が出ません。それでも出すとすれば?そうです。裏声です。
 裏声で練習するとよい。そういう人もいますので、一度お試しを。練習しているうちに、けっこう高い声で歌えるようになるみたいですよ。
 ただし、無理して、喉をいためないようにしてくださいね。