島のことといいましても、島を紹介しているわけではありません。





GO MOUTH HERE MOUTH あなたの前では話せない
 なんだか、秘密めいていますが、方言のお話です。

 「したたか笑ったよ」

 と、私の「沖縄の師匠」が言うのです。沖縄の師匠は私の妻の友だちで、もちろん今では私の友人でもあるわけですが、彼女は私にとって「沖縄の師匠」として尊敬すべき人でもあります。

 まだ、師匠が結婚する前(師匠の結婚は、私よりもずっと遅かったのです)の話。豊見城村根差部にある、師匠の家での話。招き入れられた私は、お茶をいただきながら、師匠と師匠のお母さんを前にして世間話をしていたのです。で、何かの話題から、師匠が「したたか笑った」話になったのです。

 「あのさ、収容所の話だわけさ」

 収容所=沖縄戦のあと、多くの県民が捕虜収容所にいたのでした。そこでの話が「したたか笑う」話?興味をそそられました。

 「どんな話よ。教えてよ」
うーん。でも、これは日本語(師匠は、共通語を日本語と呼びます)で言ってもわからんはずよ。ウチナーグチでないと」

 昨晩、師匠のお母さんが語った収容所でのある事件の話は、おばさんたちの会話の部分が秀逸なのだそうで。それがおもしろくてしたたか笑った。方言でないとおもしろさが伝わらない話である。と師匠は言います。
 お母さんの巧みな話術の力もあるでしょうけれど、会話の部分を方言で表現することで、師匠には、見たことのない登場人物の表情や着物、手の動き。さらには、その場の焼けた匂いのする風やほこりっぽさまでわかるのではないでしょうか。それほど方言には臨場感があります。

 「どんな話かだけでも、教えて」

 師匠は、口元をほころばせたまま、でも、目には少しこまったような表情を残して話を始めました。

うちのお母さんが話をしたら本当に面白いんだけど。あのさ、収容所でよ。おばあたーが(おばあさんたちが)集まっているわけ。でさ、缶詰をもらったって。その缶詰が、何の缶詰かわからんわけよ。とにかく開けてみたら、黄色い固まりだったわけさ。で、『うれー・・・これ、何かねえ』『いふーなー・・・へんな匂いがするよ』とか、みんなで不思議がって匂いかいだり触ったりしているわけ。それで、一人が石けんだはず。洗濯する石けんだはずよーと言って、それに水をつけてこすってみたって。でも、泡がでないわけ。でよ、『あい、あい』してよ、それで・・・・あー、これ、方言で言わないと伝わらないよ。うちの母さんが話ししたら、どんなにおもしろいか」

 というところで、師匠はギブアップ。
 私と師匠は長いつきあいですが、それでも、私の顔を見ながら方言で話をするのはむずかしい。県外の人の顔を見ると、頭の中が「日本語モード」に切り替わってしまうからです。師匠のお母さんから直接話を伺うことができれば一番よいのですが、それも同じ理由で無理でしょう。
 では、私の顔を何かで隠したとしたら?それでもダメでしょうね。
 私に方言で話せない理由は、もう一つあるのです。私が方言に反応できないのです。笑い話は、笑いどころで反応してくれなければ話せません。私には、その笑いどころが理解できない。だから、私の顔を隠したとしても、師匠もお母さんも、この話を私に語ることは無理です。
 ああ、師匠が師匠のお母さんから話を聞いているシーンを、見てみたかった。

 何かを伝えるということは、伝える側がいれば伝わるというものではないのですね。伝える人が同じでも、相手がだれかによって、内容が変わってしまうものなのです。
 私たち民謡を愛する者は、歌の背景やそれにまつわる話が好きです。話を聞いて、わかったつもりになって満足してしまいがちですが、どれくらい相手の話を引き出せたか、どれくらいこちらが受け止められたか、ということが大切ですし、その判断がむずかしい。とくに、県外の私などには。

 さて、先ほどの収容所の笑い話。あの缶詰の中は何だったと思います?
 正解は、「チーズ」ですって。当時の缶詰は当然の事ながらアメリカ製です。英語で書かれていてわからなかったそうです。
 まあ、チーズだと説明されても、食べるものだとはわからなかったでしょうね。



GO MOUTH HERE MOUTH 披露宴はおめでたい
 そして、おめでたい席に忘れてならないのが歌三線です。

 沖縄県民にはごく当たり前の結婚式(披露宴)が、県外の人にとっては驚きの連続だったりします。ご紹介しましょう。沖縄の披露宴は・・・

1,規模が大きい。
 200名はあたりまえでしょう。大阪のホテルで、沖縄県出身者の結婚披露宴があったそうですが、ホテル関係者がその規模の大きさに驚いたそうです。幸い大きなホテルでしたので、会場の広さや人手については問題なかったそうです。一般人の結婚披露宴に200名以上の人が集まることは、大阪ではまず考えられません。知人の話では「大阪だと、50〜60名というのが普通でしょうねえ」だそうです。

2,座る位置が違う。
 新郎新婦の位置を上(かみ)として、両親は下の方に座ることが多いと思いますが、沖縄では新郎新婦と両親はどちらも上だと思います。

3,舞台がある。
 この記事の、メインはこれです。
 大阪ですと、友人代表が歌ってくれるとか、親戚の中に器用な人がいて、ちょっとした芸を見せてくれるという程度ですけれど、沖縄の披露宴は、余興が多いんです。招待客のほとんどは余興のために来ている。というのは、それほど大げさではありません。
 余興にもいろいろありますが、やはり忘れてならない「歌三線と踊り」。沖縄の文化芸能は、生活の中にピチピチと生きているんですねえ。

 ある披露宴のプログラムを書いてみます。
 このプログラムは、2001年の4月に行われた友人の披露宴のプログラムを参考にしています。実物では、挨拶をしてくださるかたのお名前はもちろん、踊り手の名前や、職場の名前なども書いてあります。


新郎新婦入場

 1,新郎新婦紹介
 2,赤馬節
 3,乾杯の音頭
 寿、来賓祝辞

お色直し

 5,余興・新郎職場
 6,余興・新婦職場
 7,余興・歌
 8,思い出のアルバム

再入場

 喜、新郎職場代表祝辞
 10,新婦職場代表祝辞
 11,余興・おどり
 12,新郎友人祝辞
 13,新婦友人祝辞
 福、余興・おどり
 15,カチャーシー
 16,謝辞
 沖縄県のかたですと、「けっこう短いプログラムだな」と思われたと思います。そうですよね。お色直しもあと1度か2度。余興の数ももっと多くてもいいかなと。でも、友人は派手なことがきらいなようで、できるだけシンプルに仕上げているようです。
 という文章を県外のみなさんが読むと「これで、余興が少ないの?」と驚かれるかもしれませんね。
 それはともかく、県外のみなさんに説明するべき点をあげておきます。

 まず、「2,赤馬節」です。新郎が八重山出身なので、ここに『赤馬節』なんです。これは、新郎のきょうだいやいとこが踊る場合が多いようです。つまり、八重山出身者ですと、結婚披露宴で踊ることはめずらしくないということですね。

 次に「お色直し」で驚いて下さい。え?県外にだってお色直しがある?そうですよね。でも、驚いてほしいのは、次の「再入場」までの間に余興が3つあること。つまり、新郎新婦がお色直しの間も、披露宴会場では歌や踊りが繰り広げられているということ。いったい誰のための余興やら・・・

 そして、カチャーシー。これは有名ですので、このHPをご覧のみなさんの中には驚く人はいないかもしれませんね。 

 ここに書かれた余興は、すべて舞台の上で行われます。そうなんです。沖縄の結婚式場、あるいは結婚披露宴に使用されるホテルの会場などには、必ず舞台があるのです。新郎新婦は、舞台の反対側(舞台から見ると真正面)に座っていて、新郎新婦と舞台の間にお客さんの席がある。という形なのです。ですから、舞台で余興をしている間は、だれも新郎新婦を見ていません!
 というよりも、お客さんも新郎新婦と一緒に舞台を楽しむという形だと言えそうですね。



GO MOUTH HERE MOUTH 披露宴はおいしい
 1970年代の沖縄の学生たちは、あまり裕福な生活をしていませんでした。車を持っている学生はほとんどいませんでしたし、学生寮や下宿にはテレビもない生活が普通だったと思います。特に、私の所属していた八重山芸能研究会は、沖縄県内の離島出身者が多かったので、自宅から通学している人はほとんどいませんし、沖縄県の県民所得は、他府県に比べるととても低かったそうです。私も含めて、私の周りの学生は例外なく慎ましい生活を送っていました。
 当然食べるものも、贅沢はできません。そんな私たちにとって、結婚披露宴の余興はごちそうにありつけるチャンスでした。

 夜遅くまで部室で練習をしていると、先輩たちが荷物を手に余興から戻ってきます。荷物のほとんどは見慣れた衣装ケースや三線ケースなのですが、その中に一つか二つ、見慣れない派手な模様の紙袋があったりしますと、私の目は釘付けです。

 「おう、練習してたのか。これ、食べれ」

 といって、私の前に差し出された紙袋の中は、折り詰めに入ったご馳走です。別の先輩が、

 「うちらは、あっちで食べてきたから、全部食べていいよ」

 とにっこり笑ってくれます。貧しい学生だった私も、こういうときはご馳走にありつけるわけです。一緒に、引き出物のお皿などが入っていることもありましたが、食べられないものには目もくれませんでした。

 やがて、余興から戻る先輩を待つ身から、自ら余興へ行くようになりました。

 私たちが披露宴の余興に呼ばれる場合は、招待客ではなく、余興のためだけにかり出されることが多かったのですが、学生の身にはその方が好都合でした。招待されると、きちんとした身なりをして、お祝いも持って行かなければなりません。余興だけの場合は、ごく普通の服装でいいわけですし(舞踊の衣装は必要ですけど)、お祝いも必要有りません。場合によっては、ご祝儀をいただけることもあるんです。まあ、めったにありませんし、頂いた場合は部費になってしまうのですけれど。
 招待客ではないわけですから、席がありません。もちろん、テーブルで料理を食べることもできません。でも、たいていの場合は、舞台の袖(客席から見えない場所)か楽屋にオードブルや飲み物が用意されていて、少しはご馳走にありつけるということになっているのです。そして、たまには残り物の折り詰めをいただいて帰ることができた。それが部室へのお土産になるのでした。
 ところが、私が余興に行ける立場になったころには、折り詰めを持ち帰るということが少なくなっていきました。世知辛い世の中になったのではなくて、披露宴の料理の形式が変わってきたのです。一品ずつテーブルに運ばれる「フルコース」と呼ぶのでしょうか、そんな料理があたりまえになり、折り詰めに入った食べ物は見られなくなっていったからです。これも、時代の流れですね。

 数ある披露宴の余興経験の中で、忘れられない思い出は、たしか宜野湾市の、こぢんまりとした会場でした。
 5〜6名で行った記憶です。当初の予定の演目を終えた私たちは、まだ披露宴の途中でしたが、招待客とはちがって席はありません。用が済んだら帰るだけです。荷物をまとめていると、会場の係の人から、

ねえ、次の余興の地謡が、太鼓をたたいてほしいと言っているんだけど、お願いできるかな?」

 と声をかけられました。『上り口説』だったか、とにかく琉舞だったと思います。特に急ぎの用もありませんし、お手伝いさせていただきます。それが終わって帰ろうとすると、

ねえ、カチャーシーはテープを流すつもりだったんだけど、生で演奏してくれない?」

 これは辛いんです。理由は簡単です。カチャーシーは、最後の演目です。つまり、披露宴の最後まで残っていなければならないわけです。しかも、大きな声では言えませんが、この日の楽屋は料理もほとんど運ばれてきませんでした。会場をのぞき見したところ、ここは中華料理のようです。10名くらいが食事をする丸いテーブルが並んでいて、それぞれのテーブルの上には色とりどりの料理が運ばれていました。私たちを除けば、余興をする人もみんな招待客ですから、席があります。楽屋で食べなくても自分の席で十分たべられるわけです。席のない私たちは、カチャーシーが始まるまでずっと楽屋で、空腹をこらえて待たなければならない。
 溜息の出そうなのをぐっとこらえて、笑顔で「わかりました」と返事をしました。

 やっとカチャーシーが終わりました。帰ろうとしましたが、今度はお客さんたちが会場から一気に出て行きますので、こちらが動きにくい状態になってしまいました。しかたありません。お客さんがいなくなるまで、三線や太鼓をゆっくりと片づけながら待つことにします。すると、あの係の人がやってきました。

どうもありがとう。ごくろうさまでした。若いのにすごいねえ。で、あっちに料理があるから、よかったら食べていってね」

 と指さす方を見ますと、丸いテーブルの上に、誰も手を付けていないご馳走が乗っているのです。招待客が来なかったのか、それとも私たちのために特別に一つテーブルを用意してくれていたのか、今となっては確かめようがありませんけれど、とにかくそのテーブルの上には、けっして「食べ残し」といったふうではなく、まっさらのご馳走が所狭しと置かれていました。
 だれもいなくなった会場の、そのテーブルについた私たちは、一心不乱に食べました。飲み物も十分にあります。今思えば、沖縄の結婚式場で、席について食事したのはこの時が初めてだったと思います。
 これが最高の余興でした。




GO MOUTH HERE MOUTH 披露宴はこわい
 今でこそ、若い人が三線を弾いていても不思議ではありませんが、20年前ですと珍しがられたものです。そもそも、三線を弾く人というのが少なかった。まあ、少ないとか多いというのは比較の問題で、たとえば、当時の「大阪の全人口の中で、三味線を弾く人の割合」と「沖縄の全人口の中で、三線を弾く人の割合」とを比較すれば、後者の方が大きい数字になるでしょう。でも、県外の人が思っているような「沖縄の人はみーんな三線が弾ける」とか「沖縄の家には必ず三線が飾ってある」というのは、一つの幻影でしょうし、三線人口が増えていると言われる現在でも、まだそこまでは到達していないと思います。

 ですから、二昔前の結婚披露宴の余興には、舞踊は多くても、ほとんどがテープを流してそれに合わせて踊るという形でした。生演奏は珍しかったのです。今なら、生演奏の比率はもう少し上がっているでしょう。


 学生の頃でした。部室で三線を弾いていますと、先輩がやってきました。

 「明日の夕方、結婚式の余興があるんだけど、暇か?」
 「明日・・・はい。授業はありません。大丈夫です。どこですか」

 結婚式の余興とは、つまり披露宴での余興なのですけれど、この会話、ちょっと変ですよね。普通、結婚式に行くという話なら、「誰の結婚式か」が話題になるはずでしょう。ならないんです。学生時代に、披露宴の余興へは何度も行きましたが、知らない人のばかりでした。

坂下(さかした)あたりの結婚式場。ほら、都ホテルの近くにあるだろ」
都ホテルじゃなくて?・・・結婚式場ですか・・・ああ、あの郵便局関係のですね?」
そうそう。明日、結婚式の余興に来てくれって言われてるんだ。おまえ、行ってくれ」
 「はい。で、だれと行くんですか?」
 「一人」
 「へ?」
鷲ぬ鳥節を歌ってほしいって。一応歌う人がいるらしいんだけど、一人応援がほしいって」

 めずらしい依頼です。普通は、踊り手と地方合わせて数名で行くのですが。とにかく、翌日行ってみました。

 敷地内に入ると、左手が入口になっているようでしたが、披露宴会場は正面にあります。私は受付を通る必要もありませんので、直接正面の披露宴会場へ向かいます。
 楽屋らしき場所を見つけました。入口に正装をした男性がプログラムを手にしながら立っていました。

鷲ぬ鳥節を歌ってほしいって。一応歌う人がいるらしいんだけど、一人応援がほしいって」
すみません。余興に呼ばれてきたのですけれど。鷲ぬ鳥節は、何番目でしょう」
 「え?・・・・えっと・・・・あったかな・・・・ないみたいだけど」

 その人は、プログラムを上から下へ、下から上へと調べてくれました。

 「ない・・・ですか?」
 「ほら、見てごらん」

 プログラムを見せてもらいました。プログラムにはいろいろな書き込みがしてあって読みにくかったのですけれど、上から下へ、下から上へと確かめても、どこにも鷲ぬ鳥節の文字はありません。

 「上でも結婚式をやってるけど」
あ、上にもあるんですか。じゃあ、そちらへ行ってみます。ありがとうございました」

 二階にもあるとは知りませんでした。誰の結婚式かも知らずに行くのですから、こういうことも起こるわけです。
 二階へ上がり、舞台の横から入って、話のできそうな人を見つけます。プログラムを確認すると、ちゃんと『鷲ぬ鳥節』が書かれていました。
 やがて、演奏する時間になります。しかし、私の他には太鼓をたたく人がいるだけ。

 「あのう、鷲ぬ鳥節は、どなたが演奏を?」
 「え?君でしょ?」
 「あ、はい。演奏しますけど、一緒に演奏する人は」
 「あんただけだよ」
 「へ?」

 まあ、ものは考えようです。他の人と歌うと、歌い方が違ったりキーが合わなかったりといったトラブルも考えられます。一人なら気楽なものです。
 三線を構えたまま、司会者が舞踊の紹介をしてくれるのを待っていますと、年配の男性が私に近づいてきて、耳元で囁きます。

 「踊り手は、初めてだから、前を向いたら歌ってあげてね」
 「へ??」

 踊り手は、おそらく新郎か新婦のきょうだいなのだろうと思います。八重山出身者の場合、新郎新婦のきょうだいやいとこは、披露宴で『赤馬節』や『鷲ぬ鳥節』を踊らされる(踊らせていただける?)ことが多いのです。舞踊が趣味という人でなくてもです。だから、披露宴で踊るために数日前に踊りを習って、初めて人前で踊るのが披露宴会場ということになるのです。目の前の踊り手も、そのような境遇なのでしょう。緊張の仕方が尋常ではありません。
 『鷲ぬ鳥節』は、〈合〉〈四〉〈上〉「あや〜」と歌い始めます。でも、踊り手は自分のことで精一杯。三線がなったら舞台下手から歩き始めて、舞台中央まで歩いたら客席を向き、覚えたとおりの所作を始める。どの音でどう動くかなど気にしていません。思った通り、とんでもないタイミングで踊り始めました。なんとか踊りに合わせて歌い続け(普通は歌に合わせて踊るのですけど)、三番まで歌いきりました。一時はどうなることかと思いましたが、踊り手も初舞台をよくこなしたものだと思います。舞台の袖に入ったとたん、緊張から解き放たれて、すばらしい笑顔を見せていました。
 さて、今日はこの一曲だけです。太鼓の人と、進行係らしき人に挨拶をして帰ろうとしますと、

 「ねえ、ちょっと」

 年配の女性から声をかけられました。舞踊の衣装を着ています。

 「次、鳩間節を踊るのよ。弾いてね」
 「へ???」

 その女性が踊り手です。衣装を見て、早弾きの『鳩間節』だとわかりました。

あのう、弾け・・・ると思いますけど・・・踊りと合わせたこともないですし・・・」
 「大丈夫よ。4番まで」
 「歌は、どこで始めれば?」
 「舞台を一周して、両手を交差させたら、歌い始めてね。お願いね」
 「はあ・・・」

 披露宴では、いろんなことが起こります。今となっては、これも楽しい思い出です。




GO MOUTH HERE MOUTH 披露宴はすごい
 英語の先生は、アメリカ人の若い女性でした。
 私がその人から英語を学んでいたわけではありません。八重芸の、部員のだれかが教わっていたのでしょう。あるとき、部室にやってきて三線や踊りを興味深そうに見ていました。よほど沖縄の文化に興味があったのか、あるいは部室の居心地がよかったのか、時々部室にやって来ては、三線を触ったりしていました。部員たちとも仲良くなりました。

 その先生が、米軍基地内で結婚することになりました。58号線沿いの教会で式を挙げ、その後、基地内の小さな会場でパーティーをするので、歌と踊りで花を添えてほしいというのです。
 私は、基地がきらいです。でも、結婚披露パーティーです。基地問題とは別と考えるべきでしょう。私たちは10名ほどのチームを組んで、参加することにしました。

 「○○基地の、△△ゲートを入って、会館へ行くように」

 お迎えが来るわけでもありません。通行証のようなものを受け取ったわけでもありません。とにかく、指定された場所へ行けという連絡を受けただけです。

 当日。私は後輩の運転する車の助手席に乗っていました。フェンスに沿ってしばらく走ります。やがて、基地のゲート前にさしかかりました。警備の人が大きめの電話ボックスのような所に立っています。

 「入れますかねえ」
さあ、でも、三線持ってるし、披露宴だってわかるんじゃないか」
 「三線ケースだって、わかってくれるといいんですけど」
 「どういう意味?」
 「だって、アメリカ人って、三線を見たことないでしょう?」
 「うん」
こういうケースにマシンガンを入れているギャングが、映画に出てたような」
 「そ、そうだな。でも、行くしかないよな」
 「そうですね」

 少々ひきつった笑顔を見せながら、車をゲートに近づけます。まず挨拶をしよう。そして、パーティーに参加することをなんとかして伝えようと、車の窓を開けて、声をかけようとしました。が、声が出る前に、警備の人が基地内を指さします。「行け」の合図です。私たちは顔を見合わせて、中に入りました。案外簡単なんですね。
 これを読んで、「じゃあ、私も基地の中に入ってみよう」なんて思わないでください。今は時代が違います。おそらく、あのときは私たちが行くという連絡が入っていたのだろうと思いますから。

 入口から会場までは、すぐでした。車を停めて中にはいると、先に着いていた部員が手招きします。ロッカールームが控え室になっていました。
 ここは、舞台がないはずです。つまり、舞台の袖(そで)もないわけです。そうなると、三線を演奏する地方(じかた)もお客さんから見える場所になるだろうということで、ドゥタティと呼ばれる衣装に着替えます。
 適当なロッカーを選んで、扉を開きました。

 「あ!」

 慌てて閉じました。びっくりです。思わず周りを見回しました。
 何に驚いたか。
 映画なんかでよく見る、あの、縦長のロッカーなんです。で、扉を開けると、その扉の内側にポスターが貼ってあったのです。これも映画によく出てきますよね。そのポスターを見てびっくり。日本国内では、修正しなければならないポスターだったのです。基地内は、日本の法律の及ばないところ。いやあ、勉強になりました。
 そのロッカーの扉をもう一度、そっと開いて、着替えなどを入れました。

 踊り手の女性たちは、準備に少し時間がかかります。そこで、地方の私たちだけで会場の様子を見に行くことにしました。踊り手の準備ができるまでの間、数曲聞いてもらうのもいいだろうと考えて、三線や太鼓も持って行きました。
 会場はそれほど広くありませんでした。集まった人も50人くらいだったと思います。
 私たちを見つけた会場の人たちから、突然大きな拍手が起こりました。みんな外国人・・・いえ、ここでは私たちが外国人なんですけど。
 披露宴慣れした私たちですけれど、今日は違います。日本人らしい笑顔を見せ、日本人らしい会釈をしながら進み出ますと、司会者らしき人が私たちの前にやって来ました。片言の日本語を期待したのですが、出てきた言葉は英語でした。まったくわかりません。たぶん挨拶しているんでしょう。今も昔も、大学生は英会話が苦手なのです。とにかく、相手は私たちが余興をやることは知っているはずです。三線を持ち上げ、見せてみます。すると、司会者らしき人は、今度は会場のお客さんに向かって話を始めました。これまた、まったくわかりません。この雰囲気からして、「これから、沖縄の音楽を楽しんでもらいます」てなことを言っているのでしょう。
 司会者の言葉の合間に、会場のみなさんからどっと笑い声があがります。司会者が、何かジョークを言っているにちがいない。とりあえず、私もいっしょに笑います。
 日本語ならば、「では、どうぞー」といったきっかけで演奏を始めるわけですが、今日は勝手が違います。司会者は、会場の皆さんに向かって流ちょうな英語を話していたかと思うと、突然話をやめてこちらに顔を向けました。今から何をやるかを説明しろという意味か?それとも、「では、どうぞー」なのか。私は司会者に笑顔を返し、横にいた後輩の顔を見ました。彼も固まったままです。司会者は、もう一度会場の皆さんの方を向いて、二言三言英語を話します。そしてまた、私たちの方を見ます。今度は、手の平を上に向けて「どうぞ」といった仕草。ええい!なんだかわからないけれど、歌うしかありません。

 「おい、とにかく、鶴亀節でいこう」
 「はい」

 で、演奏を始めました。どうやら正解だったようです。三線をならすと、司会者は拍手をしながら横へ去りましたから。

 三曲ほど歌ったところで、踊り手たちが入ってきました。中に一人、英語のそこそこ話せる女子部員がいましたので、そこからは彼女が説明をして、踊りを見せるという形で進行しました。

 国は違っても、歌と踊りは通じるものがあるんですね。今日のおめでたい日に、喜びを表現したり楽しい時間を共有したり、そんな気持ちは日本もアメリカも同じなのです。
 基地は戦争に結びつきます。基地はきらいです。でも、そこで働く人、住んでいる人を恨むのは間違っています。みんなが戦争を好んでいるわけではありませんから。
 いつか、基地のない沖縄でいっしょに歌ったり踊ったりできればいいなあ、と、そのときには考える余裕がありませんでしたが、今思えば、歌と踊りが世界共通だということを少し感じることのできた貴重な時間でした。

 余興を終えて帰る前に、もう一度あのロッカーの扉を開けてしまいました。



GO MOUTH HERE MOUTH ゴーヤーは深い

 「うぇ!またこれ!もー、かあちゃん、肉がいいよー」
 「夏は、ゴーヤーがいいんだよ。ちゃんと食べなさい。大きくなれないよ」
 「もっとお肉入れたほうが大きくなると思うよ」


 「うち、食べられるよ。ほら」
 「うわあ、エツコ、ゴーヤー好きね?」
 「給食のゴーヤーは、あんまり苦くないよー。早く食べないと、先生にしかられるよ」


 「あい、今日は娘さんといっしょ?」
 「今日から夏休みだから。このゴーヤー3本買おうね」
 「ねえねえ、かあちゃん、あっちの方が大きくていいんじゃないの」
 「ゴーヤーはね、イボの大きいのがおいしいんだよ」


 「かあちゃん、これくらいでいい?もっと薄いほうがいいの?」
 「ううん。もっと厚くてもいいんじゃないの。指切らんよ」
 「先に肉から焼くんだよね」


 「ねえ、今日スーパーに行ったら、ゴーヤーが並んでいたわよ」
 「大阪でも普通になったんだなあ。テレビの影響かな。沖縄の農家が喜ぶね」
 「宮崎産。って書いてあったわ」
 「え?がんばれよ、沖縄・・・」


 「おかあさん、これでええかな?」
 「もっと厚い方がいいんじゃない。お父さん、厚いほうが好きみたいよ」
 「おとうさんまだかなあ。うちが作ってるとこ、見せたげるのに」
 「じゃあ、焼くのはおとうさんが帰ってきてからにする?」
 「『焼く』やなくて、『いためる』て言うねんで」


 沖縄で生まれ育った私の妻の「ゴーヤー」は、まだまだあるはずです。私も「ゴーヤー」を知ってはいますが、私の「ゴーヤー」は、妻とは比較にならないほど薄っぺらな「ゴーヤー」です。

 私は「鷲ぬ鳥節」を歌えます。八重山には、「鷲ぬ鳥節」を歌えない人も大勢いるでしょう。でも、その「歌えない人たち」は、私の何倍も何十倍も「鷲ぬ鳥節」を知っています。私のは、薄っぺらな「鷲ぬ鳥節」です。

 私にとって、八重山の人すべてが八重山民謡の先生です。八重山出身の後輩に歌を教えたこともありますけれど、同時にその後輩からいろいろ学ばせてもらいました。
 「歌の心」などと言うと、形のない精神だけの世界と思われるでしょうけれど、私は「歌とどれだけつながってきたか」ということだと思っています。残念ながら、私は子どもの頃の「民謡とのつながり」を持ち合わせていません。だから、自分には民謡を歌うものとして欠落した部分があることを自覚しつつ、勉強を続けなければなりません。


 妻のゴーヤーは、深い。私にはとうてい達し得ない深さです。