GO MOUTH HERE MOUTH 三郎(さんだー)
 沖縄では、男の兄弟を、「たらー(太郎)」「じらー(次郎)」というふうに、順番に呼ぶことがあった。三番目は「サンダー(三郎)」と呼ばれる。

 12月の半ばになっても、ここ沖縄は暖かい。眠たくなるような日差しを浴びながら、半袖姿で縁側に座るおばあちゃんと孫。おばあちゃんは、後ろを振り返って、仏壇の横に掛けられたカレンダーを見ると、何かを思い出したように孫に話を始めた。

 「昔話、好きね?」
うん。このまえ、幼稚園の先生が、にーぶやー次郎(じらー)の話をしてくれたんだよ」
 「そう。おもしろかった?」
 「うん。おもしろかったよ」
 「じゃあ、今日はおばあちゃんが、三郎の話をしてあげようね」

 まだ、みんなが裸足で歩いていた頃の、沖縄の、ある村の話だ。
 村の一番西の家に、夫婦と二人の男の子が住んでいた。村人は、だれも裕福ではなかったが、不幸でもなかった。
 村の南には、甘井戸(あまがー)と呼ばれるわき水があった。朝には水くみに、昼には洗濯に、女たちが集まって談笑していた。
 村の北側は、山だった。男たちが山には入って、イノシシをとることもあった。薪をとるのもこの山だった。
 東は、海だった。3月には、みんなで浜遊びをした。村人は、この村に生かされていた。
 ある年、村に悪い病が流行した。夫婦は、その流行病(はやりやまい)で二人の子どもを死なせてしまった。悲しんだ夫婦は、三日三晩泣き続けた。井戸にも山にも来ない夫婦を、村人は心配して、家まで行っては話し相手になったり食べ物を届けたりした。夫婦の心も、少しずつ癒されていった。
 それから一年後のある日。あの夫婦が子どもの話をしているのを、村人が耳にした。村人は聞いてみた。子どもができたのか?夫婦は言った。三郎が生まれた。これからは三郎のためにがんばるのだと。村人は驚いて、そして喜んだ。子どもができたとは、めでたいことだ。でも、いつ生まれたのだろう。村人はだれも気づかなかった。不思議に思いながらも、夫婦の元気な姿を見て村人はみんな喜んだ。

 また一年が過ぎた。畑で鍬をふるう夫婦に村人が尋ねた。三郎は元気かと。夫婦は答えた。もう歩くようになった。別の村人が言った。一度子どもを見せてくれないか。しかし、夫婦は顔を見合わせてから、こう言った。大切な三郎を、家の外に出すわけにはいかない。別の村人が言った。子どもは、外で遊ばせるに限る。しかし、夫婦はだめだと言って、あとはだまって鍬をふるっていた。

 夫婦は、毎日一緒に畑に出て、一緒に働いていた。村人は、ときどき三郎のことを尋ねた。夫婦は、三郎の背がこれほど伸びたとか、風車を作ってやったら大喜びしたとか、嬉しそうに話をした。でも、顔を見たいと言うと、夫婦はだめだと言うだけだった。

 それから、ずいぶん年月が流れた。夫婦は年老いた。冬のある日、畑に夫婦の姿がなかった。次の日の朝、心配した村人が夫婦の家を訪ねた。
 雨戸が閉められていた。声をかけても、だれも出てこなかった。村人の一人が、雨戸を開けた。二人は、並んで死んでいた。
 だれかが言った。三郎はどこだ?家の中をくまなく探したが、三郎はいなかった。三郎は、夫婦の心の中の幻だったにちがいない。

 次の日、村人たちは夫婦を弔った。みんなが手を合わせた。だれかが言った。三郎のことも、祈ってやろう。村人たちは、夫婦と三人の子どもたちが、あの世で仲良く暮らせるように祈った。それから毎年、夫婦の命日の夜には、村人たちがあの家に食べ物を持ち寄り、それを分け合って食べるようになった。

 ある年の秋、大きな台風がやってきた。田畑は吹き飛ばされ、米も芋も、ほとんどできなかった。村人たちは、蓄えてあった食料で食いつないでいたが、冬になり、食料もそこをつくようになってしまった。

 その年も、あの夫婦の命日が来た。村人たちは、夫婦の命日を忘れなかった。わずかばかりの食料を持って集まった。食べ物は、すぐに無くなってしまった。そのとき、遠くから馬の足音が聞こえてきた。足音は、みんなが集まっている家の前で止まった。そして、大きな荷物を両方の肩に担いだ大きな男がヒンプンのこちら側に入ってきた。大男は、荷物を一つ降ろした。米だった。もう一つの荷物も降ろした。芋だった。大男は黙って立ち去ろうとした。村人の一人が、その後ろ姿に声を掛けた。

 「さ、三郎(さんだー)?」

 男は、一度立ち止まったが、振り向かずに出て行った。村人たちは男を追って外に出た。しかし、男の姿はどこにもなかった。誰かが空を指さし、叫んだ。あそこだ!三郎だ!三郎は、馬ではなく、大きなシーサーにまたがっていた。月の光に照らされて、三郎を乗せたシーサーは空を駆けていった。
 村人たちは、三郎が見えなくなるまで空を見上げていた。

それから村人は、どんなに苦しい一年でも、年末には、きっと三郎が助けに来てくれると信じるようになったんだって」
 「村の人たちの、優しい心のおかげかなあ」
 「 そうかもねえ。今年も三郎が来るかもしれないね」
 「本当?」
 「ほら、もう12月だから」
 「12月だから?」
 「 三郎が来るさー。さんだーくるさ。さんだくるさ。サンタクロース!」
 「おばあちゃん。ぼく、もう帰るね」

 三郎の乗ったシーサーの鼻が赤かったという話は、また別の機会に。



GO MOUTH HERE MOUTH メンソーレー
 「メンソーレー、って、知ってるか?」
 「メンソーレー?何そーれー?」
 「何をしゃれとんねん。沖縄の方言。沖縄弁や」
 「沖縄弁?あんた、詳しいの?」
 「なんでも聞いて」
 「ほな、まずその、メンソーレーって、何?」
 「どうぞいらっしゃいませ、という意味やな」
 「ふーん。大阪弁とはぜんぜん違うもんやねえ」
 「日本は広いっちゅうことや」
 「ほなら、ありがとう、はなんて言うの?」
 「ニーフェーデービル」
 「な、なんと恐ろしい」
 「おい、どないしたんや。何で胸の前で十字切ってるん?」
 「今、デビルって」
 「デビル?デビルとちゃう。私が言うたのはデービル!」
 「おお!デビルよりも恐ろしい、デビル、デービル、デービスト」」
なんでやねん。デビル、デービル、デービストって、そんなランク付けはないんや。悪魔とちがう」
 「悪魔とは関係ない?」
 「ないない」
 「よかった。神よ感謝します」
何で祈ってんねん。ええか、何何デービル、と言うたら、何何でございますという意味」
 「ああ、デービルは、ございます」
 「そうそう」
 「神よ、感謝デービル」
 「おかしな使い方やな。まあ、そういうことや」
 「沖縄弁って、おもしろいなあ。ほなら、犬は何て言うの?」
 「犬はイングヮーや」
 「へー。猫は?」
 「マヤーグヮー」
 「よう知ってるなあ」
 「東西南北の呼び方もおもしろいで」
 「そうなん?」
 「東はアガリ」
 「へー、東はアガリ」
 「そうや」
 「ほな、西は、おあいそ?」
そうそう、アガリの次はおあいそ。大将!なんぼ!・・・て、なんでやねん。寿司屋とちゃうんやから」
 「西はなんて言うの?」
 「西はイリと言う」
 「南は?」
 「ハイ」
 「・・・なんて言うの?」
 「ハイ」
 「どうぞ」
 「ハイ」
 「もしもし?」
 「そやから、ハイ」
 「・・・あの、すんません」
 「何や」
 「さっきからハイハイ返事だけして、答えが出てない」
 「いやいや、南のことを、ハイと言うんや」
 「ああ、南がハイ」
 「そうや」
 「北はいいえか?」
 「なんでやねん」
 「これで、おしまいデービル?」
 「もうええわ」




GO MOUTH HERE MOUTH 沖縄タイム
 「ちょっと困ったことがあってね」
 「何?」
 「ボクの彼女の話やねん。聞いてくれる?」
 「聞く聞く。なんでも言うて」
 「彼女、沖縄出身やねん」
 「この前言うてたね。それであんたも沖縄に詳しくなったって」
 「まあ、そういうことやねんけどやな。困ってんねん」
 「何に困ってるデービル?」
 「いや、デービルはええねん。あのな、彼女、よー遅刻するんや」
 「遅刻?デートに?」
 「この前も、待ち合わせの時間に30分も遅れてきたんや」
 「たまにはそういうこともあるやろ。広い心で許したろ」
 「それが、たまとちがうねん。その前も、その前もや」
 「それは困るなあ」
 「しかも、遅れてきておいて『沖縄タイムでごめーん』やて」
 「沖縄タイム?」
そう、沖縄タイム。彼女から聞いた話やけどな、沖縄の人は時間に遅れることが多いらしいねん。それを沖縄タイムと言うんやて」
へー、ほんまかいな。ほなら、沖縄の学校では2時間目に1時間目の授業をやるとか?」
 「いや、それはないと思うけど」
 「正午の時報が1時に鳴るとか?」
 「それもないやろ」
 「注文したピザが明日届くとか?」
 「冷めてしまうがな」
 「なんや、沖縄も普通やんか」
 「まあ、そうやなあ。でも、彼女は沖縄タイムなんや」
 「それは、彼女が言い訳してるだけやで」
 「そうかな」
 「遅刻は沖縄のせいやない。彼女の問題や」
 「おお、えらいキッパリと言い切ったな」
 「ええか、よう聞きや」
 「うん」
きみの彼女は、沖縄タイムという言葉を使って、遅刻の責任があたかも生育歴や環境にあるかのように印象づけ、言い逃れをしようとしているわけや」
 「はあ」
現代の日本人は、問題が起こったときに、問題そのものを見つめて解決方法を考えるよりも、まず、責任を自分以外のところに見いだそうとするわけだよ。そのことによって、問題解決が遅れたり、さらに大きな問題を起こしてしまうことがあるということに気付いてほしいものだねえ。いや、気付いていても、やはり自己防衛を優先しようとしてしまうんだろうね。そこに現代社会のゆがみがある」
 「どないしたんや、きみ。急に難しいこと言い始めて」
 「その最たるものが、今の日本政府の姿勢だよ。年金問題も・・」
 「ちょっと、わかった。もうええ。ぼくの彼女の話や」
 「ああ、そうやった」
 「どうしたらええやろ」
 「そりゃ、いっぺんガツンと言うたらんといかんで」
 「うーん。やっぱりそやろなあ。そうするわ」
ほんで、今度約束するときには『ほんまにその時間に間に合えるんか』て、聞いてあげたらええかもしれんね。もしかしたら、彼女は少しでも早く会いたいという気持ちから、待ち合わせの時間を、無理して早めにしているのかもしれんし」
 「いやー、ありがとう。きみも、なかなかええこと言うなあ」
 「見なおしてくれた?」
 「うん。見なおした。見なおしたついでにな」
 「え?」
 「そろそろ返してくれんかな」
 「何?」
 「ほら、先週貸した1万円」
 「あー、あのー、それ、もうちょっと待って」
 「待て?あの時、来週の金曜日に返すって言うてたやんか」
 「いや、あの・・・実はな」
 「実は?」
 「ボク、沖縄タイムやねん」
 「ええかげんにしなさい」


 さて、ここで問題です。次の文の中で、正しい内容が書かれているのはどれでしょう。

(1)都道府県別の集計によると、全国の小学校で遅刻者が一番多いのは、沖縄県である。
(2)沖縄では、結婚式(披露宴)の招待状に、実際の開始時刻よりも1時間早い時刻が書かれている。
(3)全国の企業の昼休みの長さを、長い順に並べると、10位までに沖縄の企業が6つ入っている。
(4)離島へ渡る船の時刻は、必ず30分遅れる。

 答えの前に。

 沖縄には沖縄タイムがあって、宮古にも宮古タイムがあって、もちろん八重山タイムもある。いずれも、「約束の時間を守らずに遅れる」あるいは「開始予定時刻より遅くなる」ことを自嘲気味に表現しているわけです。
 県民は「沖縄タイム」を自覚しつつも、どこか諦めているような風潮がありました。それでも、「沖縄タイムはよろしくない」という意識は持っていたのです。肯定していたわけではなかったはずです。

 ところが、県外からこんな声が聞こえてきます。

 時間に追われ、人生を楽しむことのできない「日本人」に対して、時間に縛られずおおらかに生きる「沖縄人」はすばらしい。

 まるで「沖縄タイム」が沖縄の美徳であるかのような声。
 同じ頃に、沖縄では沖縄文化のすばらしさをもっと認めようという気運が高まります。そこへ「日本人」から「沖縄タイム」に対する評価。これに「沖縄人」までもが、「沖縄タイム」が沖縄の文化であるような錯覚に陥ってしまう。やがて「沖縄は沖縄タイムだから。アハハ」なんて、大きな口を開けて「日本人」と一緒に肩を組んでいる沖縄県民を見るようになるわけです。そんな県民の大半は、「日本」向けの、あるいは観光向けの楽園沖縄を強調しているだけだとは思いますが。

 さて、先程の問題の答え。
 一つとして、正しい文章はありません。もし、どれか一つでも「本当かも」と思ったのでしたら、沖縄を見くびりすぎです。あなたが沖縄県民であったとしてもですよ。





GO MOUTH HERE MOUTH ええとこだっせ!
 大阪の知人からメールが届きました。その一部です。身近な場所って、なかなか行かないものですよねえ。

 話は変わりますが、私は33年間大阪に住みついていますが、恥ずかしながら「くいだおれ」が何の店なのか実はよく知りません。
 京橋がエエトコ(注1)であることは知っていますが、「グランシャトー」(注2)が何の店であるかも知りません。
 「味園」(注3)が宴会場だということは、つい最近テレビで知りました。
 「カニ道楽」(注4)もお店の前は何度も通ったことがありますが、一度も入ったことはありません。
 天守閣(注5)は小学校の遠足かなにかで上った記憶がありますが、新世界・通天閣は遠足向きではないのか(注6)、去年(当時32歳)念願叶って初めて上ることができました。
 大阪名物・名所であっても、住む者にとっては意外と行くキッカケがないように思います。家族でも、友人同士でもカニを食べにわざわざ「カニ道楽」へ行こう!などという意見は出ませんし。
 沖縄の人はあまり海に泳ぎに行かないというのを以前なにかのテレビ番組で見たような気がします。テレビの言うことですので本当かどうかは私にはわかりませんが、もしそうなら私のような「カニ道楽」に行かない大阪人と一部共通している部分があるように思います。
 「真夏の沖縄の海は日差しが強すぎて危険」という話を小4当時、先生に聞いたような記憶がありますが、こちらはうろ覚えです。


(注1)
 大阪の人(大人)に「きょーばっしは(京橋は)」と、メロディーをつけて話しかけると、ほぼ確実に「えーとっこだっせ(エエトコだっせ)」と、メロディーつきで返してくる。

(弾むリズムで)

きょ ばっ
とっ だっ
シャ


(注2)
 大阪市の京橋駅近くにある、サウナやカラオケ、食事もできるビル。「きょーばっしは」「えーとっこだっせ」のメロディーは、グランシャトーのテレビCM。深夜によく見る。


(注3)
 「味園(みその)」こちらも、深夜のCMでよく見る。


(注4)
 作曲家でタレントでもあるキダ・タロー氏が作曲したCMソング「とーれとれ、ぴーちぴち、かにりょうり〜」はあまりにも有名。

(一部、弾むように歌います=「とーれ」「ぴーち」)

とー ぴー
りょ


(注5)
 大阪城天守閣。中は博物館のようになっている。エレベーターも完備。


(注6)
 新世界、通天閣界隈は、ミナミやキタとは違った、大阪らしい猥雑さにあふれている。近年、観光地としても脚光を浴び、いろいろな意味で「きれいに」なっている。づぼらやの提灯、串カツ、などが有名。というわけで、小学校の遠足にはあまり利用されない。ただし、すぐお隣の「天王寺動物園」は子どもたちにも人気。近年、展示方法に工夫を凝らし、以前とは見違えるほど立派になった。





GO MOUTH HERE MOUTH ぴらつか
 テレビで得た情報です。
 時代劇で、江戸っ子が「べらぼうめ」なんて言いますよね。相手を罵倒する言葉。あるいは「程度が甚だしい」ことを表す言葉です。関西人の私は使ったことがありません。

 さて、先程のテレビ番組では、「べらぼう」の語源を「篦(へら)の棒」として、こんな説明をしていました。

 篦の棒=穀物をつぶす=穀潰し(無駄飯を食う人)

 まあ、この手の「語源」というのは、正しいかどうかよりも、説明そのものを楽しむというのが目的だったりしますので、信じなくてもよいと思います。試しに、インターネットで調べますと、他の説明もありましたし。

 で、このとき、ふと「ピラツカ(−)」という言葉を思い出しました。

 「ピラツカヌムヌキャー ニピシャーナ」(怠け者たちは、寝ておけ)

 西表島古見の狂言(キョンギン=お祭りの舞台などで演じられる短い劇)の一つに、この台詞があったと記憶しています。「ピラツカ」とは、八重山では「怠け者、役立たず」のこと。
 農具の「箆(ピラ)」の「柄(つか)」を表していて、「篦の柄くらいにしか使えないような役立たず」といった説明を聞いたことがあります。この説明も、私はあまり信じていませんけれど。

 で、先程の「篦棒」と「篦柄」。似ていると思いませんか?もしかして、語源は同じ?などと思っていましたら、こんな言葉を見つけました。

 「篦(へら)を使う」

 広辞苑を開きましたところ『あれにもこれにもどちらつかずの曖昧な口調をつかうにいう』とありました。「ピラツカ」の意味とは少し違いますし、「ピラツカ」の語源だと言っている人はいないと思いますが、語源の一つとしてもおもしろいのでは。





GO MOUTH HERE MOUTH もうかりまっか?
 大阪では「もうかりまっか?」「ぼちぼちでんなあ」と挨拶をすることになっているそうですが、大阪に住んでいる私は聞いたことがありません。ですが、商売人の挨拶としては、これに近いような言葉は交わされるでしょう。つまり「もうかりまっか?(儲かりますか)」に対して、商売が順調な時に「へえ、もうかってもうかって」と答えることは考えにくい。だからといって「さっぱりですわ」というのもウソをついているようで。だから「ぼちぼち(まあまあ)でんな」といった返事がよかろうと。

 いくつかの三味線店で「最近、どうです?売れます?」と尋ねたことがあります。「ぼちぼちでんな」とは返ってきませんでした。傾向としては、「以前ほど売れない」といった感じです。
 泡盛の出荷量が減少しているという話を書きました。泡盛も売れ行きが落ちているのでしょうね。泡盛は、飲めば無くなりますが、三線は弾いても減りませんので、泡盛よりも深刻かもしれません。

 三線を何丁も集める人もいますが、たいていの人は、一丁で十分。「いやいや、腕を上げるともっと良い三線が欲しくなるものさ」という意見もあるでしょうけれど、それもごく一部の人に限られるでしょう。一丁の三線すら弾かないままということも、珍しくないと思います。
 三味線店が、大儲けできなくても、せめて「ぼちぼち」程度には儲かって、良い三線を作り続けられるようならいいのですが。

 1978年。私が初めて三線を購入しようと三味線店に行ったとき、一番安い三線が5万円程度だったと思います。今の値段より、ずいぶん高いですよね。でも、三味線店が一つずつ手作りして、それで生計を立てるとすれば、これくらいの値段が妥当だったのではないかと思うのです。

 1980年代。それまで、三線関連の商品で輸入されてきたのは、木材を除けば、バチや手皮といった付属品的なものでしたが、このころから、胴や棹そのものが外国で生産され、普通に流通するようになります。当初は外国産三線の中にはひどいものがありました。でも、音は出ますので、練習用と割り切って使う人、おみやげ物として買っていく人がいて、それなりに需要がありました。

 1990年代。県内でも県外でも、三線の売れ行きが良くなってきます。この頃から外国産の品質が良くなってきます。やがて、県内生産の三線との品質の差がわかりにくくなると、これまで5万円で売られていた県内生産の三線も値段を下げざるを得ません。手間を掛けた三線を5万円より安く売っては引き合わないと考え、輸入品の棹を仕入れて、店で組み立てて2〜3万円程度で売る店もでてきます。利益は少ないですが、数が出れば商売としては十分成り立つでしょうし、高級品は自分で作って高く売ればよいわけです。しかし、安い三線がたくさん売れた時代は、それほど長続きしません。
 2005年には、売れ行きにかげりがでてきたのではないかと思います。安い三線がどんどん売れていた時代は過ぎました。三線の注目度も落ちていきます。ネット販売に力を入れることで、販路を広く探る店もでてきます。

 2007年。有名な三味線店のものを販売するとか、骨董価値があるとか、伝統的な型だとか、特別な工夫をした三線だとか、他店との差別化を図って、高額な三線を販売する店が目立ってきます。

 安い輸入三線から、高級品へ。この傾向が悪いとはいいませんが、中には納得しがたいものもあります。

 有名な三味線店ではそんな値段をつけないのに。
 骨董価値なんて、正確に鑑定する人も方法もないはずなのに。
 伝統的な型って、何が本当か、三味線店すらわからないのに。
 特別な工夫が、何に役立っているかもあいまいなのに。

 これらの商売が今のところ成り立っているようです。でも、すぐに成り立たなくなると思います。私はその方がいいと思っています。

 自分の目と耳で、良いと思った三線を買って、それを愛し続けられるような三線愛好家が増えてほしいと思います。

2007,12