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与那国小唄その1(八重山)     
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 手元にあります『与那国民謡工工四全巻』によりますと、

 与那国小唄 作詩 昭和12年作 奥平方秀

 とあります。一方、『琉球芸能事典』(那覇出版社)では、

 与那国小唄 作詞 奥平方秀 作曲 宮良長包

 となっています。あら!宮良長包氏の作曲だったの!と、無知な私は今調べて驚きました。ところが、『琉球列島島うた紀行』(仲宗根幸市 著:琉球新報社)には、

 『沖縄の歌百選』(ラジオ沖縄)刊行時奥平潤氏から作曲も奥平方秀であることが提起されている

 とあります。(奥平方秀氏と潤氏は親子だそうです)
 どなたの作曲であったにせよ、多くの人に愛されている名曲と言えるでしょう。

 ついでに、『琉球芸能事典』を見て気づいたことをいくつか。

 まず、「八重山の民謡」の項目ではなくて、「沖縄の民謡〜創作民謡」の項目に入っていることです。八重山民謡にしてほしいところですけれど、八重山民謡というと、古典的な響きがするんでしょうかねえ。

 もう一つ。歌詞が4番までしか書かれていません。

 1,波にぽっかり〜
 2,宇良部ふもとの〜
 3,沖の波間に〜
 4,やがて牧場に〜

 『与那国民謡工工四全巻』には、このほかに、

 5,涙あふるる〜
 6,一度おいでよ〜

 が書かれているんです。それに、『事典』は「4,やがて牧場に〜」ですが、『工工四』では「4,やがて夕日は〜」になっています。私は後者で覚えていました。
 さらに、囃子が『事典」で「ソレサッサ コレサッサ」。『工工四』は「〜 サノサッサ サアッサヨイヤササ 〜」と書かれています。これも、私の覚えているのは後者です。「ソレサッサ〜」の方は、メロディーも少し違っているのでしょうね。
 作詞が1937年ですから、67年前!そりゃあ、歌詞も変化しますよね。他の記事にも書いたことがありますが、口から口へと歌い継がれている間に、少しずつ変化する。それが民謡だと思います。


 学生のころ、コンパの席で与那国出身の先輩と同期の友人が、この歌の歌詞をそらんじていたこと(もちろん、6番まで)に驚きました。同時に、自分の島を愛しているんだなあと、なんだかうらやましく思えました。

 1998年の、八重芸夏合宿は与那国島でした。同期の友人も合宿を見に来ていて、久しぶりに再開したのでした。

 「宇良部岳に行ったことあるか?」

 与那国島には何度か来ていたのですけれど、いつも合宿を見るだけで、名所を回ったことはありません。『与那国小唄』に出てくる地名は知っていましたけれど、実際に行ったのは、そう、「なんた浜」くらいでしたか。

 「いえ、与那国は、空港と港と、公民館と学校くらいしか知りません」
 「何?おまえ、何回島へ来てる?」
 「えーっと・・・」

 数えようとして指を開いたのですけれど、友人はそれを静止し、いっしょに来いと言って歩き始めます。後を追いながら、

 「そういえば、東崎も見たことないですねえ」

 少し振り返った友人の顔は、呆れてものも言えないといったふうでした。

 親戚の家へ行って車を借り、私を観光に連れて行ってくれました。東崎の絶景。立神岩。宇良部岳と麓に広がる風景。与那国は、大きな島ではありませんが、まるで北海道のような雄大さを感じさせる所だと思いました。
 いろんな名所を見て回ったのも楽しい思い出ですが、それ以上に、

 「ここが、うちの牧場なんだよ。この道路ができて、こっちが使えなくなってね」
ここを下って、あそこに見える浜。あれがうちの親戚が集まる場所なんだ。魚も捕れるよ。降りるときはいいんだけれど、帰りが大変。魚は重いし、上り坂だし。ハハハ」
 「昔は、こんな道っじゃなかったよ。ああ、ここも変わったなあ」

 などという、島の人ならではの話がおもしろかったです。


2004,6
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