GO MOUTH HERE MOUTH 慰霊の日
 (ある年の、慰霊の日に書いた日記より)

 カメラは、長い長い屏風を立てたような平和の礎を俯瞰する。
 ワンピースを着たおばあさんが、
 屏風の間を、手を引かれて歩いている。
 おばあさんの足が止まり、顔が映し出される。
 石に彫られた名前を探すおばあさんの目。
 一人の名前にカメラが寄る。
 少し安心したような顔。
 指が、その名前に触れる。
 目から、涙があふれる。
 名前に触れたまま、俯いて嗚咽するおばあさんの後ろ姿。

 沖縄の人たちは、「基地をなくせ」と言い続けてきました。
 基地の存在が、沖縄に大きな負担となっているから。
 そのとおりですが、ちょっとちがう。
 「基地をなくせ」は、
 沖縄からなくなれば良いといった狭い了見ではなかったはずです。
 「基地をなくせ」は、
 つまるところ、戦争をなくせ、なのです。
 そこのところが抜け落ちてしまって、
 いつのまにやら、基地をどこへ移すかという話にすり替わっている。

 ずいぶん前のことです。私が大阪の日本橋あたりをバイクで走っているときでした。ポケットの中で携帯が鳴りました。バイクを停めて出ます。笛名人からでした。めずらしく、基地の話を持ち出してきました。最近の普天間基地の報道をどう思うか、です。
 基地があって、被害があって、その苦痛をやわらげるためや補償するためになにかしらの配慮があるのは当然だけれど、ここの苦痛を和らげるために他所へ持っていくというのはおかしな話だし、それを求めていたわけではなかったはずだよね。
 そうなんですよ。あの市長も、普天間から基地がなくなっても、他所に持っていくのでは意味がないと、思っているはずなんですよ。
 最近の沖縄は、おかしいぞ。いや、報道がそうさせているんだろうな。いかにも沖縄の味方といったフリをしているけれど、根っこの所でずれているんだよ。あの県民投票のときからそうだった。一部のマスコミが「基地によって潤っているという面もあるから、本当に基地がなくなると困る人もいる」なんて、知ったかぶりをして、それを見て「本当になくなったら困るよねえ」なんて動揺する沖縄県民が出てきたりする。あの投票は、県民の理想を問うたのであって、明日突然基地がなくなってもいいですか?という話じゃあない。マスコミもそこのところをわかっちゃいない。投票では、一人残らず基地反対でよかったはずなんだ。
 ガラにもなく、携帯を握りしめて語っていました。

 おばあさんは、涙をぬぐいながら、顔を上げる。
 指が、石に刻まれた名前からゆっくりと離れる。
 少し後ろに下がって、その名前に頬笑みかける。
 名残惜しそうに立ち去るおばあさん。
 長い長い屏風に、夏の日差し。短い陰。



GO MOUTH HERE MOUTH 風車
 ある日の沖縄の旅で、ある男性から聞いた話です。

 「あちらで草刈りをしているのは、お母さんですよね」
 「そうそう。もう97歳よ」
 「お元気ですねえ。今年はかじまやーの御祝いですか」

 97歳の御祝い(数え年:旧暦9月7日ころに行われる)を「かじまやー(風車)」と呼びます。沖縄では、12年ごとに巡ってくる生まれ年(生まれた年と同じ干支)に御祝いをする習慣があります。なかでも「かじまやー」の御祝いは村を挙げて盛大に行うことが多いようです。

 地域の皆さんから御祝いしてもらえるんですね。楽しみですね。と話を続けましたが、微笑みながら否定されました。
 かじまやーの御祝いをすると、出費が大変なのだそうです。御祝いの余興をしてくれる青年会などへの寄付。子供会にも、集落にも、たくさんの寄付をしなければならない。御祝い当日だけでなく、余興の練習をしているところへも差し入れをしなければならないのだそうで、「数百万円かかる」とおっしゃいました。

 「でも、あとから御祝いが集まるとか?」
 「いやいや、お金は出ていくばかりよ」
 「それは、大変ですね」
 「だから、うちは親戚で集まって、食事会だけにしようって」
 「そうですか。その方がいいですよね。」

 ちょっと寂しい気もしましたが、集まるご親戚も大勢でしょうし、きっと楽しい御祝いになることと思います。これからも、ますますお元気で。

※ 沖縄県内のすべての集落が、同じようなシステムでかじまやーを執り行っているわけではないはずです。寄付や御祝いの方法など、集落によって違いがあると思います。家族に金銭的な負担がかからない集落もあるかもしれませんので、念のため付け加えておきます。お金の心配をせずに御祝いができればいいですね。



GO MOUTH HERE MOUTH 観光言語
 「ギターを弾きながら、宮古島の方言で歌うすごい人がいる」という情報を私が得たのは何年前だったでしょう。まだ沖縄でも知る人は少なかった頃だったと思います。その情報元が、宮古の友人、ゲンゾーでした。
 その下地勇さんが、県外でも活躍し、全国放送で取り上げられるようになりました。いえ、有名になる前から知っていたんだぞという自慢をしたいわけではありませんよ。
 ゲンゾーからのメール。最初に「少々酒が入っています」と断り書きがありましたが、内容はしっかりしていました。あいかわらず、私のような観光客には耳の痛い内容もありますけれど、一部を掲載します。

下地勇の話。宮古方言でうたうミュージシャンが、何ゆえ取り上げられるのかを考えてみると、まぁ、いろいろな見方があるとは思いますが、私なりの自論を言わせていただければ、それは、一言で言うと「こだわり」なんです。つまらんでしょう。こだわりなど誰彼が持っているもので、それが何であるにせよ、それは個人の自由であるに違いないはずです。ところが、このこだわりを持てる人が、今の宮古、沖縄にはいないと思われます。

 最後まで読むとわかるのですが、彼の言う「こだわり」とは、単に「方言で歌う」ということではないようです。

 下地勇が、同じような意味の歌を日本語、もしくはその他の言語でうたったとして何がおもしろいのか。おもしろいはずもなく、見向きもされなかったでしょう。ところが、方言、しかも、かつて「ミクロ言語帯」と形容された宮古の、さらに久松の方言でうたうからこそ注目されるのです。これは、単なる沖縄ブームという一言では片付けられないことです。沖縄ブームというか、観光沖縄に乗っかる言葉というのは、例えば、「めんそーれ」であり、「なんくるないさー」であり、「いちゃりばちょーでー」であり、その他であるわけです。それらの言葉は、もちろん沖縄であったかも知れませんが、今となっては、むしろ方言というよりはキャッチフレーズです。沖縄に気軽に観光に来た連中が、空港に降り立ったその時からヘラヘラと口に出すような言葉は方言としての価値を失っていると思われます。それでも、沖縄でこれらの言葉を使う人は、もしかしたら前述した「こだわり」があるのかしらん。と、一瞬錯覚を覚えますが、それは錯覚に過ぎないということです。宣伝にしか使われず、すでに死に体となって久しい「沖縄方言を利用した観光言語」は、方言という高い場所に届くはずも無く、むしろ、東京を中心とした観光に来る人たちのバッグの中に、ひょいと入れられる程度のものです。そうした中でも、下地勇は注目された。それはなぜか。
さっきから言っている「こだわり」が故。宮古方言というものにこだわり、それを昇華させるというのでもなければ卑下するのでもない。つまり、かつて自分たちが使っていた言葉で、故郷を表現すること。その姿勢には共感を覚える人たちも少なく無かろうということでしょう。
この現象は、ではなく、下地勇の姿勢は、1つのヒントであると考えている今日このごろです。

 「観光言語」とはおもしろい。たしかに、観光地にあふれている方言は「観光言語」なのでしょうね。「だれが使っているの?」と言いたくなるようなのもありますねえ。

 「観光言語」は、県外のお客さんを意識したものです。一方、下地勇さんの歌は、そのスタート地点においては、島の人(テレビで聞いたところでは、ご家族)に聞いてもらうための歌だったそうです。本土に媚びることのない歌。それが県外でも注目されるようになった。
 この後、メールには宮古の将来を憂う彼の気持ちが書き綴られていました。沖縄、宮古の自然を守ろうとか、子や孫の代まで文化を伝えようとか言いながら、目先のお金のために自然も文化も食いつぶしているように思える。下地勇さんの歌のように、島に根を張って本土にすり寄ることのない「こだわり」がほしい。そんなお話でした。





GO MOUTH HERE MOUTH 方言が「わかる」
共通語訳を見れば、ところどころの単語がわかるけれど、初めて聞いたとしたら、何の歌かすらわからないだろうな。あんたは?」

 私の言葉に、妻は

 「全然わからない」

 と答えたのでした。

 下地勇さんがテレビに出ていました。それを録画して、妻と一緒に見ました。宮古島(久松)の言葉で歌っているので、私にはほとんどわかりません。妻の母は、宮古島(城辺町)出身です。妻が育ったのは那覇ですが、少しは宮古島の方言を聞くことができるそうです。でも、「全然わからない」と言うのです。

 上に私が書いた「私にはほとんどわかりません」という表現は、見栄っ張りです。「ほとんどわかりません」は「少しわかる」あるいは「わかる部分もある」と言いたいわけです。単語が一つ二つわかったからといって「ほとんどわかりません」などと言うのは、傲慢ですね。

 妻の「全然わからない」は、「内容はだいたいわかるけれど、わからない単語もあって、きちんと理解することはできない」という意味です。謙虚なのではなくて、「言葉がわかる」という言葉の意味を正しく使っているだけなのでしょう。あるいは、本人の素直な気持ちなのでしょう。

 ビデオの続きを見ていました。私にわかる、数少ない単語の一つ「ふぃー」というのが出てきました。

 「あ、今のところ『残した』って訳してあった。『くれた』だよね」

 鬼の首をとったように、私が言いますと、

 「うん、でも、本人が訳しているんでしょ。いいんじゃないの」

 貫禄です。




GO MOUTH HERE MOUTH ウッチン
 「ウッチン」は「ウコン」のことです。ずいぶん違った言葉に見えますが、漢字で「鬱金」と書くと知ったとき、つながりました。

 「金武」は、共通語読みで「きん」、沖縄方言では「ちん」となります。「き」が「ち」になることはよくありますよね。
 ところが、八重山では「き」が「き」のままということがよくあります。「黒木」は、沖縄方言では「くるち」ですが、八重山では「くるき」と呼ぶ方が普通でしょう。

 それを知った上で「ウッチン」を見てみますと、

 「鬱金」=「うつ」と「こん」=「ウコン」
 「鬱金」=「うつ」と「きん」=「ウッン」=「ウッン」

 実際、八重山では「ウッキン」と発音する地域もあるそうです。こうして並べますと、ウコンもウッチンも鬱金の読み方の違いだと思えてきます。

 ウッチンは肝臓に良いとされ、お酒をよく飲む人の中には、錠剤や粉末や液体になった「ウコン関連商品」を愛用している人も少なくないとか。

 ここで、不思議に思った人はいませんか?
 沖縄では、昔からウッチンが肝臓に良いと知られていて、愛されてきた。そして、今では「ウコン関連商品」が登場して、それを食べれば(飲めば)ウッチンの恩恵にあずかれるわけですよね。でも、そんな商品が無かった時代は、ウコンをどのようにして食べて(飲んで?)いたのでしょう。

 テレビをつけましたら「ウコン関連商品」の宣伝をしていました。説明役の女性が、聞き手の男性と女性に、その商品の効能を、法的に問題ない程度に強調していました。手元には、その商品と一緒にウコンそのものも置いてあります。それを見せながら「沖縄では、飲酒の前にこれをかじる習慣もあるそうです」などと言っていました。

 え?ウコンをかじる?やれるものならやってみなさい!まあ、沖縄にもいろんな人がいますので、中には豪快にかじる人がいるかもしれませんが、やらない方が良いと思います。ウコンをそのまま食べますと、ものすごく苦いはずです。きっと後悔することになりますよ。

 先ほど、「ウコン関連商品ができる前の時代は」と書きましたが、今でも、ウッチンそのものを買って帰る人はいるわけでして。その人たちは、どのように利用しているのでしょうね。

 私が聞いたところでは、汁物に薄切りにして入れることがあるとか。他にも利用方法(調理方法)があるのでしょうけれど、案外知らないですよね。

 沖縄のウッチンを知っている。でも、その食べ方は知らない。これって、知っていると言えるのでしょうかねえ。



GO MOUTH HERE MOUTH あたらさん
 沖縄の方言は、わかりません。でも、学生の頃には単語をいくつか教えてもらいました。
 一世を風靡した(?)「ちゅらさん」という言葉は、形容詞です。沖縄方言の形容詞は「〜さん」となるのが普通だそうです。

 ちゅらさん=美しい
 あかさん=赤い
 やふぁらさん=やわらかい

 では、「あたらさん」はどんな意味?

 先輩二人の会話

 「いぇー、やーぬバイク借りよう」 (おい、お前のバイク貸してくれ)
 「え?だめだめ」
 「なんで?」
 「買ったばかりなのに」
 「あたらさんして、いびらーやー!」 (???、けちんぼ!)

 『買ったばかり=新しい』だから、「あたらさん」なのだと思っていたのですが、なんだかしっくりこないですよね。何でも尋ねてみたくなる私は、この会話に割ってはいりました

 「あたらさん、って、何ですか?」
 「あいつが、ケチだわけさ」
 「あい、ケチじゃないよ。新品なのに、誰でもあたらさんするさー」

 どうもよくわかりません。もう少しつっこんで尋ねてみます。

 「新品のことを、あたらさん、と呼ぶんですか?」
 「ちがうちがう、あたらさんは、ケチ」
 「ちがうだろー、ケチはいびらーだろう」
 「ケチだから、あたらさんするさー」
 「ちがうってば、新しいからあたらさんしてるわけよ」
 「あの・・・じゃあ、新品は、なんて言うんです?」
 「さら新品」
 「みーむん」
 「あ、そうそう、みーむんてが言う」
 「みーむんは、あたらさん」
 「そうそう」

 この後、また「借りよう」「貸さない」が始まりましたが、最後には別の先輩が「うち(私)のを借りたらいいさー」で終了しました。
 さて、「あたらさん」の方はといいますと、そのときの私はなかなか理解できなかったのですが、「新しい」とは違うということはわかりました。どうやら、

 あたらさん=もったいない。大切な。
 新品=みーむん

 といった意味だと理解できました。

 「新しい」という形容詞は「みーさん」だそうです。