素顔の沖縄 | |
期待されると、それに応えたくなる。人とは、そういうものだそうです。「あの人は、絶対に私を裏切らない」とあなたが信じていれば、あの人はあなたを裏切らない。逆に、相手に疑いをもってしまうと、相手は信用できない人になってしまう。 ま、信用できないような人だから疑われるのだと言われれば、返す言葉はないのですが。 リゾートホテルなどは、そのお手本のような所です。沖縄に「南国」を求めるから、南国っぽいものをたくさん並べるのです。沖縄の人が食べないような沖縄料理でも、お客さんが「これが沖縄の料理よね」と思うような料理なら、平気で並べるのです。普段なら絶対使わない「めんそーれー」なんて言いながら、笑顔でお客さんを迎えるのです。色の白い沖縄県民は、わざわざ顔に黒い色を塗って・・・それはウソですが、観光のお客さんにとって、出会う沖縄県民はただの「おきなわの人」で、観光のお客さんを迎える沖縄県民にとっても、ただの「お客さん」でしかない。お互いに、どんな名前でどんな人物かは気にしないし知りたいとも思わない。まあ、それこそが観光なのだと言われればそれまでですけれど。 観光のお客さんの中には、そういった「期待通りの沖縄」を求めない人もいます。素顔の沖縄、と書きますと、この言葉自体が陳腐にも思えるのですが、他の表現が思いつかないのでこうしておきましょう。 素顔の沖縄、つまり、観光用に飾っているのではない沖縄を求める観光のお客さんには、民宿が喜ばれそうです。沖縄の人が生活をしている場所に、おじゃまする。相手に対する気遣いも必要だけれど、お互いを名前で呼び合い、心の通ったおつきあいもできる。そういった観光を求める人には、リゾートホテルは好まれないでしょうね。 でも、沖縄の観光は、リゾートホテルに集約されようとしているように思えます。そのうちに、民宿に泊まりたいお客さんも、リゾートホテルが斡旋するような形になるかもしれません。素顔の沖縄さえも、「素顔の沖縄に見える沖縄」でしかなくなるのでしょうか。 観光のお客さんが期待するから、そうなるのか。そうなっている沖縄しか見えないから、それしか期待しないのか。どうなんでしょうね。 |
市場 | |
初めて、牧志の公設市場へいったのはいつだったか、覚えていません。たぶん、学生の頃でしょうから、1978年だと思うのですが。 公設市場に入りますと、右手に・・・と説明したいのですけれど、あそこは入り口がいっぱいあって、説明しにくいですね。とにかく、国際通りに近い方は肉屋さんが。反対側には魚屋さんが多いですよね。 こんなことがありました。 私は、色とりどりの魚を見ながら、店の前を通り過ぎます。店の人はだれ一人として声をかけてきません。ところが、私のすぐ後ろを歩いていた年配の女性には、しっかり声がかかります。何か場違いなところへ来てしまったように思えたほどです。 女性が一つの店の前で立ち止まりました。店の人が通路側に出てきました。私は、少し離れたところから、その様子を見ないようなふりで見ていました。 店の人は、お客さんと方言でなにかやりとりしながら、魚をつかんで持ち上げます。何か説明をしたのでしょうか。それを元の場所に置いて、今度は隣の魚を持ち上げます。また何かしゃべったかと思うと、突然アハハと大笑い。その魚を持ったまま、お客さんに背中を向け、店の内側に入ると、包丁を手にしました。手際よく魚をさばきながら、それでもまだ、お客さんと大きな声でしゃべっています。切った魚を袋に入れると、お客さんの前に戻り、少々乱暴にも見えるお金と商品の交換をすませます。それからまたひとしきりおしゃべりをして、お客さんが帰っていく。 ああ、市場です。土産物屋さんとは違い、沖縄の人の生活があります。 私はすっかり気に入ってしまって、ときどき市場を見物に行くようになりました。大阪の友人が沖縄に来たときには、必ず連れて行く場所にもなりました。 ところが、市場の様子は年々変わっていきます。まず、魚がきれいに並べられるようになりました。魚に名札をつけている店もあります。通りかかる人には、だれかれなく声がかかります。二階のお店で調理してもらえるようになった頃には、すっかり土産物屋さんのようになっていました。沖縄の人が買わないわけではないのですが、一般家庭の食生活がうかがい知れる場所ではなくなりました。 今、沖縄の人の生活を肌で感じたければ、スーパーでしょうね。大手スーパーであっても、地域色は出ています。魚の種類、肉の売り方など、沖縄らしい食材を見ることができます。その意味で、観光の皆さんにもお勧めです。 |
グラジオラス | ||
朝顔、ひまわり、チューリップ、ダリア、カンナ。そしてグラジオラス。 私が小学生のころに、教科書に出てきた花です。これらの花は、種や球根などを買ってきて育てるものと思っていました。球根の方が、種よりも高級な感じがしていましたねえ。 あるとき、久米島出身の女性が、こう言いました。 「 グラジオラスは、島ではお金を出して買う人はいない。自然に生えているから」 話を聞いて驚きました。広い畑一面に、真っ赤なグラジオラスの花が咲き乱れている楽園を想像しました。 その女性は話を続けました。 「抜いても抜いても生えてくるから、やっかいな雑草なの」 楽園は砕け散りました。そのかわりに、クバ笠をかぶり汗を拭きながらグラジオラスを引き抜く農家の人を想像しました。 ものの価値も、その土地によって違ってくるものですね。 与論の知人からメールが届きました。グラジオラスのお話です。
私も気になります。沖縄本島は与論島のすぐ南。お隣です。似たような呼び方なのでしょうか。 インターネットで調べてみましたが、それらしい情報は見つかりませんでした。東南植物楽園のHPには、グラジオラスの方言名が『トッピン、ナバルバナ、ダンダンバナ』と書かれていました。でも、沖縄県のどこかでは、「山羊」系の名前で呼ばれているかもしれません。 |
修学旅行 | |||||
(2006年12月に書いた日記です。古い話で申し訳ありません) 10年前には、空港で修学旅行の生徒さんと会うことはめずらしかったのですが、ここ数年は、会わないことの方が少ないような気がしています。 沖縄の新聞社のHPを見ました。沖縄へやってくる修学旅行生の数は、 2000年に30万人を突破し、 同時テロで減少したものの、その後回復。 2005年に40万人を越え、 2006年は43万人を越える見込み。だそうです。 1年間に43万人。ということは、1日に1200人近くの修学旅行生がやってきて、同じ数だけ去っていくわけです。空港で見ることが多いわけです。 記事には、こう書かれていました。 県やOCVBは増加の要因の一つに「市町村や民間業者とタイアップした体験学習が充実してきた」ことを挙げている。 *OCVB=沖縄観光コンベンションビューロー 今年の夏でしたか、大阪の中学校の先生と話をしたことがあります。その中学校の修学旅行は、沖縄だそうです。 「平和学習だけじゃなくて、いろいろな体験もするのでしょうね」 「そうそう。いろんなメニューがあってね」 「最近は、そういうのが充実しているんですね」 「すごいよ。海だけじゃなくて、いろいろ。でもねえ・・・」 「え?楽しくないんですか?」 「楽しんだよ」 「いいじゃないですか。平和学習もして、楽しみもあって」
きちんとした受け入れ態勢と充実した体験メニューがあることで、安心して修学旅行へ行ける。一方、学校としての特色を出しにくいし、修学旅行としての意味が見いだしにくくなってくる。学校側が事前学習をしっかりやるとか、プログラムを厳選するといった努力を続けることが大切なのですけれど、
その先生は、右手でぼさぼさの髪をなでつけて、溜息をついたのでした。 |
730 | |
1978年7月30日の前日まで、沖縄県は「車は右」でした。それが、7月30日から他府県と同じ「車は左」に変更になったのです。 その年の3月下旬から、私は沖縄で暮らし始めていました。ですので、右側通行も左側通行も経験しています。2006年に、それを特集したテレビ番組がありました。番組の中で映し出された当時の映像が、すすけたようになっていて驚きました。そんなに昔のことなのですね。 もう一つ驚いたのは、交通方法変更が「朝6時」だったということです。私は「深夜0時」だったと信じていました。 沖縄の本土復帰が1972年5月15日ですから、その後6年以上もの間、沖縄県は日本なのに、車は「右側通行」の時代だったわけです。 右側通行から左側通行になる」と書きますと、車の走る場所が変わるだけのように思えますが、実際は大変な準備が必要でした。 まず、道路の整備が必要です。路上に書かれた矢印、信号や標識の位置(向き)など、全てが変わってしまいます。当日に付け替えたり書き換えたりできませんので、信号や標識は、あらかじめ設置しておいて、見えないようにカバーをかけて、変更の時にカバーを外し、古い方にかぶせるということをしていました。 車そのものも変わります。バスの乗降口が逆になります。逆になると言いましても、バスのドアを付け替えることはできませんので、730から新しいバスが走るようになりました。この時から、バスにエアコンがついてうれしかった記憶があります。 タクシーもです。タクシーは、730から新車というわけにはいかず、730以前から右ハンドル、左ハンドルが混在していましたし、730以降もしばらくは混在していました。自動ドアが使えないタクシーが多かったですね。 当時は、まだコラムシフト(シフトレバーがハンドルの横から出ているタイプ)がけっこう多くて、右ハンドルと左ハンドルではシフトレバーの位置も逆になるのです。「シフトレバーとウインカーのレバーを間違えて動かして、ウインカーのレバーを折ってしまう人がいるんだ」と先輩が話してくれました。 では、一般車両は問題ないのかといいますと、これはバスやタクシーにも当てはまりますが、光軸の調整というのが必要だったそうです。右側通行用の車と左側通行用とでは、ライトの角度がちがっているそうで。簡単に言いますと、右側通行用の車が左側を走ると、そのライトが対向車に対して眩しくて邪魔になるのだそうです。 沖縄の米軍基地内も、この日から左側通行になっていました。そりゃそうですよね。ゲートを挟んで右と左だったら、大変なことになるでしょうから。 「左小回り、右大回り」 730に向けての「合言葉」のようなものです。左側通行ですと、交差点を左折する時には路肩に沿って小さく回る。右折は交差点の中央付近をかすめるようにして大きく曲がりますよね。右側通行はその逆だったわけです。だから、730以降は「左小回り、右大回り」になるということを意識づけていたのです。 その当時、私は車の免許を持っていませんでしたので、運転をした経験はありません。でも、730の翌月、先輩の運転する車の助手席に乗ったとき、こんなことがあったのです。 1978年8月、私は大学1年生。初めての八重芸夏合宿のときでした。 合宿先は波照間でしたが、前日に石垣島に行って、先輩の家に一泊させていただいてから、合宿に出発することになっていました。 石垣に到着した日、先輩が「今から川平へ行くんだけど、一緒に来い」と。私は先輩の運転する車の助手席に乗りました。 先輩の家は大川でした。市街地は交通量もそこそこあって、センターラインも引かれています。先輩も左車線を慎重に走っています。やがて、左手に海が見え、名蔵湾を越え、崎枝あたりになりますと対向車もほとんどなく、センターラインのない所を走ります。すると、今まできちんと左側通行をしていた先輩の車がだんだん右に寄っていくのです。 「せ、先輩。左です」 「あ、ああ」 左へ寄ります。私は大阪育ちでしたので、車は左が染みついています。少しでも右に寄ると、敏感に反応するのです。 しばらく左側を走っているのですが、少し走って、カーブにさしかかったあたりで右へ寄ってしまいます。 「先輩!左!」 「お、おう」 こんな状態でしたが、なんとか無事に川平を往復しました。 交通量の多い所なら、車の流れに乗っていれば安心です。車の少ない道でも、真っ直ぐな道なら遠くから相手を確認できます。恐いのはカーブです。 カーブの向こう側から対向車が来る。ちゃんと左側通行していてくれるはずだけれど、道がカーブしているのでよくわからない。もし相手がうっかり右側を走っていたらどうしよう。近付いてから、相手が間違えている事に気付いたら、しかたないから右に避ける?避けようとした方に相手も避けてきたらどうする?そんな心配をしたのは、私だけではなかったと思います。 私は、そういった事故に遭うことはなかったのですが、県内では小さな事故が多発したそうです。バスが畑に落ちたとか、交差点で接触事故をおこしたとか、標識にぶつかったとか。 それに、ものすごい交通渋滞。車の流れが変わりましたので、今まで渋滞することのなかった場所で渋滞することがあったり、今まで渋滞していたところは、みんな慣れないものですから今まで以上に渋滞したり、大変でした。 今の沖縄は、みんな普通に左側通行。まるで730が夢だったように思えますねえ。 |