教え方を学んでいない | ||||
教える人と教えられる人。昔なら「師匠と弟子」。今は「先生と生徒」でしょうか。 師弟関係という言葉から思い浮かべるのは、芸能の世界か芸術の世界。弟子が師匠の家に住み込んで、師匠の身の回りの世話をしたり仕事の手伝いをしながら、師匠の芸や技術を盗む。幾たびの挫折を乗り越えて、やがて独り立ちして、その世界で名を知られるようになった頃、「今、私がここにいられるのも、師匠のおかげです」と遠い目をして語る。かっこいいですよね。 先生と生徒(教育ではなくて、芸能の話)の関係では、一人の先生が大勢の生徒を教える。先生と生徒の関係は、基本的には授業の時間だけで、教室を出てしまえば、顔を会わせることもほとんどなし。先生は、その授業時間に、すべての生徒がきちんと目標を達成できるように、一人ひとりの生徒に合った指導方法を考え、実践していきます。そこが三線教室なら、先生は生徒に三線の演奏技術や歌を教え、生徒は先生に授業料を払うわけです。師弟関係では、師匠が弟子におごることはあっても、弟子が師匠にお金を渡すことは無かったでしょうね。 もし、こんな三線教室があったら、どうでしょう。
授業料の授受という先生と生徒の割り切った考え方と、教わるのではなく盗むのだという師匠と弟子の緊張感を持ったすばらしい関係だ。と思う人もいるのでしょうか。私は、こんな教室はだめだと思います。そして、残念ながら、これに近い教室は、実在するのではないかと思っています。 私がこんなことを書いても、まじめな「生徒さん」はこう考えるでしょう。
もちろん、本当にすばらしい先生かもしれません。 でも、大勢の生徒を教えれば、中には優秀な生徒も出てきます。教えなくても、先生のまねが立派にできる生徒や、先生にできないことまでやってのける生徒も出てくるかもしません。その優秀な生徒を見て、「あの先生の教え方はすばらしい」と思う人もいるでしょうね。それは先生がすばらしいのではなくて、生徒が優秀なのです。先生としての技量は、優秀な生徒を見てもわかりません。 技術がなかなか習得できない生徒。覚えるのに時間のかかる生徒。やる気がなかなかわいてくれない生徒。どこかで躓いて前に進めずにいる生徒。そういった生徒を、どのように指導して「授業料」に見合った結果を残せるか。そこが大切だと思うのです。 叱咤激励してくれる先生は多いようです。 「できないのは、練習が足りないから」「よく聞いて、もっと歌いこみなさい」「なんでできないの?」「あんたは、いつもそこができないね」「それができるようにならないと、次へ進めないよ」 こんな言葉を投げかけられた人もいると思います。激励だと思えばそのように聞こえますが、私には指導できない自分の力量を棚に上げて、生徒のせいにしているだけに聞こえます。 「できないのは、練習が足りないから」=どのような練習をすれば良いかを指導せずに、練習量だけを言うのは、根性でなんとかなるという二昔前のスポーツの世界と同じ。 「よく聞いて、もっと歌いこみなさい」=よく聞いていない人がいるでしょうか。聞くべきポイントを教わらなければ、何度聞いても進歩しないし、歌いこむにしても課題をはっきりさせておかなければ、喉を痛めるだけ。 「なんでできないの?」=それを一緒に考えるのが先生。 「あんたは、いつもそこができないね」=それがわかっているなら、どうすれば克服できるかを指導すべき。 「それができるようにならないと、次へ進めないよ」=できないことだけを責めて、次へ進むための指導をしなければ意味がない。 こういった「配慮を欠いた指導」が、大勢の生徒さんを苦しめ、三線の世界から排除してしまっている。というのは、私の考えすぎでしょうか。 これが、師弟関係であれば、すばらしい師匠といえるかもしれません。弟子の中から優秀な人材を発掘し、一人前に育て上げる。一方、この世界に向いていない弟子には、才能が無いということを思い知らせて、別の世界で活躍できるように配慮するのです。 趣味として学んでいる三線は、師弟関係の世界とは違うはずです。先生がもっと的確な指導をしてくれていれば、途中でやめることもなかったし、趣味としてもっと楽しめたかもしれないのです。 「指導の上手下手はともかく、先生のおかげで私は上達できた」とか「先生の人間性が好きだから教室に通うのが楽しい」と言える人はいい。ですが、言えずに去っていく生徒がいることを考えなければいけないし、そういった人を無視する指導者は、本当の意味で指導者とは言えないと思うのです。 三線音楽の世界には、「すばらしい歌い手」は多いですが、「すばらしい先生」はまだ少ないと思います。今後、すばらしい先生を増やすためには、生徒自身が「私はだめだ」などと自分を責めてしまってはいけないと思います。「技術だけじゃないものを教えてもらっている」などと自分を慰めるのはもってのほか。できないとき、わからないときには、先生に食い下がって「だから、どうすればいいのか教えてください。一緒に考えてください」と訴えて、先生に、本気になって考えさせなければいけないと思います。生徒が自分に厳しくあることはすばらしいのですが、「指導をしてくれない先生」を「本当の指導ができる先生」へと、生徒の力で変えていかなければ、三線の世界が本当に広がることはないと思うのです。 |
質問は宝物 | |
いろんな質問をいただきます。 三線の購入についてはもちろん、チューナーの使い方、工工四の記号、演奏の方法、歌詞の意味、練習向きのCDを教えてくださいというものまで。そうそう、沖縄県内の見所を教えてくださいという質問も受けたことがあります。 どの質問も、私にはとても参考になります。うれしい質問です。ですが、ときどき不思議に思うことがあります。 それは、教室に通っておられる方からの質問です。なぜ、教室の先生に質問しないのだろうと思ってしまいます。 決して、質問を受けるのが面倒だから言うのではありません。先ほども書きましたが、質問を寄せていただけて、私は嬉しいのです。先生だって同じように、質問されれば嬉しいと思うのです。 指導する立場の人にとって、生徒さんからの質問は宝物と言っても良いでしょう。その宝物を、生徒さんが、先生以外の人にプレゼントしてしまうなんて、ああ、もったいない。 教室に通っておられる方で、私に質問をしてみようと思ったときには、教室の先生にも私にも、同じ質問をしてみてみるといいでしょうね。私の回答が先生と違っていたら、二つの違った答えが手にはいるのですから、生徒さんにとっても楽しいことですよね。 なぜ、質問が指導者にとっての「宝物」なのか。 まず、生徒さんのことがわかるからです。生徒さんが「今何をわからない状態なのか」、そして「何を知りたいのか」、時には「どこでつまづいているのか」までわかるのです。 そして、指導者自身の問題点も見つかることがあります。質問の内容を聞いて、指導が抜け落ちていた部分があったことがわかったり、もし指導してあったとしても、十分に伝わっていない(身についていない)のであれば、その部分の指導が弱かったと考えられるのです。 また、質問に答えることで、生徒さんとの距離が縮まることもあります。一つの質問に答えることで、次の質問をしやすくできるかもしれません。質問のしにくい関係よりも、しやすい関係の方が、普通は上達も早いでしょう。 こういうことを書きますと、「答えられないような質問をしてくる生徒がいる。そういうことは、後々わかってくることだということが、わからないんだ」などと、質問する生徒さんが悪いような言い方をする人もいるかもしれません。それは大間違い。なぜなら、「後々わかってきますから、今はその点は気にしないで先に進みましょう」とか「それは言葉では表現しにくいですねえ。それよりも、この練習を続けてみてください。だんだんわかってくると思いますよ」といった指導もできるはずなのです。答えられないから質問が悪いといった考えは、最悪といってもいいでしょう。 質問が宝物だと思える指導者は、指導することを学ぼうとしているはずです。そんな指導者が増えてほしいものです。 |
習い上手になりたい | ||
今はなくなってしまった大阪梅田の飲食店。店主が主催する「サンシン友の会」という集まりが、その店で月に一度ありました。私も参加させていただいたのです。参加費300円という、店主には申し訳ないような金額を手渡して、大きな声で歌えて、情報交換ができて、おしゃべりが楽しめて、お茶(お酒)やお菓子まで出てくるという、夢のような場所でしたねえ。 まだ、その店があった頃、沖縄に住んでいた友人たち(八重芸OB)が大阪に移住してきました。そもそも彼(彼女)らは関西出身なので、帰ってきたと言うべきなんですけど。で、「サンシン友の会」へ参加するように誘ってみたわけです。 その中にノリコとフミという二人の女性がいます。八重芸OBですから舞踊ができる。よい機会だから、「サンシン友の会」で顔を合わせている間に、舞踊を一つ私に教えてちょうだい。とお願いして、私、無謀にも舞踊を始めました。扇子も買いましたよ。楽しいですよ『鷲ぬ鳥節』。ビデオを見て形を覚えて、彼女たちの前で踊って、指導を受けるわけです。といいましても、2度やっただけ。彼女たちも指導というより「よく覚えましたねー。えらいえらい」ってな感じなんですが。 ある日、店のチーフ(店主の妻)が『鷲ぬ鳥節』に挑戦したいとおっしゃいます。たまたまこの日は、ノリコとフミが都合で参加できない日でしたので、教える人がだれもいません。で、私が先生に。無茶ですよね。 踊ったことがない、扇子を持ったこともないという人に、踊りを教える。難しいです。何から教えればよいのかがわからないのです。足から?手から?歌から?チーフのやる気に支えられて、なんとか一番をやりましたが、教え上手な人ならばもっと効率よく覚えられたでしょうに。申し訳ないです。 ノリコにメールを出しました。『鷲ぬ鳥節』の先生をやったけれど、難しかった。今度よろしくお願いします。すると、彼女からこんな返事が来たのです。
また、後輩から教えられました。なんだか、人生を学ばせていただいたような気になっています。 私も遠い目で・・・あらら、遠すぎて何も見えませんねえ。 |
子どもになりたい | ||||
子どもは、何をやらせても上達が早い。だから、子どもの頃から習い事をさせたい。とはよく聞くお話。世の芸術家の多くは、幼少の頃からその分野で才能を見いだされ、すばらしい指導者の下で大成できたのでしょう。 「ああ、もっと若い頃から三線に出会っていればなあ」と悔やむ人がいるようです。気持ちはわかります。でも、趣味で歌三線をやるのですから「何歳からだと遅すぎる」といったことは考える必要はないと思います。 「よく聞いて繰り返してください。ディス イズ ア ペン」 「ディス イズ ア ペン」 「ディス イズ ア ブック」 「ディス イズ ア ブック」 「はい、よろしい」 「はい、よろしい」 「あはは、それはいいの」 「あはは、それはいいの」 「だから、それは真似しなくていいの」 「だから、それは真似しなくていいの」 「こら」 「こら」 これは、コントの世界でしかありえません。子どもにだって、考える力があります。先生の言ったことの、どの部分を真似ればよいのかはわかります。歌を学ぶときにも、同じことが言えます。先生が途中で咳払いをしたからといって、それまで真似て歌う子どもはいないでしょう。 子どもですら、「真似ていない部分」があります。でも、大人と子どもを比べてみると、「真似ていない部分」の多さは(大人)>(子ども)だと思いませんか? たとえば、私たちが先生から歌を教えていただくとします。まず、先生の歌を自分の目や耳を通して自分の中に取り込みます。そして、覚えた歌を自分の体を使って表現するわけです。さきほどの話のように、先生の歌の中に咳払いが入っていれば「これは真似なくてよい」と判断しますし、目を閉じて歌う先生だからといって、生徒も全員目を閉じているということはないと思います。目を閉じることは「真似なくてよい」ことだと判断するからです。 人の真似をすることが、学ぶことの始まりだとだれもが知っているはずですが、案外真似ていない部分があるのです。咳払いや目を閉じるかどうかというのはともかくとして、先生の歌の中にある、小さな声のふるえだとか、声が上がるときに、一度沈み込むようになる部分だとか、声をえぐるように出すときに、顎(あご)が捻るように上下することとか、胸の反り方や顎の引き方、そういった部分を「真似なくてよい」と勝手に判断してしまっている。たしかに、「メロディー」とは関係ない部分かもしれません。でも、この「真似ていない部分」が、実はとても重要なのではないかと思っています。 小さな事にこだわりすぎて、前に進まないというのは困りますが、先生の歌の、メロディーだけを覚えているようでは、先生に教わる意味がないでしょう。できるだけ多くのことを真似る=学ぶことで、味のある歌になる。先生の歌に近づける。だから真似られるだけ真似る。子どものように真似る。それが大切なのだろうと思うのです。 そんなことは、わかりきっている。と思った大人のかたは、たぶん大丈夫だと思います。先生の歌をしっかりと真似ていらっしゃることでしょう。 ところで、こんな心当たりはありませんか?
大人になりますと、知恵がつきます。言葉も増えます。だから、一つのことをいろいろな角度から見て、様々な分析を試みます。分析して、納得してから真似たい。大人らしい考えですけれど、「分析してから」という気持ちが入ったとき、すでに真似ていることにはなっていません。上のような例では、もし子どもなら、尋ねるより前に、そっくりそのまま真似ているはずなのです。え?真似るのが難しい?分析する方が、よほど難しいでしょう。 すでに子どもでなくなってしまった私たちですが、子どものように覚えたい。心がけ次第で、できそうな気がしますが、いかがでしょうか。 「ディス は、舌を噛むんですよ。はい、ディス」 「ディス」 「まだだめ。もう一度、ディス」 「ディス」 「全然ダメ。だって、血が出てないもの」 |
できない理由 | |||||||||
真剣に悩んでいらっしゃるからこそ、いい加減な返事はできません。では、いきましょう! 1番の方。あと1年早く始めていれば、もう少し早く上達していたでしょう。でも、あと2年早く始めていれば、1年早く始めた場合よりももっと早く上達していたでしょう。5年早ければ、10年早ければ、そりゃそうです。でも、タイムマシンはありません。何歳から始めるかなんて、考えても無駄です。若い方が覚えがよいのは当然です。でも、若くないからできないとは言えません。年のせいにするなんて、最低です。 2番の方。音感が悪いんですね。そりゃ無理です。学校で習った曲も、童謡も、曲という曲すべてがまったく歌えないとか、音楽に合わせて手拍子が打てないというなら、それは大変です。私は今までに、一人だけそういう人に出会いました。でも、その人は音楽に合わせて踊る努力をして、舞台の上で踊りました。「与那国ぬ猫小」という踊りです。もう一度尋ねます。あなた、曲に合わせて手拍子が打てませんか?一曲も歌えませんか?もし、手拍子くらい打てる。音楽の授業で習った歌は歌っていた。というなら、音感の心配は必要ありません。できないのは、音感がないからではなくて、練習不足か、練習のしかたが悪いのです。できないことを、音感のせいにするなんて、最低です。 3番の方。コントラバスって、知ってます?人の背丈ほどもある楽器です。左手で弦を押さえるのは、三線と同じ理屈です。コントラバスの演奏をする人は、指を広げると1メートルもある・・・はずがないです。手が小さいから勘所がばらつくのではなくて、勘所がばらつかないような訓練をしていないからです。できないことを、手の大きさのせいにするなんて、最低です。 4番の方。だったら、もう、生まれ変わってください。ですが、その前に言っておきます。今の沖縄県民全員が沖縄方言を話せるわけではありません。歌手でも、方言の話せない人はいます。確かに、言葉が話せる人は、話せない人よりは都合が良いでしょう。でも、言葉が話せないから歌えない。という理屈は通りません。民謡らしく歌えないのは、民謡らしく歌う練習をしていないから。あるいは、その練習がまだ足りないからです。出身地や育ちのせいにするなんて、最低です。 ひどい書き方です。でも、もしこれらの質問に「その通りですね」と答えてしまったら、どうなります?たとえば、 「20歳までには始める方が良いですね」と言ったら、50歳の人に「あなたは、消費期限が切れてます」と言ってることになります。 「音感の良さは、絶対です」と言ったら、音楽の苦手な人は三線をやるなと言っているようなものでしょう。 「〈七〉まで小指が届かないことには、話になりません」と言ったら、手の小さい人は演奏できないことになります。 「方言がわかる人でなきゃ、だめ」と言ったら、小さな島の民謡は、歌える人が数十人?そんなばかな。 できない理由を見つけることは大切です。でも、その理由を年齢や出身地や体格のせいにしてはいけません。「若い方がいい」「大きい方がいい」「鋭い方がいい」「ネイティブの方がいい」というのは、おそらく正しいでしょうけれど、それらは「できない理由」ではありません。そんな理由を考えて立ち止まるくらいなら、目標を目指して歩く方が良いに決まっています。もし、何かに行き詰まったら、先生に相談しましょう。仲間に相談しましょう。だれもいなければ、どうぞ私にメールをください。ひどいことは言いませんから。 |