GO MOUTH HERE MOUTH 音の基準
 ~音の評価に新基準~

 これまで、三線の音の善し悪しは「鳴る、鳴らない」で片づけられていた。音を評価しようにも基準がなく、三線購入者が三味線店に音の希望を伝えたくても、表現の仕方がわからず、制作者は、音に対する工夫をどの方向へ持って行けばよいのかもわからない状態が続いている。

 「琉球伝統楽器研究所三線研究室」では、2002年より音の基準作りに着手。2004年には、三線の音を「味覚」「触覚」二つの項目で評価する方法を発表。その後、項目を細分化し「味覚」を「甘み」「辛み」「苦み」「酸味」の四項目(各項目を五段階評価)、「触覚」はもっとも滑らかなものを「昆布のぬめり」、触りたくないほどとげとげしいのを「アバサーの針」、その中間を「ゴーヤーのイボ」と表現し、さらにその中間も含めて五段階評価する。これらを組み合わせることで、三線の音をより詳しく評価できるようになったという。

 同研究所の阿嘉主任研究員は、

実演家のみなさんにも協力をいただいて、このような基準を作り上げることができました。これらの項目は、数値が大きいほど良いというわけではなく、あくまでも音を表現するための基準として利用していくものです。ちなみに、琉球古典の先生は「甘み3。辛み5。苦み3。酸味2」「ゴーヤーのイボとアバサーの針の中間」という三線を好んで使っていらっしゃいました。最近わかってきたことですが、辛みの強いものを好む人は、高血圧の傾向がみられます。注意したいですね」

 音の好みと健康状態の関係については、今後の研究課題だ。

 この研究の発案者であり、同研究所所長の真壁氏は、

これまで、三味線店に作ってもらった三線の音が、希望通りでないというトラブルが絶えなかったが、この基準を使えば、購入者の希望する音を制作者に正確に伝えることができるようになる。今後、三線の音をパソコンに取り込んで、その音を数値化できるソフトを開発したい」

 と、今後の研究に意欲を見せる。
(すべて冗談ですので)



GO MOUTH HERE MOUTH 三線合宿免許
 自動車の運転免許を、沖縄で合宿をしながら取得できるという「合宿免許」は有名ですが、この春から、「合宿三線教師免許」が始まるそうです。

 三線愛好者は、県内外にとどまらず、海外にまで広がっています。今現在三線を楽しんでいる人の他にも、まだ三線を手にしていないけれどいつかはやってみたいと思っている「潜在的愛好者」も含めると、その数は一千万人を越えているとも言われており、今後も歌三線を教えるための「三線教室」は増え続けると予想されています。

 このような三線音楽の広がりによって、2000年頃から「三線の不足」と「三線音楽を指導する教師の不足」が問題になっていました。
 三線製作については、機械化がすすみ、海外での生産も強化されて需要を満たすことができるようになっています。また、流通も迅速になり、三線がほしいと思えば数日のうちに手にすることができるようになりました。その一方で、教師の不足は深刻さをましています。

 古典にしろ民謡にしろ、コンクールで最高の賞をとったり、教師や師範の免許をとるには数年から10年以上の期間が必要です。たとえ、非凡な才能があったとしても、受験するには教室に通う必要がありますし、コンクールは年に一度しかありませんから、取得までの期間を短縮したくても限界がありました。

 「沖縄伝統音楽教師師範免許を考える会」は、4年前から教師育成についての問題点を話し合い、今年1月「合宿三線教師免許」を提案。4月より、第一期の合宿が始まります。

 合宿では「三線の奏法」「発音・発声」などの実技の他「琉球音楽概論」「工工四理論」「教育心理」といった講義と、県内各教室での「教育実習」、民謡酒場での「舞台実習」「接客法」「おとーり実習」も予定されています。この合宿で『教師免許』を取得すると、同時に『新人賞(相当)受賞資格』『優秀賞(相当)受賞資格』が与えられるということです。

 免許取得のための期間は、最短で60日。費用は、合宿中の食費などすべてを含めて120万円からとなっています。「考える会」では

車の免許に比較すると高いように見えるでしょうけれど、普通に教室に通って受験することを考えると、時間も費用も半分以下。しかも、沖縄の美しい自然を楽しみながら免許が取得できるのですから、県外のみなさんも、見逃せませんね。また、第一期から第三期までの合宿免許に参加してくださったかたには、『最高賞受賞資格』と『師範免許優待券』もプレゼントします。大変お得になっています」

 と言っています。これからは、「免許は合宿」というのが普通になるかもしれません。
(すべて冗談ですので)





GO MOUTH HERE MOUTH 蛇皮の寿命が延びる!
 琉球伝統楽器販売業業界新聞より
 ~蛇皮の寿命、数倍に~

 三月四日、那覇市うまんちゅ運動公園内かりゆしアリーナで行われた「第27回伝統楽器見本市」(主催:琉球伝統楽器販売組合、琉球伝統楽器製造組合、後援:沖縄県芸能芸術振興協議会)では、県内の音響機器専門会社『(株)ROF(株式会社琉球音響ファクトリー)』が開発した『三線用加振器SB30As』が注目を集めていた。

 三線の胴に使用される皮は、現在のところ「蛇皮」「人工皮」「二重張り(強化張り)」の三種類に大別される。破れる心配のない「人工皮」「二重張り」は、素材の研究と張りの技術がすすみ、音色の点では限りなく蛇皮に近付いているとも言われる。しかし、三線演奏家や収集家には本物の「蛇皮」にこだわる人も多い。「蛇皮」は音も美しさも三線に最もふさわしい最高の素材であることはだれもが認めるところだが、その寿命の短さが悩みの種だった。

 蛇皮の寿命を延ばす方法として一番効果的なのは、弱く張ることだ。しかし、一般的に弱い張り方では音にハリがなくなって良い音を作り出すことができない。では、しっかりと張られた蛇皮を長持ちさせるにはどうすればよいのか。これは、愛情をもって演奏するしかないと言われてきた。
 なぜ、愛情をもって演奏すると、蛇皮が長持ちするのか。それを検証したという話はまだ聞いていないが、一説によると、演奏することで皮が振動し、それが皮のしなやかさを保ち、破れにくくするとも言われている。

 『三線用加振器SB30As』は、その名の通り、三線に振動を与えることにより蛇皮の寿命を延ばす目的で作られたものだ。
 これを開発した(株)ROFは、音楽ホールの音響設備を設計、設置する会社である。三線をはじめとする沖縄の伝統楽器には直接関わってこなかったはずの(株)ROFが、なぜ『三線用加振器SB30As』を開発するに至ったのか。営業部長の与那城氏にうかがった。

5年前のことです。中部の小さな公民館へ、アンプの修理に行きました。公民館では、週に一度、地域の三線教室も開かれていました。たくさんの三線が壁にかけて並べてあったのです。20丁ほどありましたか。それを見ていて、不思議なことに気付いたんです。右の方に並んでいる三線には、皮の破れているのが多い。左の方には破れたものがない。そのように分けて並べてあるのかと思ってホールの担当者に尋ねましたら、何故かわからないけれど、左に置いてある三線だけ蛇皮が長持ちすると言うのです。三線を一つ手に取ってみましたら、天の裏側に数字を書いた紙が張られていました。壁の三線掛けにも番号が書かれていて、1番の三線は1番の三線掛けに掛けるようになっているんです。だから、同じ三線がいつも同じ場所に掛かっているわけです。破れたから右に寄せるといったことはしないんですよ。それにしてもどうして数字の大きな三線、つまり右の方の三線ばかりが破れてしまうのか。地域の七不思議の一つなのだそうですよ。七不思議はこの他に、人面山羊、空飛ぶムーチー、四枚目の三枚肉、それから・・・おっと話がそれましたね。えーっと、アンプの修理を終えて、帰ろうとしたとき、気付いたんですよ。並べられた三線のさらに左の方が舞台になっていて、そこに大きなスピーカーが置いてあったんです。学校の体育館なんかに置いてある、あれです。音質はよくありませんが、とにかく大きな音が出るもので。あれは公民館には不向きですね。我が社の中型スピーカーMIMIGUSUI=αを使った方が、人間の声も楽器の音もクリアに聞こえますよ。アンプにお金をかけなくてもね。もちろん、アンプもこちらでセットにして特別価格で・・・また話がそれましたね。とにかく、その大きなスピーカーは、講演会とか集会などで頻繁に使われているわけです。マイクを使ってもCDで音楽を流しても、音は全部そこから出てくる。ただ大きいだけの音ですがね。それが、先程の三線の蛇皮の寿命に結びついているのではないかと考えたわけです。左の方に並んでいる三線、つまりそのスピーカーの近くの三線は、スピーカーの振動を強く受けていたんです。だから蛇皮が破れなかった。一方、スピーカーから遠い三線は振動があまり伝わらない。だから早く破れてしまった。昔から、蛇皮に振動を与えることで、寿命を延ばすことができるという話は聞いていましたが、このホールの三線がそれを証明しているのではないか。私は、社に戻ってすぐに開発部でこの話をしました。まず、本当に振動が蛇皮の寿命を延ばすのかを検証しなければなりません。我が社には音響の専門家が揃っています。音というのは、つまり振動なんです。社の技術を使って、実験を計画しました。まず蛇皮の三線を100丁用意し、それを無作為に二つのグループに分けます。50丁ずつですね。そして、一つのグループは部屋の壁にかけておくだけ。もう一つのグループは、壁にかけて、至近距離から我が社の大型スピーカーMIMIGUSUI=β、MIMIGUSUI=αよりも大きなホールで使うタイプのものでして、低音と高音のバランスが非常に良くてですね、おっと、また話が・・・その音を聞かせ続けたのです。もちろん、温度と湿度はどちらの部屋も同じにした上でです。実験の結果は2年で出ました。壁にかけただけの三線は、46%が完全に破れ、28%には小さな亀裂や穴が開いていました。一方、我が社の中型スピーカーMIMIGUSUI=βの音を聞かせた三線は、完全に破れたのが4%、小さな穴が開いたのはわずかに2%でした。今まで、振動を与えることで蛇皮を長持ちさせることができるという話は、俗説としては伝わっていましたが、この実験で正しいことが証明されたわけです。その後3年間実験をして、最も効果的な振動と、振動を与える時間などを割り出し、ついにこの『三線用加振器SB30As』が生まれました」

 続いて、開発部の知念氏に『三線用加振器SB30As』の特徴を聞いた。

まず【As】について説明します。【As】は、当社が研究の過程で考案した振動の単位です。【1As】は【1アサドヤ=安里屋ユンタ1番を1回演奏したときに皮に与えられる振動量】のことで、一般的な蛇皮には、毎日【20As/m】=(毎分20アサドヤ)で20分間程度、つまり。一日【400As】の振動を与えることで、まったく振動を与えない場合の5倍程度寿命を伸ばすことが期待できるという研究結果を得ています。振動の与え方については、連続して【400As】を与えるのではなく、朝と夜、【200As】ずつに分けて与える方がより効果的です。また、厚い蛇皮の場合は2割程度増やして25分間、総振動量【500As】を目安にすると良いでしょう。この場合も、朝に【300As】、夜に【200As】と、二度に分けることをお奨めします。当社の『三線用加振器SB30As』は、最高【30As/m】まで加振量を上げることができますので、時間のないときにも安心です。さらに、タイマー機能がありますので、毎日決まった時刻に決まった時間だけ振動を与えることが簡単にできます。例えば、就寝中に自動的に加振するように、一度セットしておくだけで、特に意識しなくても毎日加振してくれるわけです」

 『三線用加振器SB30As』の構造は、外から見る限り単純だ。形は、三線用のハードケースと変わりない。やや厚みを感じる程度だ。三線をケースにしまう要領でセット。右側面に小さなフタがついていて、その中に電源コードが隠れている。掃除機のようにコードが巻き取られているので使わないときはまるで普通のハードケースのように見える。左側には、メインスイッチと加振量を調整するスライドスイッチ、タイマー設定用のボタン、そして、設定した内容を確認する液晶表示がある。大きさといい重さといい、ハードケースと大差ないので、これをハードケース代わりに持ち運ぶこともできるだろう。
 目の前で操作を見せてもらったが、加振量【5~30As/m】を選択し加振時間をセット。あとはスタートボタンを押すだけ。これならマニュアルなしで誰にでもセットできるだろう。タイマーセットも目覚まし時計がセットできる人なら問題ない。また、『加振器』という名前のわりには、運転中もほとんど振動を感じなかった。内部の振動部分と外のケースの間に、完璧な防振対策がなされているらしい。そこにも音響設備で培った技術が活かされているようだ。

 (株)ROFの真壁CEOは自信を持って語る。


沖縄県が平均寿命-一位の座から転落して久しいが、伝統楽器である三線の平均寿命は、我が社の力でどんどん延ばしていくつもりです(笑)。年末には商品化したいと考えています。それまでに月産500台のラインを完成させるつもりです」

 記者と共にブースで説明を聞いていた女性客の一人、南風原さん(42歳、公務員)は、

三線と一緒に泡盛を置いておけば、この振動が古酒の熟成を促進してくれるのではないでしょうか。これが発売されたら、沖縄の家庭には欠かせないものになりそうですね」

 と熱い視線を送っていた。

 『三線用加振器SB30As』が、沖縄の文化に貢献できる日も近い。 
(すべて冗談ですので)




GO MOUTH HERE MOUTH もう一つの型を発見
『琉球伝統楽器販売業業界新聞』より

 ~もう一つの型を発見~

 三線の型は、大きく七つに分類されている。研究者の中には、分類そのものの妥当性に疑問をもつ者も少なくないが、三線工たちは、それらの分類に従って三線を製作している現状がある。
 「琉球伝統楽器研究所三線研究室」は、1980年から三線の型の調査研究に着手。県内の三線工に聞き取り調査すると共に、古い三線を所有する個人も調査対象とし、2007年12月をもって調査を終了。その後、調査結果をまとめる作業に入っているが、2008年4月1日に中間報告として『沖縄三線の型とその変遷』を発表した。一般的な七つの型と、それを細分化した型の系統図、並びに各型の標準的な形状が記されているが、その中に、興味深い一文がある。第八の型の存在の可能性についてだ。担当した下地主任研究員に話を聞いてみた。レポーターは、三線歴2年の東江美子。

 早速ですが、報告書に書かれている「第八の型」は、何と呼ばれているのでしょうか。

 「真牛(まうし)型」と呼ばれていたようです。

 作られた年代はいつごろなのでしょうか。

 三線の型が完成した年代を特定するのは、この「真牛型」に限らず、たいへん難しいのです。三線は14~15世紀に中国から沖縄へ渡来したというのが定説になっていますが、これについても、いわゆる三十六姓の帰化したのが1392年で、三線の伝来もその頃だろうという、大変あいまいな数字なのです。しかも、中国から伝来した三本の弦をもつ楽器が、すぐに今の三線の形に変化したとは考えにくいですよね。琉球王府に三線匠主取が設置されたのは1710年ですので、沖縄の三線はそれ以前に完成していたのでしょうけれど、三十六姓の帰化から1710年までの、およそ300年間のどのあたりで完成したのか、答えようがないのです。

 なるほど。「真牛型」についても、年代を特定することはできないわけですね。

 そうです。ただ、その伝承から、人頭税が始まってから明和の大津波の年までの間に作られた型であると考えられます。つまり、17世紀から18世紀ということですね。あいまいな表現ですみません。

 つまり、琉球王朝の時代であることは間違いないということですね。

 そうです。

 では、「真牛型」の特徴について教えてください。

 特筆すべきは、「真牛型」という名前です。三線の型には、「南風原」「真壁」「知念」などという呼び名がありますね。「久葉ぬ骨」を除けば、これらは制作者の名前だということになっています。「真牛型」も制作者の名前ではありますが、「真壁」らが姓であるのに対して、「真牛」は名。つまり、姓をもたない農民だったということがわかります。

 名字を持たない農民が作り上げた型というのは、おもしろいですね。

 はい。しかも、女性なんです。

 女性?

 はい。いわゆる7つの型が現代まで伝えられてきているのに、「真牛型」が三線の世界の表舞台に出てこなかった理由もそこにあります。

 「真牛型」は、永遠に知られることがなかったかもしれないのですね。

 その通りです。今回の調査で、偶然にもこのような伝承を聞き取ることができたことは、幸運とした言いようがありません。

 では、その伝承を聞かせてください。

 宮古島の城辺(ぐすくべ)に、「真牛(もうす)」という若い女がいた。ある日、首里から新しい役人がやってきた。名は、大里某。真牛は、その大里に仕えるようになった。

 大里は、首里でも三線の演奏者として有名だった。宮古島にやってきてからも、暇さえあれば三線を弾いていた。
 ある日、大里が三線を弾いていると、庭の木の陰に人の気配を感じた。真牛だった。大里と目が合った真牛は、あわててその場を離れようとしたが、大里が呼び止めた。

 「待て、真牛。おまえ、三線が好きか?」

 真牛は、大里の方に向き直り、返事の代わりに深くお辞儀をした。そして、また背中を向けて立ち去ろうとした。

 「そうか。好きなら、こっちに上がって好きなだけ聞けばよい」

 真牛は驚いたが、大里に促されて座敷に上がった。間近で聞く歌三線は、華やかで、美しく、真牛の心をとらえて放さなかった。

 それから大里は、三線を弾くときには真牛を側に呼んだ。やがて、昼間は真牛が大里の家で働き、夜には大里が三線を持って真牛の家へやってくるようになった。

真牛。おまえがそれほど三線が好きなら、ここに置いておこう。そして毎晩聞かせよう」

 大里の三線は、真牛の家に飾られた。真牛は、大里の弾く三線を聞くことが、何よりも楽しみだった。大里が来られない時には、一晩中三線を眺めていた。

 ある日、真牛の家が火事になった。太い柱以外は、ほとんど何も残らなかった。大里は言った。

心配するな。家は私が建ててやろう」
家を無くしたことも辛いのですが、何よりも辛いのは、お預かりしていた三線を燃やしてしまったことです」
お前が無事で何よりだ。三線は、また作ればよい」

 しかし、宮古島に三線を作る者などいなかった。
 
 家はほどなく建て直された。大里もまた、毎晩のように家にやってくるようになった。でも、以前のように大里の歌三線を聞くことはできない。真牛は、歌が聞けないことよりも、三線を失った大里を見るのが辛かった。
 月の明るいある夜、真牛は一人、鍬も持たずに畑へと出かけた。そして、畑の側の藪の中から、黒こげになった角材を引きずり出してきた。あの火事の翌日、真牛は、焼け残った柱を一本、ここに隠して置いたのだ。真牛は、それを新しい家に持ち込んで三線の棹を削り始めた。

 三ヶ月後、三線ができあがった。馬の皮を張り、苧麻の糸を張った。棹の形は、お世辞にも上等とは言えなかった。
 その晩、真牛の家にやってきた大里は、真牛の作った三線を見て、そのおかしな形に吹き出しそうになったが、真牛の気持ちを考えて、なんとかこらえた。

 「ありがとう。これはみごとだ。どれどれ」

 大里が真牛の三線を弾くと、驚くほど美しい音色が流れた。

ほほう、すばらしい音だ。真牛は、宮古で一番の三線職人だな。ハハハ」

 真牛も笑った。しかし、大里の笑顔はすぐに消えた。そして三線を置いて、正面から真牛の顔を見ながら、言った。

ありがとう。久しぶりに三線を弾くことができた。でも、今夜はお前に告げなければいけないことがある。いよいよ、首里に返る日が近づいた」

 大里は、任期を終えて首里へ戻ることになっていた。いつかはこの日がやって来る。それは、真牛にもわかっていた。

 別れの日、真牛は三線を大里に手渡した。そして、こう言った。

 「これを私だと思って、お側に置いてください」

 しかし、大里は受け取らなかった。

いや、これはお前が持っていなさい。お前の子どものようなものだ。私とお前のな」

 真牛は頷いて、三線をしっかりと抱きしめた。

 大里が首里に帰り、新しい役人がやってきた。金城某といった。金城も、真牛に身の回りの世話をさせようとしたが、真牛は首を縦に振らなかった。大里のことが忘れられなかったのだ。
 ある夜、金城は真牛の家に行き、三線を見つけるとこう言った。

 「あれは何だ?」
 「三線でございます」
それはわかっている。どうして、百姓の家に三線がある。百姓が三線で遊ぶなどとは、けしからん」
いいえ、遊ぶためではありません。預かったものでございます」
三線を預かる?百姓が?嘘にしてもほどがある」

 金城は、真牛の三線を取り上げ、持ち去ってしまった。その日から、金城のいやがらせが始まった。真牛は悩んだ。自分が苦労するのはしかたない。しかし、金城は真牛の親にまでいやがらせをしかけてくる。このままでは、家族は生きていけなくなるに違いない。思いあまった真牛は、とうとう海に身を投げた。

 月日が流れた。
 首里城内で、あの金城が真牛の三線を片手に、配下の役人たちと話をしていた。

金城様、宮古でのお役目、ご苦労様でございました」
いやはや、ろくでもない島だったぞ」
一度行けば、二度行くことはありませんから」
行けと言われても、行くものか」
ところで、その手にしておられるものは?」
これか。ハハハ。ひどい三線だろ。宮古島の女が、どうしてももらってください。ってな」
どれどれ。おや、まあ、アハハ、天の形の、なんと酷いこと」
これはなんとも醜悪な。乳袋も、まるで団子のようですな」
海にでも捨ててしまおうかと思ったんだが、笑い話の種くらいにはなると思ってな。アハハハ」
宮古には、まともな三線を作る人間がいないのでしょうな」
歌三線のわかる人間など、あの島にはおらんのだよ。アハハハ」

 大里は、役人たちの輪の外にいて、その話を聞いていたが、我慢できずに声をかけた。

 「その三線、私にも見せてください」
これはこれは、大里殿。とるにたらない三線ですが、どうぞゆっくりご覧ください」

 大里には、それが真牛の三線だということがすぐにわかった。

 「これを、宮古島の女が・・・」
そうです。こんなもので、私が喜ぶとでも思ったのでしょうな。バカな女ですよ。ハハハ」

 大里は、三線を手にして黙っていた。金城は、その女が自分に夢中だったと自慢げに話をした。そして、

 「その女、結局死んでしまいましたよ」
 「し、死んだ?」
 「ええ。この三線を私に手渡して、すぐに」
 「どうして、どうして死んだのですか?」
さあねえ。貧しい島のことです。人が理由もなく死んでいくことも珍しくはありませんよ。ハハハ」

 他の役人たちも大笑いをした。三線を握りしめた大里の目に、涙があふれてきた。真牛の死を知った涙か、真牛が大里を忘れ、金城に走った故の涙か。大里にもわからなかった。

そうだ。大里殿。よろしければ、その三線、差し上げましょう。三線名人の大里殿なら、そんな三線でもきっとすばらしい音を鳴らしてくれるに違いない。アハハハ」

 大里は、一礼して、三線を持ってその場を去った。

 その夜、大里は真牛の三線を持って龍潭池の畔にいた。真牛のことを思って、久しぶりに三線を弾いた。すると、龍潭の水の上に白いもやが立ちこめた。もやは大里の前に、真牛の姿を写した。

 「ま、まさか、真牛!」

 大里は、幻だと思った。幻だと思っても、声を掛けずにはいられなかった。真牛、おまえは本当に、私を忘れて金城の元に走ったのか?真牛の幻は、悲しげに佇んでいた。そして、何も言わずに、また白いおぼろになって、もやと共に消えた。大里は、しばらくだまって水面を見ていた。ため息を一つついてから、三線を弾いた。弦のふるえが、棹に伝わった。棹から、大里の心に伝わった。三線が、真牛の最期を大里に伝えた。大里は全てを知った。そして、泣いた。泣きながら、夜が明けるまで三線を抱いていた。

 その後、大里は、どんな公事にも真牛の三線を使うようになった。その三線を初めて見た者は、奇抜な形に失笑した。しかし、演奏が始まると、その美しい音に息をのんだ。

 ある日、大里は王の前で演奏した。演奏が終わると、王が大里に尋ねた。

 「大里、その三線、たいそう奇抜な形だが、型は、何と言う?」
 「型・・・でございますか・・・名前は・・・」

 大里は三線を前に置き、しばらくうつむいて考え、こう答えた。

真牛、三月真牛(みつきまうし)でございます」
おう、三月真牛か。みごとな音を奏でるものだな。どうだ、それを、もう一つ作らせたいのだが」
この型を作れる者は、もうこの世にはおりません」
腕の良い三線工に、それを見せれば」
おおそれながら、これに似たものを作ることはできても、この音を作ることは、誰にもできません」
そうか。ならば、大里。その三線を譲ってくれ」

 大里の頬がぴくりと動いた。上目遣いに王を見て、こう答えた。

はい。王様のご命令とあらば喜んで。しかし、この三線を私から取り上げることは、私に二度と歌うなというご命令をくだされたことになりますが」

 王は、一瞬の間をおいて、大きな声で笑い出した。

ワハハ。お前らしい断り方よ。わかった。それはお前が持っておけ。だが、一つだけ頼みを聞いてもらおう。その三線に、文字を入れさせよ」
 「御意に」

 大里は、王の前で胴を外し、棹を捧げてにじり寄った。王は、朱の漆を筆につけ、三線の芯に文字をしたためた。

 「三月真牛 天下に比べるもの無し」

 王は、棹を大里に返した。

 その後、「三月真牛」はどうなったのですか?

 大里の死後、親戚の手に渡ったという話はあるのですが、それが誰なのか、まったくわかりません。ペリーが来琉した際、「三月真牛」を見て「動物のような顔をした楽器だ」と言ったという話も伝わっています。これが事実なら、19世紀までは沖縄にあったことになります。ですが、その後のことはまったくわかりません。ペリーが持ち去ったと考えると夢がありますけれど、おそらく、戦争で焼失したのではないかと思われます。

 なるほど。ところで、奇抜とも表現された形状なのですが、どのような特徴があったのでしょう。

 いくつかの特徴が伝わっています。天は扁平で、正面から見ると、天の両端に円盤状の突起を取り付けたような形状になっているそうです。また、糸倉は、極端に短く、乳袋はほぼ円形だったそうです。ペリーが言った「動物」・・・もちろん、本当にペリーが目にしたとすればですが、その動物は・・・

 その動物は?

 動物の名前は、伝わっていないのですが、・・・おそらく、カラクイをヒゲに見立てたのだろうと。

 はあ、ヒゲのある動物。ですか?

 はい。あくまでも私個人の想像ですが。おそらく、ペリーには「三月真牛」がネズミの顔に見えたのだろうと思うのです。

 ネズミ・・・ですか?・・・ネズミのような三月真牛・・・みつきまうし・・・ミツキマウ・・・え?
(すべて冗談ですので)