GO MOUTH HERE MOUTH 工工四に頼りたい
○初期の工工四

 「屋嘉比工工四」と呼ばれるものがあります。18世紀頃に編纂されたもので、現存する最古の工工四だそうです。
 この「屋嘉比工工四」の写しが製本して売られていました。買っちゃいましたよ。使い道はありませんけれど。
 中を見ますと、例の文字が並んでいるわけですが、おもしろいのは枠がないこと。今の工工四は、枠があって、その中に〈工〉だの〈五〉だのが整然と並べられています。そうしないと、どの音をいつ鳴らせばよいのかわかりませんものね。枠(升目)の中央に書かれた文字から、次の枠の中央に書かれた文字までが一拍子。その間に文字があれば、一拍子の真ん中でその音を鳴らしますよということがわかります。つまり、これでもって、音の長さ、リズムがわかるわけでして。
 ところが「屋嘉比工工四」には枠がなくて、ただ文字がならんでいるだけ。つまり、初期の工工四は、工工四を見ただけで演奏できるというものではなくて、「覚え書き」のようなものだったのですね。だから、知っている曲についてのみ、この工工四が役にたつわけです。
 この工工四は「現存する最古」であって、これ以前の工工四がなかったということではありません。しかし、今の工工四のように整ったものが、これ以前にあったとは考えにくいですよね。とすると、三線の歴史は、14〜5世紀からとも言われていますが、少なくともこの「屋嘉比工工四」の時代までは、まだ覚え書き程度の工工四しかなかったと考えてよいでしょう。

 「野村工工四」というのは、見たことはありませんが今の「野村流工工四」のもとになっているものだそうです。この「野村工工四」に至って、ようやく、あの見慣れた枠ができたんですって。この工工四が編纂されたのは、1869年。もう十九世紀ですよね。どうやら、この時期までの工工四は「覚え書き」の域をでなかったようです。
 さあ、これでいつでもどんな曲でも歌えるぞ。というわけにはいきません。この工工四には、歌の音程が書かれていないんです。
 1941年「声楽譜附野村流工工四」で、ついに声楽譜(声の工工四)が登場。よくもまあ、こんなすごいものを作ったものです。大変な苦労があったと思いますよ。


○初見がきく
 ピアノを弾く人は、この言葉を使うことがあります。私はまったく弾けませんが、言葉だけ聞いたことがあります。
 「初見(しょけん)がきく」というのは、今まで弾いたことのない曲でも、譜面を渡されればその場で演奏できてしまうということ。もちろん両手で。(ここで、ピアノを弾く人は笑ってくれるはず)
 とにかく、すごい技術ですよね。
 念のために書いておきますが、初見がきくからといって、まったく練習せずに曲を完成させられるという意味ではありません。言い方は悪いですが「とりあえず弾ける」ということですので。完成させるには、その一曲をそれなりに練習し続けなければならない。のだそうです。

 「初見がきく」という言葉を三線に当てはめますと、工工四を見てすぐに演奏できるということですよね。なんだ、それなら造作もないこと。ちゃんと両手で演奏できるよ。と思ってはいけませんよ。三線の場合、歌も一緒ですから、「初見で弾いて歌える」ことが必要になります。これはちょっと辛いですよね。

 中には声楽譜がついた工工四を見ながら、初見で歌う器用な人がいるかもしれませんが、それでもこんな問題がつきまといます。

 工工四とCDが違う。

 これに悩む人は多いですよね。初見でという話ではなくて、普通に練習しているときに悩む人がです。
 ところが、おもしろいことに、その悩んでいたはずの人たちのほとんどが、やがて悩まなくなっていきます。いえ、悩んではいるのですが、諦めている、あるいは、「そういうものなのさ」と納得してしまっているという方が正しいでしょうね。

 ということで、三線の世界では「初見がきく」という言葉を使うことはなさそうです。

つまり、工工四に頼って演奏することができないということになるのか?

 その通りです。じゃあ、何のための工工四なんだあ!って、怒らない怒らない。そのうち慣れますって。

○工工四がおかしい

 どうして、工工四とCDとが合っていないのでしょう。

(1)誤植、誤記のたぐい
 「どう見ても、おかしいよねこの工工四!」と、三線を手にしたまま凍りついてしまうこともあります。というのは大袈裟ですけれど。
 このような「工工四の間違い」については、後に訂正されるであろうことを祈るばかりです。

(2)演奏(三線の弾き方や歌い方)に、いくつか種類がある
 これが一番多いようです。特に、沖縄民謡の場合は、同じ歌でも人によって違っているのがあたりまえと言ってよいでしょう。同じ人でも、昔と今とでは違っていたりします。昨日と今日で違う場合もあるでしょう。
 ならば、その「いろいろな歌い方」を列挙してくれればよいのに。なんて思ったことありませんか?実際、一つの曲を二つのパターンで書いてくれている工工四もありますが、決して二つのパターンだけ存在しているということではありません。他のもあるわけです。
 代表的な歌い手の歌い方だけを集めても、けっこうな数になりそうですよね。数曲で一冊の工工四になってしまったりして。資料としてはおもしろいでしょうけれど、「商品」にはなりそうにありませんね。

(3)工工四の限界
 コンクールをめざす人=新人賞などに合格することを目標にしている人は、正確に演奏して歌いたいと常々考えているでしょう。なのに、師匠の歌と工工四とが違っていたりします。まあ、コンクールの課題曲の場合には、三線の音が違っているなどという大きな違いではなくて、歌い方の細かい部分の違いが気になるわけです。

 師匠と工工四、どっちが本当なんだ!

 いろいろな歌い方が存在するということについては、このHPの「正しい歌って何ですか?」も見ていただきたいと思います。ここでは、正しい歌に対する考え方ではなくて、工工四について考えましょう。
 コンクールでは、合格できるかどうかがかかっていますので、「どっちの歌い方でも、ま、いいか」なんて言っていられません。どうしても神経質になってしまいますよね。
 でも、工工四には限界があります。一番わかりやすいのは、拍子でしょう。二分五厘より小さく区切ることができないんです。一般的に用いられている記号についても、限りがあります。ですから、小節(こぶし)や声の微妙な揺れ、三線の音と声を同時にださずに、ほんのわずかずらしたりといったことを、そっくりそのまま工工四に書き換えることは不可能なんです。
 ですから、師匠の歌と工工四を比較すると、微妙な違いが出てくるんです。

いや、そうじゃないんだよ。師匠のCDは、この場所で、つまり五分で声を上げているけれど、工工四は二分五厘で上げることになっているんだ。これ、ぜったいにどっちかが間違えているよね五分と二分五厘じゃあ、明らかに違うものね」

 師匠の声が、五分で上がっている。ように聞こえているかもしれませんが、師匠は二分五厘で上げているつもり。かもしれません。よーく聞いてみてください。ほら、二分五厘の所で、耳には聞こえなくても、師匠の気持ちが上がっているのがわかるでしょう?わからない?じゃあ、師匠も人間ですから、間違えて覚えていることもありえますよね。

 人には、クセがあります。鼻をこすったり袖をひっぱったりというのもクセですが、歌い方にもクセがあるものです。そのクセが、工工四に書かれている声の上げ下げとは別の音を作り出してしまうこともあります。師匠の歌から、クセの部分を濾過して、本来のメロディーだけにしてしまえば、工工四とぴったり一致するかもしれません。それも歌を学ぶ一つの方法と言えるでしょう。ですが、師匠のクセまで学び取ってしまうというのもおもしろいものです。クセとはいいますが、終始一貫したクセは、味であり、理にかなった歌い方でもある。と私は思っています。
○工工四と五線譜

 三線を弾く人は、必ず一度は工工四に文句を言ったことがあるはずです。「おかしいよ、これ!」とか「CDとちがうじゃん!」とか。でも、ピアノやギターの演奏で、五線譜を使う人たちはどうなんでしょう。まあ、読みにくいとか誤植があったとか、そういう可能性はあるでしょうけれど、工工四の場合のような「文句」をつける人はいないのではないか、と思っています。
 どちらも、演奏者が見て演奏できるもの。のはずなのに、なぜこうも違うのでしょうか。その理由はこれです。

 工工四の場合は、先に演奏がある。

 クラシック音楽の作曲というと、ピアノの譜面台(?)に五線紙を置いて、頭をかきむしりながら、鍵盤をたたき、ペンで書き込み、また鍵盤をたたく。という姿を想像します。本当は、ピアノなんて必要なくて、頭の中で考えて書くことができるのかもしれませんし、森を散歩しながら曲作りをしたのかもしれませんけど。
 とにかく、作曲という言葉には、曲を作って譜面にするという作業まで含まれているのが普通です。そのあとで、演奏家が集まって、その譜面をもとに演奏するのでしょう。

 ところが、沖縄の古典や民謡は違います。先に演奏があって、その演奏は、次の世代に受け継がれていくわけですが、その過程で工工四という覚え書きが発案されたのでしょう。

 五線譜は、演奏者に手渡され、それを基準として演奏するわけですが、これに対して、工工四は、演奏できる人の覚え書きから出発している。その点からして、五線譜と工工四は別のものと考えるべきなのでしょう。工工四に、五線譜のような期待を持つことが間違えているのかもしれません。
 工工四が発案された当初は覚え書きであっても、それから長い年月が過ぎ、工工四を基準に練習する人も増えているのに、まだ工工四を信用できない。というのは、確かに残念なことではありますが。現実は、まだ覚え書きというしっぽをひきずっているようですね。

 ところで、五線譜には、その曲を演奏するための、すべてが書き込まれているのでしょうか。
 いいえ。そんなこと、無理です。五線譜を使うクラシックの世界でも、五線譜にすべてが書き込まれているわけではありません。簡単にいえば、同じ五線譜を使っても、演奏者によって違ってくるわけです。これについては、工工四も五線譜も、「どちらも紙に書かれたもので、限界がある」という点で共通しています。まあ、沖縄民謡のように、使う音が変わったり、音の数が増えたり減ったりということはないでしょうけれど。
 クラシックでは、演奏者がその曲(五線譜)を、どのように「解釈」するかが重要らしい。書いてあるとおりに音を出せばいいというわけではないんです。あの有名なベートーベンの曲の「ダダダダーン」という部分も、どれくらい延ばすかは、演奏者(指揮者)によっていろいろらしいですよ。
 工工四にも、同じような言葉を使えばよいのかもしれません。その曲をどのように解釈するか。それで、個性もでてくる。違うのは、クラシックでは五線譜を基に、いろいろな解釈があって、それがいろいろな演奏になっていくのですが、三線音楽の場合は、先に一つの曲があって、いろいろな解釈があって、それを工工四にしてきたために、いろんな工工四があったり、演奏とまったく合わなかったりするのでしょう。やはり、「先に演奏がある」というわけですね。


○自分で作る

 CDに合った工工四がなければ、自分で作りましょう。作るのは三線の工工四。声楽譜まで作りたければどうぞ。

(1)取りあえず、工工四通りに弾けるようになる
 市販の工工四に書かれている通りに弾けるように練習します。そして、CDに合わせてみる。合わない部分を見つけて、そこを訂正していく。これが一番簡単な方法です。

(2)一から作る
 工工四が、存在しないという場合です。あるいは、工工四が信用できないので、自分で作ってしまうという場合です。
 CDを聞きながら、書き写す。という芸当のできる人もいますが、これは難しい。これのできる人が近くにいたら、その人にお願いするのが一番です。
 どうしても自分でやりたければ、まず、CDを聞いて、自分の三線を調弦することが必要ですよね。そのコツは。

 ※一番低い音を探しましょう。〈合〉である場合が多いです。
 ※濁りのない澄んだ音は、開放弦だと思います。
 ※歌持の最後の音は開放弦が多いようです。
 ※歌(メロディー)の最後の音も、開放弦が多いようです。

 とりあえず、本調子に合わせます。うまくいけばよし。いかなければ、二揚か三下げを考えてみます。何事も、慣れです。何度かやっていると、できてくる。と信じましょう。
 こうして、なんとか調弦できたら、歌持から確実に書き写しましょう。
 歌持は、その曲の顔のようなものです。歌持のメロディーが、そのまま歌の中にも使われていることが多いですし、そうでなくても、歌持に出てくる音が、その歌を構成している場合がほとんどです。ですから、歌持を確実に書き写せたら、それを確実に演奏できるようになって、それから歌にとりかかりましょう。
 左手中位から〈上〉の位置に戻ったりという複雑な動きをするものもありますが、最初から心配ばかりしていてもしかたありません。工工四を作りたいのでしたら、上に書いたような方法で、とにかく挑戦してみることです。



GO MOUTH HERE MOUTH 囃子と返し
 以前、質問をいただいたことがあるんです。

 工工四を見ると、繰り返す部分はカタカナで書いてあります。その部分を【囃子】というのですか。それとも【返し】でしょうか。この二つの違いは何ですか。

 簡単なことのようですが、説明するとなると難しいですね。

 『声楽譜附八重山古典民謡工工四下巻(改訂増補)』の『安里屋ゆんた』を見てみますと、

サー 安里屋ぬくやまにヤゥ 『サーユイユイ』
あん美らさ 生りばしヤゥ 『マタハーリヌ』 「ツィンダラカヌシャーマヤゥ」

 「 」でくくられた部分は、歌い手が声を出す部分。『 』の方は、歌い手とは別の人が返す部分。そうです。つまり『 』が【返し】ということです。この書き方は、好感が持てます。ただ、その意味を凡例にでも書いていてくれればもっとよかったです。(どこかに書いてあったら、ごめんなさい。私が見つけられなかっただけです)
 ということで、言葉で説明するならば。

【返し】=歌い手とは、別の人が歌い返してくれる部分。

 と書いておけばよいでしょう。

 では、「 」の方が【囃子】ということになりそう。

【囃子】=歌の中で繰り返して使われる言葉。

 こう表現すればよいと思いますが、これですと、【返し】にも当てはまることになります。ちょっとややこしい気もしますが、【返し】の意味をしっかりと理解していれば、混乱しないでしょう。

 一般的に、「ゆんた」を歌う場合は、二手に分かれて、掛け合いで歌います。ですから、ここで示したような、【返し】と【囃子】の区別が歌い手の頭の中で整理しやすいですね。

 ところが、一般的な民謡になりますと、そもそも掛け合いで歌うものが少ないですし、少々わかりにくくなる場合もあるようです。
 たとえば、エイサーなどでは「イーヤーサーサー」というかけ声に『ハーイーヤー』と返しが入ります。これも【返し(けーし)】ですよね。先ほどの『安里屋ゆんた』の【返し】とは違うものです。説明するならば、こうなるでしょうか。

【返し】=ある言葉(かけ声、歌)に対して、それに応え、補完するために別の人が声を出すこと。

 つまり、「この歌の、この部分で必ず使う」と決まっている言葉ではないんです。あるきっかけ(この場合には「イーヤーサーサー」)に対して、声を出して応える(この場合『ハーイーヤー』)のが【返し】なんですね。

 また、沖縄民謡の『多幸山』をCDなどで聞いてみますと、「いった山田や・・・」とか「あぬ山いかわんくぬ山いかわん・・・」などという、こっけいな言葉が出てきます。これも【囃子】と言えそうです。この【囃子】は、「繰り返し使われる言葉」ではありません。説明するならば、

【囃子】=歌の調子を整えるための、特別に意味を持たない言葉。

 の方がよさそうです。「意味を持たない」という表現は、いささか抵抗があるのですが、歌詞に直接関わらないという程度にとらえてください。これも、「必ずこの言葉」と決まっているわけではないですから、「ゆんた」の【囃子】とは違った理解になりますね。

 【囃子】と【返し】。この二つをしっかりと区別できるかどうかで、特に何かが変わるというわけではないのですが、気にし始めると、気になりますね。

 ちなみに、「ヒヤ」「イヤササ」などのかけ声を「ヤグイ」あるいは「ヤングイ」と呼ぶこともあるようです。



GO MOUTH HERE MOUTH 歌と三線の割合
 琉球古典、沖縄民謡、宮古民謡、八重山民謡。
 沖縄県の伝統的な音楽を、仮にこの4つに分けたとします。それぞれの愛好家に質問。

歌、三線。どちらも大切ですけれど、その大切さの割合って、どれくらいだと考えますか?」

 『5対5』それとも『4対6』?
 『いやいや、7対3で歌だね』
 『カチャーシーはむずかしいよ。やっぱり三線が7割』

 三線を練習し始めた人は、「1対9」で三線でしょうか。だって、みんな三線が弾きたくて練習を始めるんですよね。中には、三線教室に行って「三線って、歌もセットなの?」と驚いた、なんていう話もあります。そういう人は「三線10割」だったわけでして。
 でも、どうです?練習を続けているうちに、本当に難しいのは歌だなあ、と感じ始めたのではないでしょうか。

 人それぞれですけれど、特に八重山民謡をやっている人って、他のジャンルの人よりも、歌の割合を高く、三線の割合を低く言いそうな気がしませんか?八重山には「ゆんた」「じらば」などと呼ばれる三線伴奏なしの歌もたくさん受け継がれていますし。あの有名な「トゥバラーマ」だって、もともと三線伴奏なしで歌っていたようですよ。
 学生時代、八重山芸能研究会というサークルに所属していた私も「三線はただの伴奏。歌を聴かせるんだ」って思っていました。

 ある時、2つ上の先輩にこう尋ねました。

最近、やっとわかってきました。三線より歌なんですよね。歌が8割、三線が2割っていう気がしてきました」

 私は、先輩が頷くのを待っていました。「おお!よく気が付いた。お前も一人前だねえ」なんて言ってくれるかもしれないと。ところが、
 「うーん。やっぱり三線が大切じゃないか。半分以上三線だろう」

 これには、私はもう驚いてしまって。先輩の言わんとしていることが何かを、頭の中でグルグルと探し回るばかりで、それ以上質問を続けることはできませんでした。

 あの先輩の言葉を、20年以上たった今、考えてみます。

1,「私は、歌が得意なんだ。三線をもっとうまく弾けるようになりたいんだ」
 先輩は歌がうまかったんです。高音もきれいに伸びるんです。節回しも民謡らしい味がありました。三線がヘタなわけではありません。早弾きだって何だって弾いていたのですが、ただ、「テンポが不安定になる」と言っていた記憶があります。つまり、自分にとって練習すべきことは、「歌よりも三線だ」ということだったのかもしれません。

2,「おまえの三線の弾き方、雑になっているよ」
 ちょっと三線が弾けるようになると、早弾きをやってみたくなって、それができるようになると、もう三線は大丈夫という気になってしまいます。特に、八重山民謡の場合は工工四通りに演奏することはそれほど難しくありません。いつのまにか、私の三線の演奏がいいかげんになっていたのです。今でもそうですが、当時は今以上にガチャガチャと雑な弾き方をしていました。そんな私に対して、もっと丁寧に三線を弾きなさいと言いたかったのかもしれません。

3,「だれだって、歌が上手くなりたい。だからこそ三線を大切に考えなければいけない」
 歌を活かすのが三線です。いくら歌が上手く歌えても、三線が歌を殺してしまってはいけないわけです。歌は「もっときれいに、上手に」と努力を続けますが、三線は「間違えずに弾けた」ところで完成だと思ってしまいます。歌が上手くなったら、三線もその「うまい歌」を活かせるような演奏にならなければいけない。そう考える人は、案外少ないのかもしれません。先輩の真意はこれだったのでしょうか。

4,「八重山の人は、三線を軽視しがち」
 上手い人もいますが、八重山民謡では、三線の演奏技術はそれほど重要視されていない、かもしれません。
 あるテレビ番組で、嘉手苅林昌氏の息子さん嘉手苅林次氏がこんなことをおっしゃいました。

 「まだ、父の三線の音は、出せません」

 このままの言葉だったかどうかはわかりませんが、とにかく、林次さんは歌のことではなくて、三線の音のことを口にしておられました。
 嘉手苅林昌氏は、故人となられた後もCDが発売されるなど、沖縄民謡界では最も人気のある歌手の一人です。飄々とした風貌と独特の歌声で有名なのですけれど、林昌氏の三線のことを話題にする人は、それほど多くないでしょう。三線の話題ならば、もう一つの巨星、登川誠仁氏の早弾きのすばらしさが取り上げられてしまう。というのも理由の一つかもしれませんが。
 昔、友人がこんなことを言っていました。

おまえ、登川誠仁を知ってるだろ?早弾きで有名な。でも、嘉手苅林昌には勝てないってよ」
 「早弾きでですか?」
 「そう。早弾きでも、嘉手苅林昌の方が上なんだよ」

 本当に登川誠仁氏がそんなことを言ったのかどうか、確かめたわけではありませんが。そんな気もしてきます。
 で、あらためて林昌氏の三線を聴いてみると、あの声に合っていますよね。軽やかで美しいです。味わいがありますよね。早弾きは、速さを競うのではなく、心を浮き立たせるような演奏が大切。その見本のように思えてきます。
 三線は歌の伴奏ですけれど、三線の音が曲のイメージまで変えてしまいそうです。
 で、先輩の言葉の真意は。『三線軽視の八重山民謡界』への警鐘だったのかも?

 先輩の言いたかったことが何なのか、言葉の通りなのかその裏に言いたいことが隠されていたのか、今もわかりません。「どっちも大切、でいいんじゃないの?」と言えばそれまでですけれど、私自身が歌三線を考えるよい機会だったと思いますし、今もこうして考えることができるのは先輩のおかげだと思っています。




GO MOUTH HERE MOUTH CDみたいに聞こえない
 自分の演奏を、MDに録音して聞きますと、なんだか違っているような。
 何と違っているかといいますと、今まで聞いていたCDと比べているわけです。

 プロと同じように演奏できるとは思っていません。でも、プロのCDと比べると、違うんです。違いすぎるんです。となれば、疑いたくなるのは「工工四」でしょう。

きっと、プロの演奏している工工四と、自分が見ている工工四とは違っているのよ。プロ用の工工四って売っていないかしら?それで一生懸命練習すれば、きっとCDみたいに演奏できるはず。

 と、言いたくなる気持ちはわかりますが、ほとんどの場合、工工四の問題ではないと思います。疑われるのでしたら、違うかどうか、聞き比べてください。え?早弾きなんかですととてもじゃないけれど「違い」を発見できない?ですよねえ。まあ、ここは私の話を信じておいてください。工工四のせいではありません。

 じゃあ、腕の違い?
 と言ってしまうと身も蓋もないです。それよりもまず、人数の違いを心得るべきでしょうね。

 『島唄』という、たいへん流行した歌があります。この歌を歌いたくて三線を始めたという人も少なくない、かどうか調べていませんが、そういう人はきっといます。あなたもそうですか?
 早く『島唄』を演奏したいのに、とりあえず『安里屋ユンタ』から練習して、なんとか演奏しながら歌えて工工四がわかるようになり、いよいよ『島唄』に挑戦。なんだー、けっこう簡単じゃないのー。と楽しく歌っている時は良かったのですけれど、自分の歌を録音して、それを聴いてびっくりしたでしょう。

なんだか、変!なんだか、スカスカ!なんだか、しょぼくれた感じ?おっかしいなあ。

 これはもう、しかたないでしょう。CDの『島唄』は、三線だけで演奏しているのではなくて、ベースやギターやドラムなどの中に「三線も入っている」わけです。それを、三線だけで演奏して録音すれば、「CDと違う」のはあたりまえです。

でもね、自分で歌っているときは、とても良い感じだったのよ。なのに、録音したら変になるの。

 なるほど。たぶん、ご自身で歌っているときには、実際はあなたの三線しか鳴っていなくても、あなたの心の中では、あの豪華な音の重なりが響いているんですよ。だから、演奏しているときと、録音を聞いているときとでは印象が違ってくるんでしょうね。

 『島唄』のような、西洋楽器と一緒に演奏している曲でなくても、人数の違いは大きいです。
 いわゆるカチャーシーの曲。ギターもベースも入っていませんけれど、三線が複数だったり、太鼓が入ったり、にぎやかなかけ声が盛り上げてくれていたり。CDは、それなりの人がそれなりの工夫をして録音しているわけですから、なかなか一人で太刀打ちできるものではありません。

 この「人数の違い」をきちんと理解した上で、それでもなお「何か違う」と感じておられるのでしたら、ご自身の歌三線をチェックし直してみてください。

じゃあ、一人ではどうしようもないってわけ?せっかく今度の花見で演奏しようと思ったのに。これなら、CDを聞かせる方がいいわね。はあ、残念・・・

 なんて言わないでください。大切なことを忘れています。CDのような「豪華な」演奏はできなくても、あなたが演奏しているということが、聞いてくださるみなさんにとってはどれほど大切なことか。すこしくらいしょぼくれていても(失礼)、生演奏に勝るものはありませんから、是非みなさんのために、ご自身のためにも、演奏してください。