囃子と返し | ||||
以前、質問をいただいたことがあるんです。
簡単なことのようですが、説明するとなると難しいですね。 『声楽譜附八重山古典民謡工工四下巻(改訂増補)』の『安里屋ゆんた』を見てみますと、
「 」でくくられた部分は、歌い手が声を出す部分。『 』の方は、歌い手とは別の人が返す部分。そうです。つまり『 』が【返し】ということです。この書き方は、好感が持てます。ただ、その意味を凡例にでも書いていてくれればもっとよかったです。(どこかに書いてあったら、ごめんなさい。私が見つけられなかっただけです) ということで、言葉で説明するならば。 【返し】=歌い手とは、別の人が歌い返してくれる部分。 と書いておけばよいでしょう。 では、「 」の方が【囃子】ということになりそう。 【囃子】=歌の中で繰り返して使われる言葉。 こう表現すればよいと思いますが、これですと、【返し】にも当てはまることになります。ちょっとややこしい気もしますが、【返し】の意味をしっかりと理解していれば、混乱しないでしょう。 一般的に、「ゆんた」を歌う場合は、二手に分かれて、掛け合いで歌います。ですから、ここで示したような、【返し】と【囃子】の区別が歌い手の頭の中で整理しやすいですね。 ところが、一般的な民謡になりますと、そもそも掛け合いで歌うものが少ないですし、少々わかりにくくなる場合もあるようです。 たとえば、エイサーなどでは「イーヤーサーサー」というかけ声に『ハーイーヤー』と返しが入ります。これも【返し(けーし)】ですよね。先ほどの『安里屋ゆんた』の【返し】とは違うものです。説明するならば、こうなるでしょうか。 【返し】=ある言葉(かけ声、歌)に対して、それに応え、補完するために別の人が声を出すこと。 つまり、「この歌の、この部分で必ず使う」と決まっている言葉ではないんです。あるきっかけ(この場合には「イーヤーサーサー」)に対して、声を出して応える(この場合『ハーイーヤー』)のが【返し】なんですね。 また、沖縄民謡の『多幸山』をCDなどで聞いてみますと、「いった山田や・・・」とか「あぬ山いかわんくぬ山いかわん・・・」などという、こっけいな言葉が出てきます。これも【囃子】と言えそうです。この【囃子】は、「繰り返し使われる言葉」ではありません。説明するならば、 【囃子】=歌の調子を整えるための、特別に意味を持たない言葉。 の方がよさそうです。「意味を持たない」という表現は、いささか抵抗があるのですが、歌詞に直接関わらないという程度にとらえてください。これも、「必ずこの言葉」と決まっているわけではないですから、「ゆんた」の【囃子】とは違った理解になりますね。 【囃子】と【返し】。この二つをしっかりと区別できるかどうかで、特に何かが変わるというわけではないのですが、気にし始めると、気になりますね。 ちなみに、「ヒヤ」「イヤササ」などのかけ声を「ヤグイ」あるいは「ヤングイ」と呼ぶこともあるようです。 |
歌と三線の割合 | |||||||
琉球古典、沖縄民謡、宮古民謡、八重山民謡。 沖縄県の伝統的な音楽を、仮にこの4つに分けたとします。それぞれの愛好家に質問。
『5対5』それとも『4対6』? 『いやいや、7対3で歌だね』 『カチャーシーはむずかしいよ。やっぱり三線が7割』 三線を練習し始めた人は、「1対9」で三線でしょうか。だって、みんな三線が弾きたくて練習を始めるんですよね。中には、三線教室に行って「三線って、歌もセットなの?」と驚いた、なんていう話もあります。そういう人は「三線10割」だったわけでして。 でも、どうです?練習を続けているうちに、本当に難しいのは歌だなあ、と感じ始めたのではないでしょうか。 人それぞれですけれど、特に八重山民謡をやっている人って、他のジャンルの人よりも、歌の割合を高く、三線の割合を低く言いそうな気がしませんか?八重山には「ゆんた」「じらば」などと呼ばれる三線伴奏なしの歌もたくさん受け継がれていますし。あの有名な「トゥバラーマ」だって、もともと三線伴奏なしで歌っていたようですよ。 学生時代、八重山芸能研究会というサークルに所属していた私も「三線はただの伴奏。歌を聴かせるんだ」って思っていました。 ある時、2つ上の先輩にこう尋ねました。
私は、先輩が頷くのを待っていました。「おお!よく気が付いた。お前も一人前だねえ」なんて言ってくれるかもしれないと。ところが、 「うーん。やっぱり三線が大切じゃないか。半分以上三線だろう」 これには、私はもう驚いてしまって。先輩の言わんとしていることが何かを、頭の中でグルグルと探し回るばかりで、それ以上質問を続けることはできませんでした。 あの先輩の言葉を、20年以上たった今、考えてみます。 1,「私は、歌が得意なんだ。三線をもっとうまく弾けるようになりたいんだ」 先輩は歌がうまかったんです。高音もきれいに伸びるんです。節回しも民謡らしい味がありました。三線がヘタなわけではありません。早弾きだって何だって弾いていたのですが、ただ、「テンポが不安定になる」と言っていた記憶があります。つまり、自分にとって練習すべきことは、「歌よりも三線だ」ということだったのかもしれません。 2,「おまえの三線の弾き方、雑になっているよ」 ちょっと三線が弾けるようになると、早弾きをやってみたくなって、それができるようになると、もう三線は大丈夫という気になってしまいます。特に、八重山民謡の場合は工工四通りに演奏することはそれほど難しくありません。いつのまにか、私の三線の演奏がいいかげんになっていたのです。今でもそうですが、当時は今以上にガチャガチャと雑な弾き方をしていました。そんな私に対して、もっと丁寧に三線を弾きなさいと言いたかったのかもしれません。 3,「だれだって、歌が上手くなりたい。だからこそ三線を大切に考えなければいけない」 歌を活かすのが三線です。いくら歌が上手く歌えても、三線が歌を殺してしまってはいけないわけです。歌は「もっときれいに、上手に」と努力を続けますが、三線は「間違えずに弾けた」ところで完成だと思ってしまいます。歌が上手くなったら、三線もその「うまい歌」を活かせるような演奏にならなければいけない。そう考える人は、案外少ないのかもしれません。先輩の真意はこれだったのでしょうか。 4,「八重山の人は、三線を軽視しがち」 上手い人もいますが、八重山民謡では、三線の演奏技術はそれほど重要視されていない、かもしれません。 あるテレビ番組で、嘉手苅林昌氏の息子さん嘉手苅林次氏がこんなことをおっしゃいました。 「まだ、父の三線の音は、出せません」 このままの言葉だったかどうかはわかりませんが、とにかく、林次さんは歌のことではなくて、三線の音のことを口にしておられました。 嘉手苅林昌氏は、故人となられた後もCDが発売されるなど、沖縄民謡界では最も人気のある歌手の一人です。飄々とした風貌と独特の歌声で有名なのですけれど、林昌氏の三線のことを話題にする人は、それほど多くないでしょう。三線の話題ならば、もう一つの巨星、登川誠仁氏の早弾きのすばらしさが取り上げられてしまう。というのも理由の一つかもしれませんが。 昔、友人がこんなことを言っていました。
「そう。早弾きでも、嘉手苅林昌の方が上なんだよ」 本当に登川誠仁氏がそんなことを言ったのかどうか、確かめたわけではありませんが。そんな気もしてきます。 で、あらためて林昌氏の三線を聴いてみると、あの声に合っていますよね。軽やかで美しいです。味わいがありますよね。早弾きは、速さを競うのではなく、心を浮き立たせるような演奏が大切。その見本のように思えてきます。 三線は歌の伴奏ですけれど、三線の音が曲のイメージまで変えてしまいそうです。 で、先輩の言葉の真意は。『三線軽視の八重山民謡界』への警鐘だったのかも? 先輩の言いたかったことが何なのか、言葉の通りなのかその裏に言いたいことが隠されていたのか、今もわかりません。「どっちも大切、でいいんじゃないの?」と言えばそれまでですけれど、私自身が歌三線を考えるよい機会だったと思いますし、今もこうして考えることができるのは先輩のおかげだと思っています。 |
CDみたいに聞こえない | |||||
自分の演奏を、MDに録音して聞きますと、なんだか違っているような。 何と違っているかといいますと、今まで聞いていたCDと比べているわけです。 プロと同じように演奏できるとは思っていません。でも、プロのCDと比べると、違うんです。違いすぎるんです。となれば、疑いたくなるのは「工工四」でしょう。
と、言いたくなる気持ちはわかりますが、ほとんどの場合、工工四の問題ではないと思います。疑われるのでしたら、違うかどうか、聞き比べてください。え?早弾きなんかですととてもじゃないけれど「違い」を発見できない?ですよねえ。まあ、ここは私の話を信じておいてください。工工四のせいではありません。 じゃあ、腕の違い? と言ってしまうと身も蓋もないです。それよりもまず、人数の違いを心得るべきでしょうね。 『島唄』という、たいへん流行した歌があります。この歌を歌いたくて三線を始めたという人も少なくない、かどうか調べていませんが、そういう人はきっといます。あなたもそうですか? 早く『島唄』を演奏したいのに、とりあえず『安里屋ユンタ』から練習して、なんとか演奏しながら歌えて工工四がわかるようになり、いよいよ『島唄』に挑戦。なんだー、けっこう簡単じゃないのー。と楽しく歌っている時は良かったのですけれど、自分の歌を録音して、それを聴いてびっくりしたでしょう。
これはもう、しかたないでしょう。CDの『島唄』は、三線だけで演奏しているのではなくて、ベースやギターやドラムなどの中に「三線も入っている」わけです。それを、三線だけで演奏して録音すれば、「CDと違う」のはあたりまえです。
なるほど。たぶん、ご自身で歌っているときには、実際はあなたの三線しか鳴っていなくても、あなたの心の中では、あの豪華な音の重なりが響いているんですよ。だから、演奏しているときと、録音を聞いているときとでは印象が違ってくるんでしょうね。 『島唄』のような、西洋楽器と一緒に演奏している曲でなくても、人数の違いは大きいです。 いわゆるカチャーシーの曲。ギターもベースも入っていませんけれど、三線が複数だったり、太鼓が入ったり、にぎやかなかけ声が盛り上げてくれていたり。CDは、それなりの人がそれなりの工夫をして録音しているわけですから、なかなか一人で太刀打ちできるものではありません。 この「人数の違い」をきちんと理解した上で、それでもなお「何か違う」と感じておられるのでしたら、ご自身の歌三線をチェックし直してみてください。
なんて言わないでください。大切なことを忘れています。CDのような「豪華な」演奏はできなくても、あなたが演奏しているということが、聞いてくださるみなさんにとってはどれほど大切なことか。すこしくらいしょぼくれていても(失礼)、生演奏に勝るものはありませんから、是非みなさんのために、ご自身のためにも、演奏してください。 |