GO MOUTH HERE MOUTH 地方は酔えない
 地方(じかた=地謡)にあこがれました。
 舞台での地方にも、あこがれました。が、一番あこがれたのは、コンパ(飲み会)の地方です。

 八重山民謡の世界では、最初は『赤馬節』とだいたい決まっています。学生のとき、八重芸のコンパも『赤馬節』から始まって『鷲ぬ鳥節』や『目出度節』などを演奏。もちろん舞踊もあります。歌は、地方だけが歌うというよりも、地方といっしょにみんなで歌おうという雰囲気です。これもコンパならでは。
 飲み会ですから、プログラムなんてありません。最初の数曲は、いつもの通りといった感じですけど、後の曲は地方が決めます。地方は進行係でもあるわけです。
 その場にいるみんなの顔を見て、踊れる曲を考える。徐々に盛り上げる。所々で落ち着いた曲をはさむ。彼の十八番ははずせない。彼女の踊りはみんなが待っている。踊りばかりじゃなくて、みんなで歌える曲も入れる。なぜか、懐メロが飛び出す。男女が手を取って踊れる曲。巻踊り。何をおこす(始める)かは、地方が決めています。まあ、時にはリクエストがかかることもありますけれど。

 最後はモーヤー(カチャーシー)になるわけですが、このモーヤーに、いかに自然につなげられるか。みんなが踊りたくなって踊れるような雰囲気をどう作り上げるか。これが地方の腕だと、私は思っています。

 地方に必要なものは何でしょう。
 まず、技術。地方が下手では盛り上がりようがありません。踊りの途中で歌が止まったりしたら、目も当てられません。とくに良い声が必要というわけではありませんが、正確に、踊りやすく演奏できなければなりません。
 次に、レパートリー。みんなが望む曲を演奏できなければ地方はつとまりません。
 そして、信頼。彼が演奏する曲なら踊りたいと思ってもらえること。演奏できるというだけではだめで、地方をやる人は普段から信頼されていることが必要だったのです。先輩が演奏した曲を全部覚えて、次のコンパで同じ曲順で演奏したとしても、みんなから認められるまでは地方としては「使えない」のです。

 私たちは、「毛遊び(もーあしび)」を知りません。言葉は知っていますし、「若い男女が、広場に集まって歌って踊って夜を明かした」とか「恋愛の場所だった」などと聞いたことはあります。しかし、実際に何から始まって、どのような内容で、いつ終わるのかは知りません。舞台で再現された「毛遊び」は、やはりお芝居にすぎないのです。
 幸運にも、私は八重芸で「毛遊び」的な雰囲気を味わってきました。実際に、その中で歌い踊ることで、「毛遊び」も、こんな雰囲気があったのだろうと想像できました。時代も、場所も、曲も違うでしょうけれど、きっと根っこの部分は同じなのだろうと思うのです。そこで、私の味わった「毛遊び」=「八重芸のコンパ」を文字で再現してみたいと思います。それによって、先ほど書きました「コンパの地方」の意味と、「毛遊び」の雰囲気が、みなさんにもわかっていただけるのではないかと思います。
 ある日の、八重芸のコンパ

 練習が終わって、部員たちが荷物をもって部室に向かいます。戻る道すがら、部長が二人の部員と短い会話。二人は頷いて部室とは違う方向へ駆け出します。
 部室に着いた私たちは、荷物を片づけています。そこへ、さきほどの二人が、大きな袋をかかえて戻ってきました。中には、ポテトチップ、缶詰、それに氷、豆腐?などなど。
 三線は3丁(あまりよいものではありません。皮も人工)を残してすべて片づけます。缶詰をあけたり、ポテトチップを取り分けたりしている間に、一升瓶と水も用意されています。この間、地方は調弦をしています。この調弦の「テンテン」という音が、その場の雰囲気を徐々に盛り上げるのです。
 それほど広くない部室に、だんだん人の輪ができてきます。でも、まだコップを受け渡ししたり、豆腐をお皿に載せて、醤油を探している人がいたり、袋から飛び出したポテトチップを拾い集めていたりと、落ち着いた雰囲気ではありません。その喧噪の中、チンダミのテンテンが聞こえています。
 まだ、足りないコップを探している人がいるのに、チンダミのテンテンが、『赤馬節』の歌持になります。落ち着いてしまう前に始めるというのも、地方のテクニックです。
 先輩が一年生の女性部員に扇子を差し出します。部員はそれを持って立ち上がり、きょろきょろ。踊るスペースがありません。しかたなく、外へ。今日の舞台は、廊下です。
 扇子を構えたときには、みんなの視線が集まっています。雑音はやがて、手拍子と三線の音に集約され、コンパのスタートとなるのです。
 八重芸の舞台では、『赤馬節』は新入部員の踊りです。まだ経験の少ない踊り手は、顔をこわばらせ、扇子を持つ手も緊張気味です。
 「あい、コンパだのに、もっと楽しそうに踊りなさい」
 「ここでは、ダメ出しされないから、安心して!」
 踊り手の顔がゆるみます。

 『赤馬節』が終わり、踊り手が地方に一礼すると当時に、『鷲ぬ鳥節』が始まります。『赤馬節』が新人の踊りと決まっているのに対して『鷲ぬ鳥節』は、踊りたい人が踊る。ということで、先輩が一人、扇子を持ってスタンバイ。後ろを見ても、一緒に踊る人がいないのに気づいて、「あんたも出なさい」と同期の女子部員をひっぱります。そのやりとりが長いので、地方が「おーい、長いど」と一喝。すぐに踊りが始まりました。
 先輩の踊りには、新人とはちがった味があります。笑顔はもちろん。少し間違えても、愛嬌でカバーします。座って見ている新人女子たちは、手拍子しながらも真剣な顔つきで先輩の踊りを凝視。ときどき、手の動きを真似たりしています。新人男子は地方といっしょに声をだして、こちらも練習中といったところでしょう。

 ここで、テンポを上げて『目出度節』です。長い曲ですし、動きも多い。先輩たちは、だれが踊るかもめていますが、さきほど一喝されているので、もめた割にはすぐにスタートが切れました。おっと、新人も一緒にやろうというわけで、踊り手の最後尾についています。「二才踊り」は、立ったり膝をついたり、ハイスピードの回転があったりと、運動量の多い踊りです。終わって一礼するころには、息があがっていました。が、顔は笑顔です。新人は、納得いかない動きを隅っこで復習しています。

 踊り手たちが輪の中に戻ると、みんなで拍手。一息つきます。
 まだ上気した顔の踊り手に、コップを差し出したり「○○の踊りは、先輩のに似ている」とか「最近、体重が増えて立ち上がるのがつらい」などといった冗談が交わされたり、やっぱり醤油をさがしていたり、ポテトチップをこぼしたり、輪の中は踊っているときとはちがったにぎやかさです。地方は、この間にのどを潤しています。が、この雰囲気が落ち着ききる前に、三線を構えました。

 「テン テン テン」チンダミを確認する音。それを聞いて、場が少し静かになります。すかさず、『祖納岳節』が始まります。
 これは、今練習メニューに入っている曲です。踊り手を決めなくても、いつもの踊り手がすっくと立ち上がり、四つ竹を手に踊り始めました。
 たとえコンパの余興であっても、ただいま練習中という踊りには力が入ります。笑顔は消え、真剣なまなざし。見ている先輩が、踊り手に合図を送っています。どうやら、四つ竹を持つ手の高さが違うという意味らしい。一人の右手が3cmほど上がりました。
 地方を見ると、一人入れ替わっていました。今年から地方に入った新人が歌っています。コンパは練習の場でもあります。

 適度な緊張感の中で、『祖納岳節』が終わりました。一礼したあと、踊り手の一人がしきりに左手の動きを繰り返し、気にしている様子。それを見た地方の一人が、
「続きは明日にしたら?」
この声に、踊り手は我に返って苦笑い。みんなが大笑い。

 笑い声がとぎれる前に、『高那節』が始まりました。
 本来、笠(陣笠)を持って踊られるのですが、用意していませんので、扇子を45度くらいに開いてそれを笠に見立てての踊りです。廊下に3人。先頭の一人が体をほぐすかのように、肩を上下させました。腰をすっと沈めて、歩み始めます。
 『高那節』も「二才踊り」です。さきほどの『目出度節』よりも、さらに動きがシャープに見えます。片足で静止するところで、ぴたりと決まるのはさすが先輩です。この3人は、以前舞台で踊ったメンバーですので、息もぴったり。しかも、自分の踊りだという自負があるのでしょう。最後まで気持ちが張りつめています。終わった後の部員たちの拍手もひときわ大きい。

 と、ここで地方にリクエストが。

 「ねえ、『そうじかち』やって!」

 『そうじかち』は、竹富島の民俗芸能です。その名の通り、掃除を題材にした踊りで、舞台ではこの踊りを持って「清め」とするようです。メロディーは「あがろーざ」の早弾きと言えばよいでしょうか。手桶にひしゃく、菷(ほうき)を持って踊られる軽快で、楽しい芸能です。どうやら、近々余興で踊る予定なので、この場を借りて練習したいということのようです。
 地方は返事の代わりに、歌持を始めました。踊り手4人ははじけるように廊下へ出ます。
 まだ、完成していないらしく、ところどころで迷っているのがわかります。4人がお互いの動きを目で確かめるようにしながら踊りますので、ぎこちない。そんなところへ、
「あがやー、まだ覚えてないわけー」
と、冗談のような本気のような激励の言葉。踊り終わった4人は「続きは明日にしよう」と思ったようです。

 ここで地方は、雰囲気を変えるために調弦を二揚にしました。『小浜節』です。これも去年の舞台での演目です。そろそろみんなの酔いもまわってきて、騒ぎたくなるころではありますが、あえて、ぐっと押さえた踊りを挟み、みんなのエネルギーを内にため込ませることが地方のねらいでしょう。四つ竹の音とともに、静かに踊りが始まります。
 この歌の場合は、みんなで歌うというよりも、地方の歌を楽しむという感じでしょうね。手拍子すらありません。地方のよく通る声、大太鼓のリズム。静かな四つ竹の音。大人の女性を感じさせながら、踊りが終わりました。
 まだ四つ竹の余韻が部員たちの耳に残っているうちに、地方は『マミドーマ』を起こしました。さあ、先ほど内側にため込んでいたエネルギーが、ここから外に向かって噴出します。我先にと立ち上がる部員たち。基本的には6名で踊るのですけれど、コンパでは人数制限はありません。思い思いの役割「鎌」「鍬」「へら」に分かれて並びます。中の一人が、列の外へ押し出されました。「おまえは、種まきをやれ」ということらしいです。座っているみんなの前に出て、あたりを見回す仕草。これは、そろそろ種をまいてよい時期が来たことを確認しているところ。よし、作業にとりかかろう。と決めて、出番を待っている踊り手たちの方へ向き直り、手招きをします。「イーヤサーサ」のかけ声とともに、踊り手がリズムに合わせて登場します。
 『マミドーマ』で大騒ぎしたら、ここからは怒濤のごとく踊り続けます。本調子に戻し、『崎山ゆんた・みなとーま』『与那国ぬ猫小』など、男女がペアで踊るわけですが、「実生活でもペア」の二人が出てきたときなどは、みんなから冷やかしの洗礼を受けます。時々休憩をはさみつつ、地方の繰り出す歌にみんなが「踊らされていく」のです。あるいは、地方が「歌わされている」のかもしれませんが。

 少し踊り疲れたように見えてきたのでしょう。地方は『真謝井戸』を最後に、三線を置きました。三線の音がなくなったことで、逆に全員の意識が地方に向きます。地方は、コップの泡盛で少し口を湿らせると、みんなの視線を感じながら、また三線を構えます。「次は、何が出てくるのか?」みんなの期待が集まるそのとき、『竹富のクイチャー』です。待ってましたという感じで、みんなが立ち上がります。
 『竹富のクイチャー』は、巻踊りです。全員で輪になって踊ります。三曲セットになっていて、しかも、徐々にスピードがあがっていくという、「モーヤーへの序奏」にぴったりの曲。
 ついに、『六調節』が始まりました。乱舞です。うまい人はうまい。下手な人はへたなりに。

 地方と踊り手の勝負。今日の地方はなかなか手強い。少しリズムが緩やかになって、おや、終わりかな、と思わせておいて、またスピードアップ。こんな演出が、踊り手をますますその気にさせます。
 やっぱり、先に降参したのは地方でした。

 モーヤーが終わり、あちらこちらで会話の花を咲かせています。そこへ、忍び込むように三線の音。「八重山育ち」その後は、時々思い出したように、二揚の曲が始まります。ここまでくると、みんなで歌って踊るというよりも、歌いたい人が歌い、しゃべりたい人はしゃべる。眠りたい人は眠る?地方の仕事も終了ですね。

 こうして、八重芸のコンパは朝まで続くのでした。



GO MOUTH HERE MOUTH 忘勿石の文字は消えない
 忘勿=わすれるなかれ

 戦争は、何を破壊するのか。

 家、学校、道路、橋、

 人、木、山、川、

 心

 悲惨な沖縄戦。という言葉を聞いて思い浮かべるのは、沖縄本島と近隣離島に米軍が上陸したこと。艦砲射撃、地上戦、収容所などでしょう。どれも「沖縄」です。あまり「八重山」は出てこないのです。

 南から攻め上がってくる米軍が、最初に上陸するのは八重山だと思われていたのでしょう。八重山の最南端、波照間島では米軍上陸に備えて、住民が西表島へ強制的に疎開させられました。軍命令です。疎開先に指定された場所に行けば、マラリアにかかる恐れがあります。いやがる住民を、「山下(教員として島へやって来たが、実際は大本営直属の特務機関員。のちに偽名であったことがわかる)」が抜刀して追い立てたそうです。その際、家畜はほとんど処分されたと言います。
 なぜ、そうまでして疎開させたのか。
 波照間が危険だからという理由もあったのでしょう。しかし、住民がつかまると敵に利用されるとか、戦闘に邪魔だとか、また、処分した家畜を軍隊用の保存食にしたという話もあります。つまるところ、軍にとって住民は邪魔だった=軍の都合だったわけです。

 しかし、米軍が上陸したのは、八重山ではなく、沖縄本島に近い慶良間諸島でした。

 西表に疎開してからは、マラリアで倒れる人が続出。波照間島へ帰島してからも、惨状は続いたそうです。

うちの母ちゃんもよ、髪の毛全部抜けたって。

 学生時代、まだ琉大が首里にあった頃の八重芸の部室で、友人が「強制疎開」の話をしてくれたのでした。

 当時は、戦争マラリアについての書籍も出版されていませんし、戦争マラリアという言葉も聞かれなかったと思います。いえ、少しは話題になっていたのかもしれませんが、ほとんど知られていなかったと言ってよいでしょう。
 私は、友人の話す「マラリア」「強制疎開」といった、耳慣れない言葉を十分理解できないでいました。

 友人の話は続きます。

 戦争が終わって、やっと西表から波照間に戻れることになったって。そのとき、学校の校長先生してた人が、このひどい強制疎開を忘れないように、西表の海岸の岩に文字を彫ったって。その文字が、戦後30年以上たった今でも西表の海岸に残っている。ほら、おまえも行ったことあるだろう。ペーミ(南風見)の海岸よ。

 彼の両親も強制疎開の経験者なのです。両親は、戦後再び西表島へ渡り、農業を始めたそうです。この友人が生まれたのも西表でした。西表にある彼の家は、文字の刻まれた岩からそれほど遠くないそうです。

 当時の人々の怨念がこもったような文字。それが、風雨に耐えて現在まで残っている。文字は、石だけでなく強制疎開させられたすべての人の心にも刻まれているにちがいありません。

 真剣に話を聞いていると、彼は少し微笑んで、茶化すかのようにこう言いました。

 ということになっているんだけど、実は、うちの親父がときどき文字をなぞって、消えないようにしているんだ

 私は長い間、この言葉を「ちょっと笑える話」のように思っていました。

 その後、『もうひとつの沖縄戦(石原昌家監修・1983年ひるぎ社)』という本が出版されます。私もそれを読みました。とびらにはこのような文章が書かれています。

 西表島南風見海岸の「ヌギリヌパ」(俗称)の一角に平板な砂岩石がある。識名信升元国民学校校長が、沖縄戦の最中、疎開先で児童生徒を集めて寺子屋式授業を行った場所である。この疎開先でマラリアによる戦病死者が続出したので、そこを引き上げる際、マラリア禍の元凶を告発し、戦病死者を悼むために、この岩板に校長が「忘勿石・ハテルマ・シキナ」(波照間住民よ、この石を忘れる勿れ)という文字を彫った。
 この文字こそ、沖縄戦の戦没者を悼み、平和を祈念する碑文の原点である。

 あのとき、部室で彼の言っていた「文字」とは、まさにこれでした。
 この本は、当時の様子を知る人々から、できるだけ多くの証言を集めて、事実を丁寧に列挙する手法で書かれています。友人のお父さんの名前も見られましたが、文字をなぞった話は出ていません。読みすすむうちに、当時の悲惨な状況が解ってきました。友人が話してくれたことも、鮮明によみがえります。

「実は、うちの親父がときどき文字をなぞって、消えないようにしているんだ」

 私は、はっとしました。

 戦争の記憶は、どんどん薄れていきます。
 友人のお父さんは、砂岩に刻まれたその文字が薄れていくのを許せなかったのでしょう。同時に、人々が、戦争を忘れてしまうことを許せなかったに違いありません。石の前を通りかかったとき、あるいはその石に会いに行ったとき、文字をなぞることで、亡くなった家族や友人のことを想い、戦争への憎しみを新たにしていたに違いありません。お父さんはその文字「忘勿」をだれよりも実践していたのです。
 黙って文字をなぞる後ろ姿が私にも見えるような気がします。戦後何十年もの間、文字をなぞり続けたお父さんの背中。友人のあの微笑みは、話を理解できない私への哀れみだったのかもしれない。
 わたしは、この話を思い出すたびに、「笑える話」としかとらえられなかった自分が、情けなく思えます。同時に、このことを、戦争を体験していない私にとっての「戦争体験」だと思っているのです。

 現在、その場所には「忘勿石之碑」が建立されています。


 おっと、このページは、三線に関わる話をしなければいけなかった。関係あるんですよ。

 友人は、舞台で独唱をすることになりました。独唱曲は、基本的には好きな曲を選ぶことができます。(ときには、「えー?、それ、独唱に向かないんじゃないのー」と却下されることがありますけど)
 彼の選んだ曲は、『崎山節』でした。

 琉球王朝時代、農業生産を上げるため=税収を増やすために、有人島から無人地域へ強制的に移住させることがあったようです。『崎山節』は、波照間から西表島西北部の「崎山村」へ強制移住させられた人の歌です。

 歌詞を要約します。
 「山に登り、生まれ島の波照間を見ると、自分を産んでくれた親を見るような気持ちだ。しっかり見ようとすると、涙が溢れて見えなくなる。手で触れようとしても、遠くて届かない」(この後の歌詞は、「住めば都」といった感じになるのですが)
 彼の両親が経験した、強制疎開とだぶりますよね。

 西表で生まれ育った彼ですが、ルーツは波照間であるという強い信念のようなものを持っていました。もちろん、すばらしい歌を聴かせてくれました。

【補足】
 沖縄戦の組織的戦闘が終わったとされるのが6月23日。7月2日にはアメリカ軍が沖縄作戦の終了宣言を出していたにもかかわらず、「山下」は波照間島へ帰ることを許してくれませんでした。そこで、7月30日、当時の波照間国民学校識名校長が、「山下」に知られないよう八重山旅団本部へ疎開解除を直訴しました。本部長は島へ帰ることを許しましたが、それを聞いた「山下」は住民に「島へ帰るなら、玉砕することを覚悟しろ」と言ったそうです。
 波照間島へ戻ってからも、倒れる人が後を絶たず、強制疎開させられた人1,275人のうち、罹患した人は1,259人(約98%)。死亡者は461人(約36%)。私たちは、「沖縄戦」という言葉の中に、この「戦争マラリア」も思い浮かべられるようにしておかなければなりません。

参考資料:『もうひとつの沖縄戦(石原昌家監修・1983年ひるぎ社)』



GO MOUTH HERE MOUTH 醍醐味は触れあい
 大阪の知人の言葉です。

三線を始めてから、人とのつながりがひろがりました。笛を吹くようになって、ますますひろがった気がします」

 この人だけでなく、三線を始めて知人や仲間が増えたという人は少なくないでしょう。
 ギターやピアノでも、仲間が集まって演奏することはあるでしょうね。楽器、音楽を通して仲間が増えるというのは、三線にかぎったことではない。ですが、三線の場合は、仲間と演奏することでつながりが広がるだけではないような気がします。

 先ほどの知人が、こんなことも。

駅で、三線ケースらしきものを持っている人をみかけると、なんだか声をかけたくなるんですよ。あなたも弾くんですかーとか。本当に声をかけたことはないですけど」

 んー、気持ちはわかります。でも、駅で突然声をかけるのはやめておいた方がいいかもしれません。何かの勧誘だと思われそうです。

 ギターやピアノと比べれば、三線はまだまだめずらしい楽器なのかもしれません。だから、持っている人、演奏する人を見ると、知らない人でも仲間に会えたような気になるのでしょう。
 それに、三線が沖縄という土地と強い結びつきがあるということ。三線を持っているというだけで、「沖縄ファン」である可能性が非常に高いですよね。そのことも、仲間を感じさせる要因でしょう。

 三線を弾いている、あるいは持っているだけでも、人とのつながりを感じてしまうことが多いわけですが、人前で演奏するようになると、ますますふれあいの範囲は広がりそうです。

 ふれあいの範囲が広がる。これは正確に言うと「ふれあいのチャンス」が広がるのであって、三線を弾いているだけで仲間が自然に増えるわけではないですよね。ふれあうことが楽しい、仲間を増やそう。そんな気持ちがなければ、いくら三線をかきならしたところで、つながりはできないはずです。知人は、その楽しさを味わっているわけです。


 八重芸のサチコからメールが届きました。余興に行ったときの報告です。
 お年寄りのみなさんに、いろいろな舞踊を見ていただき、最後に六調(カチャーシー)で締めくくったという話なのですが、そのあとで思いがけない出会いがあったそうです。

元気ですか?沖縄はいい天気が続き、海も空もとてもきれいな色になってきました。

先日の土曜日にデイサービスの4,5,6月合同誕生日会の余興に行ってきました。
在宅介護サービスの中の一つのイベントらしく、たくさんのおじい、おばあと触れ合ってきました。

実はこの余興、私の中では忘れられないものになりました。
運命?ともいえるような出会いがあったんです。

いつものように六調で「嫁にきなさい。」だの「あんた本当に内地ねー!?」なんて会話をおばあとしていたのですが、(それでもやっぱり胸はじんじんきます。)最後に名前と出身地を紹介していると、一人のおばあに呼ばれました。

「あなた、静岡のどこの人?」

すかさず、隣のおばあが口を挟みます。

この人ねー、静岡から来たんだよー。で、うちなー口わからないからさー、私が教えてあげてるわけさー。」

このおばあちゃん、よく見ると内地のおばあちゃんの顔してるんですよ。しかも、地元でよく見るようなおばあちゃん。
私はドキドキしながら

私は沼津から来たんですよ。おばあちゃんはどちらから来たんですか?」

と話すと、おばあちゃん涙目になって(しっかり私の手を握って)、

私もね、沼津にいたのよ。こんなに遠い沖縄で沼津の人に会えるなんて夢みたいだわ。」

・・・びっくりというかなんというか、こちらも熱いものがこみ上げてきて涙目になりました。
なんでも、家族でこっちに来たそうです。

八重芸なかったら、この余興受けてなかったら会えない人でした。
「おばあちゃん、これ絶対運命だよー。」といって、ぎゅっと手を握り返しました。

名前を聞いたので住所調べて、手紙を書こうかななんて思ってます。
老人ホームの余興をやっていつも、「八重芸やってて良かったな。」と思います。
様々な年代の人に触れ合う、これが本当の醍醐味だったりして・・・

 沖縄の観光施設で、そうそう、空港でも、舞踊を見せたりカチャーシーをしたりしながらお客さんを楽しませているのを見ました。出演者のみなさんは精一杯の演技をしておられるのですけれど、カチャーシーには、不満が残ることがあります。
 先ほどまで舞台で踊っていた出演者が、客席まで下りてきてカチャーシーを踊ってくれる。それだけでお客さんは満足かもしれませんが、なんだか「下りることになっているから下りる」みたいな雰囲気で、笑顔がなかったり、笑っていてもお客さんを惹きつけるものではなかったり、ああ、もう少しであのお客さんも立ち上がるだろうに、なぜ?と思うことが何度かありました。
 もし、サチコのような気持ちがあれば、「ふれあえることが醍醐味」だと思えたら、お客さんはもっと立ち上がって踊ってくれるでしょうに。今のままでもお客さんは満足しているのでしょうけれど、もっと大きな満足をおみやげに持って帰ってくれるでしょう。そうすれば、演じ手ももっと大きな満足が得られるはずなのです。

 人とのかかわりを、面倒だとか、煩わしいと思う人が多いですよね。なのに、若いサチコが「ふれあえることが醍醐味」と言える。これに感動しました。こんな人が沖縄に増えてくれたら、観光産業の未来は、ものすごく明るいですよね。




GO MOUTH HERE MOUTH 島を知るのは難しい
 島を知る。

 民謡を趣味とする人にとっては、とても大切なことです。
 なんて言われなくても、三線を愛する人なら、島を愛し、島を知ろうとしていますよね。

 以前、離島の診療所を舞台にしたドラマが始まったとき、私はHPで公開していた日記に「与那国の景色」だの「無理に沖縄っぽく作っていないのがよい」だのと、当たり障りのないことを書きました。

 親友からメールが来ました。多良間島出身です。
 メールの中の「島ちゃび」とは、「離島苦」と訳すことが多いと思います。この言葉を発したときには、諦めにも似た嘆息が含まれているものです。

「無医村(島)」であるがゆえの苛立ちとかはがゆさ
怒り。
これは、自分の島でも共通の思いでした。
中学生の頃まで「医介輔」の方もいたし。
後で知ったのですが、韓国の方でした。
そのときは、事情もしらず
「変な日本語の医者だなー」くらいにしか思っていませんでした。

こんな事もありました。

弟は、陸上部でハードな練習後に
階段から足を滑らせ、怪我。
早速、診療所に運ばれたものの
「たいしたことないよー 。捻挫だからしばらくすると痛みもおさまるよー」
との医介輔さんの言葉に安心して帰宅したものの、痛みはおさまりませんでした。
腫れもひどくなったため、翌日の飛行機で石垣島へ。
飛行機も満席なのを無理言ってゆずってもらいました。
八重山病院での診察結果は
「大腿骨骨折」でした。
二ヶ月ほど入院しました。

祖母は、脳溢血で倒れヘリで石垣島へ運ばれましたが、
手当の甲斐なく翌日他界しました。


ドラマ中での島の人たちの複雑な気持ち。
かなりシンクロしましたねー。

「島ちゃび」のひとつが医療の質の低さです。
命にかかわることなのでこれは大きな問題です。
先日、竹富島で長い間「医介輔」として勤務されてた方が引退するとの記事を読みました。

俺にとって、このドラマの「志木那島」は架空の島でなく、過去の いや現在でも同じかもしれません。

現実の島なのです。

 私だって、離島苦を全く知らないわけではありません。離島における医療のありかたは、命に関わる最も重要な問題となっています。
 でも、ドラマはドラマ向きの設定になっています。日記にドラマの話を書きながら、現実の離島苦とごちゃ混ぜにしてしまうのは抵抗があったのです。だから、医療の話には触れなかった。
 などという言い訳は、親友の体験と並べてしまうと、なんと脆弱で、逃げ腰なんでしょう。そうです。触れなかったのではなく、避けていました。
 こまったヤツです。私の心の中を見透かしたように、こんなメールを送ってくるのですから。

 1978年8月。波照間島で八重芸の合宿がありました。1年生だった私にとって、初めての合宿でした。
 ある夜、先輩と話をしていたときのこと。

 「ぼくは、沖縄が好きです。八重山が好きです。離島って、いいなあと思います」

 この言葉は、たいていの沖縄県民を喜ばせます。ところが、この言葉を聞いた先輩は、私に説教を始めました。

おまえに、何がわかる。本当に島がいいと思うのか?どうして島からみんなが出て行くのか、知っているのか!」

 医者がいない。仕事がない。台風が来たら食べるものもなくなる。人間関係がむずかしい。プライバシーなんて望むべくもない。先輩は、まくし立てました。酔っていました。酔っていなければ言えなかったかもしれません。島を愛していながら、島を否定しなければならない先輩の自分自身への苛立ちは、目の前で、あっけらかんと「離島が好き」と言う色白の男へ向けられましたが、男はだまって聞いているだけで、何も伝わっていない。そう思うことが、さらに苛立ちを増幅させたと思います。
 色白の男=当時の私にも、なんとなく伝わってはいたのですよ。あのとき先輩の話を聞けた私は、幸せだったと心の底から思っています。

 だから、離島苦を知らずに島のことを語ってほしくないという気持ちは私の心の中にもあります。このHPを見ている人には知ってほしい。でも、私が「離島苦」を語っても、深みがないでしょう。しっかり伝える自信もないですし。というわけで、避けていました。そこに、親友からのメールです。

 「どうして肝心なことを書かないのですか?」

 とは書いてはいないけれど、確かにそう言っています。

 結局、彼のメールに頼らせてもらいました。彼に、感謝しています。

○誤解のないように補足させていただきます。
 「医介輔」さんは、離島においてたいへん大きな役割を果たしてこられましたし、今もそうです。彼もそのことを十分承知の上で、離島における医療の問題を伝えてくれています。

○「介輔」について『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社)から一部引用し説明します。
 主として医師のいないへき地や離島で開業したり、あるいは公立の診療所で勤務しており、医師および歯科医師ならびに保健所長の監督のもとで業務に従事している。介輔、歯科介輔が離島・へき地医療に果たした役割は大きく、住民のあつい信望を集めて、日夜の診療のみならず、地域保険事業にも参加して地域の発展に大きく貢献している。
 戦後の医師不足を補うために設けられた制度が、復帰後も特別措置により存続されている。




GO MOUTH HERE MOUTH 「おばあ」と呼ばない
 「今見る?あとで見る?」

 妻が声をかけてくれました。お昼に放送していた番組の録画のことです。

 妻といっしょに見ました。沖縄の「栄町市場」からの生中継。の録画です。アナウンサーとお肉屋さんの女性二人が、市場の中を歩き回りながら、おばあに声をかけ、話を聞きます。どのおばあも元気そのものです。

 「沖縄のおばあは、元気ですねえ」
 「おばあには、勝てないですよ」

 といった会話をしながら、番組はすすみます。私が妻に尋ねます。

 「おばあ!って、失礼じゃないかねえ」
『ぃえー、おばー』とか言ったら、叱られそうだけど。今は、これがいいと思っているんじゃないの」

 沖縄では、親しみをこめて「おばあ」と声をかける。間違いではないです。でも、親しみを込めて「おばあ」と声をかけられるのは、親しい人でしょう。親しくもないのに、親しげに「おばあ」なんて言われたら、気持ち悪いです。それに、「おばあ」は「お婆さん」です。知らない人から「お婆さん」と言われて、躊躇いもなくにっこりできるのは、それはよほどのお婆さんですよね。私たち、列車内で席を譲るときも、それをまず考えませんか?この人に席をゆずっていいだろうか。年寄り扱いしているみたいで、かえって失礼にならないかと。

 番組は終盤。アナウンサーが締めの言葉とお礼を言っているときです。そのおばあさんが、とうとう言いました。

 「まだ、おばあじゃないよ」

 笑いながらですし、気分を害したようには見えませんでしたが、視聴者の中で、「おばあ」という言葉を使うアナウンサーに首をかしげていたのは、私たち夫婦だけではないと思うのです。

 と、ここで終わろうと思ったのですがもう一言。
 県内のみなさんなら「おばあ」の使いどころが分かっていて当然です。では、県外のみなさんはどのように呼びかければよいのか。安心してください。あなたが地元で「初対面の先輩に使っている言葉」で大丈夫です。地元なら「おばあさん」と呼びかけるだろうと思える相手にはそのように。「おばあさん」とは呼びかけにくいから「あのう、すみません」だと判断すればそれで。普段使っている言葉が一番自然で、相手にも伝わりやすいと思いますよ。

2003,11



GO MOUTH HERE MOUTH
 妻の母は、宮古島城辺町出身です。戦後、那覇に引っ越してきて新居を構えたそうです。ですから、妻は那覇生まれで、宮古のことはほとんど知りません。
 宮古島出身者は、沖縄本島では肩身の狭い思いをしていたようですが、島の話を喜んで聞く私に、母は子どもの頃のことや言葉の違いなどを楽しそうに話してくれました。

 あるとき、下地勇さんのCDを送りましたら、それをたいそう気に入ってくれました。民謡のことは、あまり詳しくなくて、音楽といえば懐メロくらいしか聴かなかったようですが、宮古の言葉で歌う下地さんの曲を聞くのは楽しいらしく、聞きながら声を出して笑っていました。ふるさとの言葉の力はすごいものだと感心しました。
 だったら、私が宮古民謡を歌って録音して、聞いてもらうのはどうだろう。そんなことを思いついて、宮古民謡を録音し始めました。20曲を目標に練習をして、なんとか歌と三線だけは録音したのですが、太鼓と返しも重ねてCDに焼いてみよう。そんなことを考えている間に、母は旅立ってしまいました。しかたありません。これからずっと練習を続けていれば、私があちらへ行って、直接聞いてもらえることでしょう。

 私の親友は、八重芸OBで多良間出身です。もちろん、母にも紹介したことがあります。「宮古と多良間は違う」とかなんとか言いながらも、母は親友のことを、親友は母のことを、気にかけていてくれたようです。母が経営している小さな食堂に、親友が職場の同僚を連れて行ってくれたことがあって、そこで歌や踊りを披露したものですから、母はとても喜んだそうです。また、いつぞやは、こんなことがありました。私が親友を連れて、母の食堂へ行ったとき、しばらく母を含めて三人で話をしていたのですが、私がトイレに立って戻ってくると、親友が少し困ったように、うつむきながら母の話を聞いているのです。店を出てから事情を聞きましたら、

いやあ、説教されていたんですよ。あんたは、どうして島に帰らないのかーって。人のことを本気で心配してくれるなんて、やっぱり宮古の人ですよねえ。」

 と言いながら、頭をかいていたのでした。

 実は、我が親友に母が旅立ってしまったことを伝えないままでした。八重芸OBが新聞で告別式のことを知り、親友に連絡が入り、告別式に来てくれたそうです。電話でお礼を言いましたら、私の妻の母であるという関わりだけでなく、会ってお話をしたし、いろいろお世話になったかたですから。などと、うれしいことを言ってくれました。

 八重芸関係者も参列したからでしょうか、大勢の人が集まってくださって、それを見た妻のきょうだいや親族が驚いたそうです。みなさんに愛されて、見送られて、本当によかった。でも、できれば、もう少し宮古のお話を聞かせてほしかったです。宮古の歌を聴いてもらって、「うう゛ぁ、みゃーくぴとぅさいが!」と言われてみたかったです。