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与那国小唄その2(八重山)     
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 2004年6月23日。笛名人からメールが届きました。

奥平氏が与那国をアピールする歌を作るので、その際歌詞を島の娘に依頼したらしいです。で、奥平氏は歌詞を校正後、自分の名前で発表したらしい。ホントかどうか知りませんが。

 ちょうど、私が「思ひ出の芸能」の中に『与那国小唄』の文章を書いた後でした。文中に『与那国民謡工工四全巻』と『琉球芸能事典』(那覇出版社)では、作詞を「奥平方秀」氏としていると書きました。それを読んだ彼が、先ほどのメールを送ってくれたのです。
 メールを受け取った私は、「作者がだれかという話は、いろいろむずかしい面があるもんだな」という程度に思っただけで、それほど気にしてはいませんでした。私の書いた文章を訂正する必要は感じなかったのです。

 その後、6月28日の琉球新報朝刊に、「与那国小唄の真実」という題で、記事が載せられていました。投稿者は「宮良作」氏(「沖縄」主張室主宰)とあります。記事の真ん中に、

作詞は島の女子青年団
宮良泰平さんが援助し完成

 と書かれていました。記事の文章を読みますと。

 1936年3月ごろ、与那国駐在の奥平氏が、「与那国島紹介の本を出版したい。ついては島紹介の小唄のようなものを」女子青年団で作詞するように依頼。女子青年団は村助役の宮良泰平氏に援助を請います。そして、何回も議論して作ったのが今の小唄であり、「作詞者は間違いなく与那国女子青年団。援助者は宮良泰平と併記すべき」なのだそうです。

 当時の関係者で元気に生存しているのはお一人だけ。そのお一人が、琉球新報の5月13日夕刊にあった見出し「与那国小唄 父が作詞作曲」というのを見て(父=奥平方秀氏)、たいへん悔しがり、その訂正を「宮良作」氏に依頼したということです。
 記事を書いた「宮良作」氏が、ご自身で聞き取りし、いくつかの証言も得られているようですし、信頼できる内容だと思います。しかし、だれが作詞したものであっても、私にはその反対側の人を嘘つき呼ばわりするつもりはありません。

 この記事が正しいとして、「奥平」氏は、自分が依頼して島のみんなで作ったものを、自分の名前で発表したということに、悪意はなかったのだろうとも思えるのです。そこに、実際の作詞者たちへの配慮が欠けていたとしても。
 さらに、今回の記事では「父が作詞作曲」と言い切ってしまっている点にもひっかかっているわけで、このことは「奥平方秀氏」の気持ちとは関わりのない部分になっていると思います。しかも、こちらは「父の作詞作曲」と信じ切っているでしょうから、困ってしまいます。

 女子青年団やその関係者の悔しがる気持ちはよくわかります。「奥平」氏がいなければ、この世に存在しない歌であったとしても、自分の島を紹介するために、一生懸命考えて作り上げた歌(歌詞)が、他の人の名前で発表されていたとなれば、「訂正を」したくなるのも無理はありません。しかも、島のための歌を島の仲間で作ったのに、島の人間が関わっていない歌のような書き方をされているのですから。仮に、「奥平」氏が、島の作詞者たちを代表する立場か、もしくは作詞者たちから代表として推される人物であったなら、作詞者の名前として出てきてもよいのかもしれませんが。それは難しいですね。やはりここは、女子青年団の気持ちを一番大切にするべきでしょう。

 これから先、『与那国小唄』の作詞者について、どのように伝えられるのかわかりませんが、少なくとも、この新聞記事にあるような経緯を知っておきたいと、私は思っています。


2004,7
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