醍醐味は触れあい | ||||||||||||
大阪の知人の言葉です。
この人だけでなく、三線を始めて知人や仲間が増えたという人は少なくないでしょう。 ギターやピアノでも、仲間が集まって演奏することはあるでしょうね。楽器、音楽を通して仲間が増えるというのは、三線にかぎったことではない。ですが、三線の場合は、仲間と演奏することでつながりが広がるだけではないような気がします。 先ほどの知人が、こんなことも。
んー、気持ちはわかります。でも、駅で突然声をかけるのはやめておいた方がいいかもしれません。何かの勧誘だと思われそうです。 ギターやピアノと比べれば、三線はまだまだめずらしい楽器なのかもしれません。だから、持っている人、演奏する人を見ると、知らない人でも仲間に会えたような気になるのでしょう。 それに、三線が沖縄という土地と強い結びつきがあるということ。三線を持っているというだけで、「沖縄ファン」である可能性が非常に高いですよね。そのことも、仲間を感じさせる要因でしょう。 三線を弾いている、あるいは持っているだけでも、人とのつながりを感じてしまうことが多いわけですが、人前で演奏するようになると、ますますふれあいの範囲は広がりそうです。 ふれあいの範囲が広がる。これは正確に言うと「ふれあいのチャンス」が広がるのであって、三線を弾いているだけで仲間が自然に増えるわけではないですよね。ふれあうことが楽しい、仲間を増やそう。そんな気持ちがなければ、いくら三線をかきならしたところで、つながりはできないはずです。知人は、その楽しさを味わっているわけです。 八重芸のサチコからメールが届きました。余興に行ったときの報告です。 お年寄りのみなさんに、いろいろな舞踊を見ていただき、最後に六調(カチャーシー)で締めくくったという話なのですが、そのあとで思いがけない出会いがあったそうです。
沖縄の観光施設で、そうそう、空港でも、舞踊を見せたりカチャーシーをしたりしながらお客さんを楽しませているのを見ました。出演者のみなさんは精一杯の演技をしておられるのですけれど、カチャーシーには、不満が残ることがあります。 先ほどまで舞台で踊っていた出演者が、客席まで下りてきてカチャーシーを踊ってくれる。それだけでお客さんは満足かもしれませんが、なんだか「下りることになっているから下りる」みたいな雰囲気で、笑顔がなかったり、笑っていてもお客さんを惹きつけるものではなかったり、ああ、もう少しであのお客さんも立ち上がるだろうに、なぜ?と思うことが何度かありました。 もし、サチコのような気持ちがあれば、「ふれあえることが醍醐味」だと思えたら、お客さんはもっと立ち上がって踊ってくれるでしょうに。今のままでもお客さんは満足しているのでしょうけれど、もっと大きな満足をおみやげに持って帰ってくれるでしょう。そうすれば、演じ手ももっと大きな満足が得られるはずなのです。 人とのかかわりを、面倒だとか、煩わしいと思う人が多いですよね。なのに、若いサチコが「ふれあえることが醍醐味」と言える。これに感動しました。こんな人が沖縄に増えてくれたら、観光産業の未来は、ものすごく明るいですよね。 |
島を知るのは難しい | ||||
島を知る。 民謡を趣味とする人にとっては、とても大切なことです。 なんて言われなくても、三線を愛する人なら、島を愛し、島を知ろうとしていますよね。 以前、離島の診療所を舞台にしたドラマが始まったとき、私はHPで公開していた日記に「与那国の景色」だの「無理に沖縄っぽく作っていないのがよい」だのと、当たり障りのないことを書きました。 親友からメールが来ました。多良間島出身です。 メールの中の「島ちゃび」とは、「離島苦」と訳すことが多いと思います。この言葉を発したときには、諦めにも似た嘆息が含まれているものです。
私だって、離島苦を全く知らないわけではありません。離島における医療のありかたは、命に関わる最も重要な問題となっています。 でも、ドラマはドラマ向きの設定になっています。日記にドラマの話を書きながら、現実の離島苦とごちゃ混ぜにしてしまうのは抵抗があったのです。だから、医療の話には触れなかった。 などという言い訳は、親友の体験と並べてしまうと、なんと脆弱で、逃げ腰なんでしょう。そうです。触れなかったのではなく、避けていました。 こまったヤツです。私の心の中を見透かしたように、こんなメールを送ってくるのですから。 1978年8月。波照間島で八重芸の合宿がありました。1年生だった私にとって、初めての合宿でした。 ある夜、先輩と話をしていたときのこと。 「ぼくは、沖縄が好きです。八重山が好きです。離島って、いいなあと思います」 この言葉は、たいていの沖縄県民を喜ばせます。ところが、この言葉を聞いた先輩は、私に説教を始めました。
医者がいない。仕事がない。台風が来たら食べるものもなくなる。人間関係がむずかしい。プライバシーなんて望むべくもない。先輩は、まくし立てました。酔っていました。酔っていなければ言えなかったかもしれません。島を愛していながら、島を否定しなければならない先輩の自分自身への苛立ちは、目の前で、あっけらかんと「離島が好き」と言う色白の男へ向けられましたが、男はだまって聞いているだけで、何も伝わっていない。そう思うことが、さらに苛立ちを増幅させたと思います。 色白の男=当時の私にも、なんとなく伝わってはいたのですよ。あのとき先輩の話を聞けた私は、幸せだったと心の底から思っています。 だから、離島苦を知らずに島のことを語ってほしくないという気持ちは私の心の中にもあります。このHPを見ている人には知ってほしい。でも、私が「離島苦」を語っても、深みがないでしょう。しっかり伝える自信もないですし。というわけで、避けていました。そこに、親友からのメールです。 「どうして肝心なことを書かないのですか?」 とは書いてはいないけれど、確かにそう言っています。 結局、彼のメールに頼らせてもらいました。彼に、感謝しています。 ○誤解のないように補足させていただきます。 「医介輔」さんは、離島においてたいへん大きな役割を果たしてこられましたし、今もそうです。彼もそのことを十分承知の上で、離島における医療の問題を伝えてくれています。 ○「介輔」について『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社)から一部引用し説明します。 主として医師のいないへき地や離島で開業したり、あるいは公立の診療所で勤務しており、医師および歯科医師ならびに保健所長の監督のもとで業務に従事している。介輔、歯科介輔が離島・へき地医療に果たした役割は大きく、住民のあつい信望を集めて、日夜の診療のみならず、地域保険事業にも参加して地域の発展に大きく貢献している。 戦後の医師不足を補うために設けられた制度が、復帰後も特別措置により存続されている。 |
「おばあ」と呼ばない | |||
「今見る?あとで見る?」 妻が声をかけてくれました。お昼に放送していた番組の録画のことです。 妻といっしょに見ました。沖縄の「栄町市場」からの生中継。の録画です。アナウンサーとお肉屋さんの女性二人が、市場の中を歩き回りながら、おばあに声をかけ、話を聞きます。どのおばあも元気そのものです。 「沖縄のおばあは、元気ですねえ」 「おばあには、勝てないですよ」 といった会話をしながら、番組はすすみます。私が妻に尋ねます。 「おばあ!って、失礼じゃないかねえ」
沖縄では、親しみをこめて「おばあ」と声をかける。間違いではないです。でも、親しみを込めて「おばあ」と声をかけられるのは、親しい人でしょう。親しくもないのに、親しげに「おばあ」なんて言われたら、気持ち悪いです。それに、「おばあ」は「お婆さん」です。知らない人から「お婆さん」と言われて、躊躇いもなくにっこりできるのは、それはよほどのお婆さんですよね。私たち、列車内で席を譲るときも、それをまず考えませんか?この人に席をゆずっていいだろうか。年寄り扱いしているみたいで、かえって失礼にならないかと。 番組は終盤。アナウンサーが締めの言葉とお礼を言っているときです。そのおばあさんが、とうとう言いました。 「まだ、おばあじゃないよ」 笑いながらですし、気分を害したようには見えませんでしたが、視聴者の中で、「おばあ」という言葉を使うアナウンサーに首をかしげていたのは、私たち夫婦だけではないと思うのです。 と、ここで終わろうと思ったのですがもう一言。 県内のみなさんなら「おばあ」の使いどころが分かっていて当然です。では、県外のみなさんはどのように呼びかければよいのか。安心してください。あなたが地元で「初対面の先輩に使っている言葉」で大丈夫です。地元なら「おばあさん」と呼びかけるだろうと思える相手にはそのように。「おばあさん」とは呼びかけにくいから「あのう、すみません」だと判断すればそれで。普段使っている言葉が一番自然で、相手にも伝わりやすいと思いますよ。 2003,11 |
母 | |||
妻の母は、宮古島城辺町出身です。戦後、那覇に引っ越してきて新居を構えたそうです。ですから、妻は那覇生まれで、宮古のことはほとんど知りません。 宮古島出身者は、沖縄本島では肩身の狭い思いをしていたようですが、島の話を喜んで聞く私に、母は子どもの頃のことや言葉の違いなどを楽しそうに話してくれました。 あるとき、下地勇さんのCDを送りましたら、それをたいそう気に入ってくれました。民謡のことは、あまり詳しくなくて、音楽といえば懐メロくらいしか聴かなかったようですが、宮古の言葉で歌う下地さんの曲を聞くのは楽しいらしく、聞きながら声を出して笑っていました。ふるさとの言葉の力はすごいものだと感心しました。 だったら、私が宮古民謡を歌って録音して、聞いてもらうのはどうだろう。そんなことを思いついて、宮古民謡を録音し始めました。20曲を目標に練習をして、なんとか歌と三線だけは録音したのですが、太鼓と返しも重ねてCDに焼いてみよう。そんなことを考えている間に、母は旅立ってしまいました。しかたありません。これからずっと練習を続けていれば、私があちらへ行って、直接聞いてもらえることでしょう。 私の親友は、八重芸OBで多良間出身です。もちろん、母にも紹介したことがあります。「宮古と多良間は違う」とかなんとか言いながらも、母は親友のことを、親友は母のことを、気にかけていてくれたようです。母が経営している小さな食堂に、親友が職場の同僚を連れて行ってくれたことがあって、そこで歌や踊りを披露したものですから、母はとても喜んだそうです。また、いつぞやは、こんなことがありました。私が親友を連れて、母の食堂へ行ったとき、しばらく母を含めて三人で話をしていたのですが、私がトイレに立って戻ってくると、親友が少し困ったように、うつむきながら母の話を聞いているのです。店を出てから事情を聞きましたら、
と言いながら、頭をかいていたのでした。 実は、我が親友に母が旅立ってしまったことを伝えないままでした。八重芸OBが新聞で告別式のことを知り、親友に連絡が入り、告別式に来てくれたそうです。電話でお礼を言いましたら、私の妻の母であるという関わりだけでなく、会ってお話をしたし、いろいろお世話になったかたですから。などと、うれしいことを言ってくれました。 八重芸関係者も参列したからでしょうか、大勢の人が集まってくださって、それを見た妻のきょうだいや親族が驚いたそうです。みなさんに愛されて、見送られて、本当によかった。でも、できれば、もう少し宮古のお話を聞かせてほしかったです。宮古の歌を聴いてもらって、「うう゛ぁ、みゃーくぴとぅさいが!」と言われてみたかったです。 |