GO MOUTH HERE MOUTH 正しい歌って?
   〜このお話はフィクションです〜

 (とある民謡酒場にて)

 いやあ、うまいですねえ。この店には、よく来られるんですか?

ありがとうございます。ときどき飲みに来るんですよ」
 驚きましたよ。八重山民謡を歌う人はなかなかいませんもの。

いや、おはずかしい。で、あのう」
 あ、私?どうも、はじめまして。うるしと言います。

ふるし・・・さん?」
 ふるしじゃなくて、うるしです。う・る・し

く・る・しい?」
 苦しいじゃなくて、うるし・・・まあ、どっちでもいいですけど。で、どちらか教室に通ってらっしゃるんですか?

ええ。2年になります。でも、なかなか上手くなりませんよ」
 また、ご謙遜を。声がいいですよね。あの有名な民謡歌手のAさんみたいな声ですよ。

うれしいなあ。Aさんのファンなんですよ。先週Aさんのライブへ行ったんですよ。Aさんのライブは初めてだったんですけれど、最高でした。会場で、AさんのCDを買っちゃいましたよ」
 いいですねえ。ライブですか。よい歌を聞くと、練習への意欲も高まるような気がしますよね。

そうなんですよ。ライブで聞いた『○△節』っていうのが気に入りましてね。自分もこの歌をレパートリーの一つに加えようと思って」
 私も○△節は大好きですよ。で、工工四は持ってます?

ええ。持ってますよ。一番有名な『ホンモノ流工工四』です」
 じゃあ、家に帰ってすぐに練習ができたわけだ。よかったですね。

 「ところが、それで困っているんですよ」
 おやおや、どうしました?

CDを買って帰ってから、早速工工四を開いて、CDに合わせて一緒に歌ってみたんですよ。そしたら、ちょっと違うんです」
 違う?

工工四とCDが違っているんですよ。有名なAさんだし、間違えているってことはないはずなんだけどなあ」
 困りましたね。で、諦めたんですか?

実は、前に買ったBさんのCDにも○△節があったんですよ。それを聞いてみました」
 なるほど。Bさんも有名な歌手ですよね。で、BさんのCDで練習を?

Bさんも工工四と違っていたんです。しかも、Aさんとも違う。どっちが正しいんでしょう」
 そうでしたか。でも、よくありますよねえ、そういうこと。古典や民謡を学ぶ人なら、必ず一度は疑問に思うことでしょうね。

私もいろんな歌い方があるってことを知ってはいたんですよ。でも、有名歌手のCDが工工四と違っているとは。何が正しいのやら・・・工工四通りに歌えばいいのかもしれませんけれどね。私は有名歌手Aさんの歌が好きなんです。でも、Aさんのように歌ったら、間違った歌だって言われそうな気がするんですよ」
 なるほどねえ。すべてのCDが工工四通りだったら、困ることはなかったんですけどね。せっかく覚えた歌が間違った歌だと言われるのはいやですよねえ。ところで、正しい歌って、何でしょうね。

 「結局、工工四通りってことじゃないんですか?」
 その考え方も正しいでしょうね。工工四と同じように歌えばそれが「正しい歌」になると思います。でも、本当に「同じように歌う」ことって、可能なのでしょうか。

 「え?どういう意味です?」
 いくら工工四通りに歌ったとしても、二度歌えば、一度目と二度目とがまったく同じになることはあり得ないですよね。とっても厳密に言えば。

そりゃあ、速さが違うとか声の大きさとか、微妙に変わるでしょうけれど、そんな細かいことは気にしないでしょう。さっきのCDと工工四の場合は、照らし合わせてみると、〈工〉が〈尺〉になっていたり、歌い出しが遅れていたり、明らかに違う部分がある。それが問題なんですよ」
 たとえば、「一拍子」ずれて歌い出していたら、違うってわかりますよね。「半拍子」でも「四分の一拍子」でもわかるでしょうね。では、「十六分の一」だと、どうでしょう。まだわかりますか。「六十四分の一」なら?

 「ふざけてます?」
 はい。いえ、「だから、そんな細かいことを言っているのではない」って言いたいんでしょ。でも、どの程度だと「そんな細かいこと」になって、どの程度からは「細かくないこと」になるんでしょうね?

そんなこと、私に決められるわけないじゃないですか」
 大切なことだと思うんですよ。その「決められない」っていうところが。私、こういうことを考えるのが好きでして。よかったらちょっと話を聞いてくださいます?えっと・・・ボールペンか何か持ってます?ない?じゃあ、お店の人に借りましょう。あのー、すみませーん。書くもの貸してもらえますか。あ、どうも。紙は箸袋でいいですよね。さてと・・・

 この枠の中が『○△節』です。『○△節』という歌にもいろいろな歌い方があります。赤い枠の中に、たくさんの点を書きます。この点の一つ一つは、それぞれがだれかの『○△節』だと思ってください。ある人は、〈工〉が〈尺〉になっていたり、ある人は歌い出しが半拍子遅れていたり。それぞれ少しずつ違いがある。つまり、世界中のいろんな人の『○△節』が、この枠の中に入っていると思って下さい。
 点の中には、有名歌手Aさんの歌もあります。Bさんのもあります。でも、Cさんの歌は枠の外。これは『○△節』じゃあない。本人が○△節のつもりで歌っていても、そう聞こえないのならば、枠の外ってわけです。
 じゃあ、枠の外か中かを決めるのは、だれなのか。それが大切なところです。今は、私が枠を書きましたけれど、もし、Cさんが枠を書くとしたらどうです?きっとこの図の枠よりも大きくなって、Cさんの点も枠の中に入るんだろうと思いますよ。他の人は、もっと違った枠の形になるかもしれませんし。
 で、ここに「ホンモノ流」っていう流派がある。ホンモノ流にも、いろんな人がいるわけですから、いくつもの点がこの中に入りますよね。でも、ホンモノ流はホンモノ流の決まり事があって、その決まり事に合わない歌は、ホンモノ流の外になる。AさんもBさんも、有名かどうかに関わらず、ホンモノ流の決まり事に合っていないならホンモノ流の外側ってことになります。

つまり、ホンモノ流としては、有名歌手Aさんの歌は正しくないかもしれないけれど、一般的には正しい歌の部類に入るってことですか?」
 そう考えていいと思います。だって、世間に認められた歌なんですから。つまり、「ホンモノ流」にこだわらなければ、正しい『○△節』というのもけっこう広い範囲になると思うわけです。

そうかあ。じゃあ、AさんのCDを真似てみることにしようかな」
 いいと思います。声も似ておられるし。で、もう少し話を聞いてもらいたいんですけれど、お時間、よろしいですか?

 「妙なものを売りつけるんじゃないでしょうね?」
 まさか。





 爪楊枝で削って食べているそれ、「豆腐よう」ですよね。チーズみたいな味、ですか。おいしいんですかねえ。私?いえ、私はどちらかというと、チーズを食べる方がいいです。ま、話を進めましょう。


 先ほど「正しいかどうか、自分にはそんなこと決められない」って言っていましたよね。

ええ。私は師匠でも先生でもないんだから、『あの歌は正しくない』なんて、言えませんよ」
 そうですよね。人の歌を「正しいかどうか」判断するなんてのは、ちょっと失礼な気がします。でも、工工四の通りに演奏すれば正しいんだろうとも言いましたよね。

 「工工四は、工工四ですから。基準ですよね」
 工工四は一つの基準でしょうね。でも、工工四に基づいて歌うのは、その流派での話だと思うんです。流派に属していない人にとっては、参考程度ということになるかもしれない。工工四の重んじ方が違うとでもいいますか。

うーん。まあ、そういうものなのかもしれませんね。でもね、好き勝手に弾いたり歌ったりして良いとは言えないですよね」
 ジャンルや曲によっても違ってきそうですけれど、楽しければそれでいいと考える人もいますよね。

楽しむって意味では好き勝手に歌って良いのでしょうけれど、でも、仮にも歌三線を勉強している身には、それはやはり正しい歌三線ってやつを求めますよ。そうでしょう?」
 そこなんです。歌三線を勉強しているというのは、演奏方法や声の出し方を学びながら、歌を覚えているわけです。ですけれど、それだけではないと思うのです。技術を学んでいるのと同時に、前に書きました「枠」を身につけていく過程でもあると思うんですよ。

枠ねえ。例えば、歌い出しはどの程度ずれていてもいいとか、〈工〉の代わりに〈尺〉でも大丈夫とか?」
 まあ、そういう「許容範囲」を知ることも身につけるべき事ではあります。

 「その許容範囲って、どの程度なんでしょう」
 さあ・・・

 「さあ、って、そこが一番大切なところじゃないですか」
 そうですねえ。まあ、常識的な範囲ってことで。

おやおや?「常識」なんて、形のないものにすり替えましたか」
 そんな、嬉しそうに言わないでください。まあ、自分でつくる枠ですから、自分の気持ち次第なんですけれど、あまりにも世間の人々とかけ離れていては枠の意味がなくなってきそうです。だからといって、回りの様子ばかり気にしているようでは自分の「枠」とは言えません。これがむずかしい。結局、勉強していくうちに、だんだん身に付いてくるもの。ということで、常識と表現させてください。

逃げてますね。常識というと、いかにも正しい基準がありそうに聞こえますけれど、所詮人それぞれってことでしょう。枠というのは、その人の気持ち次第ってことですか」
 そうですよね。常識っていうのは世間一般に通用するはずなんですけれど、明確な基準はない。個人の心の中にあるはずだけれど、人それぞれ少しずつ違っているものなんでしょうね。で、ちょっと話の方向を変えたいんですけれど。

 「完全に逃げてる」
 まあ、がまんしてください。先ほどは、紙の上に枠を書いたわけですが、実際には、私たちの頭の中に枠が書かれているわけではありません。なんとなく許せるとか許せないとか、いいとか、だめとか、そういう判断をするわけでしょう。その判断の基準となるものは、一つだけではないように思います。

 「たとえば?」
 工工四の通りに三線を弾いて、声を上げるところ、下げるところ、その他諸々の決まり事が守られている歌でも、なかにはあまり面白くないのもある。でしょ?

 「よくわかりませんが、まあ、そんな気もします」
 じゃあ、こう言いましょう。工工四通りにでなくても、すばらしい歌になることもあるんですよね。有名歌手Aさんの『○△節』が好き。世間もAさんを認めている。でも、工工四通りでない。つまり、あなたの判断では、誰かが歌う『○△節』が枠の中に含まれるかどうかは、工工四に合っているかどうかで決まるのではないですよね。

そうでしたね。それはさっきの図でわかりました。じゃあ、工工四以外の基準って、何なんでしょう?」
 それは、私が尋ねたいです。工工四通りではないAさんの歌が好きなのは、なぜでしょう。

ひどいですね、質問に質問で返すとは。でも、まあ考えてみれば、それが情けとか、歌たのーるってやつですか」
 それも一つ。声の質だとか、工工四に書き表されていない細かな声の表現だとか、まあ、いろいろあると思います。はいこれですと言って、目の前に出せるものではないんでしょうね。とにかく、大切なのは、工工四通りでなくても、大勢の人を感動させることができるってことです。

 「その、大勢のっていうのは、大切なんですか?」
 はい。その歌の良さが、普遍的といえばよいのでしょうか。一人二人が感動するだけで、他の人はなんともないっていう歌を、すばらしい歌だとは評価しにくいですよ。Aさんの歌だって、多くの人に感動を与えているからこそ評価されているんですよ。

でも、とっても狭い範囲で感動するっていうこともありますよ。友だちが歌っているとか、自分の子どもが一生懸命三線を弾いているとか」
 聞く側の思い入れでしょうね。友だちや我が子というのはとてもわかりやすい例だと思います。テレビに登場する歌手でも、聞く側が一度ファンになってしまうと、その歌手の歌はなんでもかんでも良く思えてしまうなんていうことも。

あります。私も、キャンディーズの歌だったら、何でもすばらしい音楽に聞こえたものなあ」
 おや、私よりも年上ですか?

 「え?おいくつですか?」
 まあ、年齢はともかく、歌い手に対してあまりにも思い入れが強すぎると、常識はずれってことになる場合がありますよね。私たちはそういう状態に陥りやすいと思いますから、時々自分自身を外から眺めてみる必要がありそうです。

 「少しわかってきたような気がしますよ」
 ありがとうございます。基準というのは明確にはできませんけれど、私たちは意識しないうちに、いろんな枠を持っているのだろうと思います。その枠を意識して、不要な枠を捨て去ったり必要な枠を作ったりしていくことが、正しい歌を見つけ出すことだろう。というようにまとめたいんですけれど。

うーん。とすれば、正しい歌は自分の心の中にある。ですか。そのために必要なことは?」
 いろいろな人の、いろいろな歌を聴くことによって自分を磨き、その過程で常識が備わってくる。そして、自分の枠を意識して作り上げることができる。ということでしょうね。

そうすると、自分の枠ってやつは、歌を勉強するほど、どんどん狭くなっていきますね」
 そうとは限りません。むしろ、いろいろな歌を知ることで、広がると言った方がいいと思いますよ。

 「え?またわからないことを言いますね」
 それほど難しい話ではありません。ただ、また話が長くなるかもしれませんが・・・

 「おやまあ。話の長さが非常識な・・・」
 すみません。





 カラカラの中は、古酒ですか。ああ、石垣島の泡盛ですね。さすが八重山ファンでいらっしゃる。古酒は水で割らないもんなんですね。でも、不思議ですよね。普通の泡盛は30度くらいで、水で割ることが多いでしょう。で、古酒は40度程度のものが多いのに、水で割らない。まあ、水で割るのがもったいないっていうのもわかるんですけれどね。だったら、30度の泡盛をどうして水で割るんだろうと。


 それはともかく。いろんな歌を知ることで、枠が広がるって話なんですけどね。たとえば、「島の歌い方」って、知ってます?

知ってますよ。小浜島で歌われている『小浜節』と、一般的なCDで聞く『小浜節』とはずいぶん違っていますよね。小浜島の歌い方が「島の歌い方」っていうことでしょう?」
 よく勉強していらっしゃる。

 「八重山民謡をやっているんですから、当然ですよ」
 さすがです。で、どちらも正しい『小浜節』ですよね。

はい。私はどちらも大好きです。当然どちらも『小浜節』ですよ。ですけれど、私は別の歌だと思っています」
 私もです。ひとまとめにされたくない。ですよね。とすると、小浜節の世界はこうなると思うんです。すみません。あなたの箸袋、貸してもらえます?
 「一般的な」という表現が、島の歌い方を疎外しているように聞こえたらごめんなさい。他にわかりやすい表現が思いつきませんでした。で、どちらでもない歌い方、あるいは、まざってしまったような歌い方は、『小浜節』とは認められないわけです。

なるほど、なんとなくわかりますよ。どっちつかずってのは、認めにくいですもんね」
 はい。図の中では、2つの点が『小浜節』として認めてもらえなかったことになりますね。で、ここが大切なところなんですけれど。あなたも私も「島の歌い方」の存在を知っていました。もし仮に、「島の歌い方」の存在を知らなかったら、この図はどうなっていたでしょう。

『小浜島の小浜節』というのを知らなかったら?図の中の『小浜島の小浜節』という枠がなくなってしまうわけですよね」
 そうです。『小浜島の小浜節』の枠がなくなって、『一般的な小浜節』の枠だけになる。
 つまり、『小浜島の小浜節』として認められていた点が、全て枠の外に出て「小浜節として認められていない歌」になってしまうわけです。先ほどまで認められない点は2つだったのに、『小浜島の小浜節』を知らない人には、認められない歌がこんなにあるんです。

そうかあ、『島の歌』の存在を知らないことが、正しくない歌を増やしてしまうってわけですね」
 そうなんです。言い換えれば、いろいろな歌を知っている人ほど、枠が広がることになるわけです。もう一つ例を挙げるなら、いろいろな流派です。一つの流派の歌しか知らなければ、それ以外はみんな認められないものになってしまう。でも、

他の流派の歌も知っていれば、その枠も。ってわけですね」
 そうです。まあ、だからといって、全ての流派に精通するなんてことは無理でしょうけれど、少なくとも、いろんな流派があって、いろんな歌い方があるんだということを知っているのと、知らないのとでは枠の広さや数は違ってくるでしょう。

 「わかりやすい」
 さらにもう一つ考えるべきことがあります。それは、民謡というものの性格とでもいいましょうか。

 「性格、ですか?」
 はい。そもそも民謡とは、なんて難しいことはわからないんですけれど。でも、民謡はもともと庶民が好き勝手に歌ってきたものだったのでしょう?だったら、正しいも正しくないもないはずですよね。現在までにたくさんの歌が生まれ、また消えていったはずなんです。つまり、長い年月をかけて伝えられてきて、今残っている歌というのは、高いレベルで正しいってことですよね。

つまり、これまでに、たくさんの正しくない歌が淘汰されてきた。今に伝わる歌は、今に伝わっているという意味において、正しい。というわけですか」
 私よりもうまくまとめますね。そのとおりです。だから、今の私たちがむやみに改ざんしたり、ましてや正しくない歌にしてはいけない。平たく言ってしまえば、面白くない歌にしてはいけないと思うんです。

 「やっぱり、枠が狭くなってきましたよ」
 いえ、もっとすばらしい歌に発展させることは許されるんですよ。いや、必要だといってもいいでしょう。たぶん。

 「難しい話になってきたぞ」
 むやみな改ざんか、発展か。それを判断するのはむずかしい。今は面白くないと思っても、100年後にはみんなが大喜びするかもしれません。今はいいと思っても、数年後に消えているかもしれない。でも、そういうことを恐れていてはいけないんでしょうね。今の自分が判断するということでいいでしょうし、それ以外に方法がないでしょう。もっとも、私自身について言えば、発展させるなんてことはまったく考えていなくて、いろんな人の歌を楽しんでいるだけなんですけれどね。

発展なんてことを考えて歌三線をやっている人はあまりいないでしょうね。ま、それはそれとして、枠を広げる話はわかりましたよ。とすると、どんな歌を聴いても、ニコニコ笑っている方が偉く見えるかな」
 「なんでもいいから認めてしまえ」という意味ではなくて、歌の変化を嫌うだけではいけないという意味で、つまり、いろいろな歌を知ることで、その枠を広げていくべきであって・・・

はいはい。まあ、ニコニコ笑ってってのは冗談ですけどね。でも、難しいですよね。どんな歌でも枠の中だとは言えないし、さっき話に出ていましたけれど、ある流派に所属していれば、当然枠は狭くなる。しかし、流派の枠も一つじゃない。しかも、流派とは別に自分の枠も持っている」
 つまり自分の中で、枠をきちんと育て上げておくことが大切だと思うんです。流派に所属しているのなら、流派の枠もきちんと学ぶべきですし。同時に流派以外の歌も認められる枠を持っていてほしい。

友だち同士で歌の話をしていて、共感できるときっていうのは、お互いの枠が近いってことなんでしょうね。話がかみ合わないときは、枠が離れている。共通部分がすくないんですね」
 そうでしょうね。でも、共通部分が少ない時の方が、お互いの勉強になるかもしれません。

なるほどね。相手の枠を知るよい機会ってわけだ。でも、自分の枠を人に押しつけるような行為は慎むべきでしょうね」
 そこが肝心なところですよね。人によって、枠の広さが違う。時代によっても変わってくる。そういうことを念頭に置いて、正しい歌ってやつを学んでいくことが必要なんですよね。

難しい話でしたが、勉強になりましたよ。いえ、これからもっと勉強していこうっていう気になりましたよ。ありがとうございました」
 うれしいことを言ってくださいますね。で、もう少しだけ時間をちょうだいしたいんですけれど。

 「え!終わりじゃないんですか・・・」
 もう少しだけ。

 「あなた、友だち、少ないでしょ?」

 ・・・わかりますか?





 山羊の料理というと、県外では驚く人が多いですよね。そういう人に山羊汁とさしみを並べて出すと、必ず汁から食べ始めるんですよね。汁よりもさしみの方がクセがあると思っている。実は、山羊汁よりもさしみの方が食べやすいんですよ。だから、山羊初心者のかたには、まずさしみを勧めたいんです。どうです一つ。やっぱりいらない?そうですか。慣れるとおいしいんですけどね。


 Aさんのライブ。私は見ていませんけれど、すばらしい歌だったんでしょうね。

ええ、そりゃあもう。大好きな歌手ですし。○△節だけじゃなくて、他の歌も、こう、なんていうか、癒されるなんて流行の言葉では表現したくないような、心の中に染みいるっていうか、響くっていうか・・・」
 とにかく、よかった?

ハハハ、まあ、そうなりますかね。とにかく、よかったんです」
 その、とにかく良かったっていう歌がですね、歌い出しが半拍子遅れていたかどうかとか、三線の音が〈工〉だったか〈尺〉だったかなんて、気にしていませんよね。工工四の通りに演奏しているかどうかということよりも、その歌を聞いたときにあなたの心がその歌を受け入れられるかどうか。許せるかどうか。すばらしいと思えるかどうかが、あなたにとっては大切なことなんだし、それは、歌にとって大切なことだと言い切ってもいいでしょうね。

先ほどの話では、工工四にどれくらい近いか、ということではない基準を身につける。というか、育てていかなければならないと理解しましたが?」
 はい。歌い方がいくら正しくて、きちんと枠の中に入っているとしても、認めたくない歌もあるでしょう?工工四通りに歌ってはいるんだけれど、なんだかなあなんて。

逆に、自分の枠の外なんだけれど、あれだけうまく歌われてしまうと認めてもいいかなあなんて」
 ありますよね。だから、ウマイとかヘタというのは、ここまでにお話しした枠とは、関係があるけれども別のものと考えた方がいいのでしょうね。

ウマイ人なら、どんな風に歌ってもいいっていう気にもなるんですけれど」
 ウマイ人の中には、自分で歌を変化させている人がけっこういますよね。たとえば『○△節』を自分流に変えたとします。歌っている本人は『○△節』を歌っているつもりなのに、聞く人が『○△節』に聞こえなかったとしたら、それはだめでしょうね。これも、歌い手と聞き手の枠がどうかぶさっているかなんですよね。まあ、プロの歌い手になりますと、常識から少し外れたくらいの方が個性が強く出せて良いという場合もあるでしょう。そして、後から常識がついてくるということもありえる。まあ、そのあたりは、先ほどの「ただの改ざんか、発展か」といったことにつながるわけですが。

有名歌手の自分流は許せるけれど、そうでない人のは、白い目で見られるってこともありそうですね」
 歌い方そのものではなくて、だれが歌っているかによって評価が変わってくる。ありえるでしょうね。有名か無名か。好きか嫌いか。いろいろなものが絡んできます。

ヘタじゃないのに、なんだかなあってこと、ありますよね。友だちにいるんですよ。カラオケ歌わせたらとってもうまいんですけれどね、民謡歌わせると、なんだかおかしい。あいつの場合は、ヘタじゃないと思うんですけれど、でも民謡じゃないよなあと」
 その人に会ったことはありませんけれど、わかる気がします。声の出し方とか質なのか、細かな歌い方の違いか。あるいは、風貌とか性格とか、まあ、そのあたりを話していると長くなりますので、

 「もう十分長いですけど」
 あ、失礼しました。私が言いたいのは、その反対なんです。ヘタなんだけれど味があるという言い方もあるでしょう?

たとえば、八重山の民宿へ行って、そこのおじさんが三線を弾いてくれたり歌ってくれたときとか」
 そう!それ、いい例ですよ。そんな経験、ありますか?

実は、最初に三線を生で聞いたのは島の民宿だったんですよ。おじさんが弾いてくれたんだけど、今思えば、けっして上手ではなかったと思いますねえ。でもね、たどたどしい三線でも、少々音がはずれていても、いいなあと思えるんですよねえ。それがきっかけで、八重山の民謡を始めたんですよ」
 そうだったんですか。島で聞く民謡って、いいんですよね。

 「そう。最高ですよ」
 話を戻しますね。歌がウマイというのは、分析すればいろいろ難しいこともあるでしょうけれど、狭い意味で言えば、それは歌三線の技術そのものということになると思うんです。ところが、さきほどの民宿のおじさんの歌なんかは、技術的にはずいぶん稚拙なのかもしれない。つまりウマイ方ではない。なのに、この人の歌、いいなあと思えるわけです。私たちの耳は、技術じゃない部分も聞き取っているんですね。

耳が聞き取ると言うよりは、心が感じ取っている、って言うのかなあ」
 うまいことを言いますね。おっしゃるように、心が感じ取るというのは、大切なことです。ですけれど、ややもすると正しい判断からは遠ざかってしまうこともあります。

それは、おじさんのたどたどしい歌をいいなあと思ってしまうことが、正しくない判断だということですか?」
 いえ、少し違います。おじさんのたどたどしい歌を、たどたどしいけれどいい歌だと思っている限りにおいては、正しい判断だと思うのです。それを、おじさんのたどたどしさが民謡そのものなのだというような判断になってしまったときには、正しくない。

おじさんの歌は、その歌い方をそのまま真似ようと思う歌ではないですよね。たぶん、その歌を聞いているときの場とか歌っているおじさんの持ち味とか、大げさにいえばおじさんの人生とかを、歌と一緒に味わっていて、そういうものを全部ひっくるめて味のある歌だと思えるのでしょうね。だから、歌い方をそっくりそのまま学んでも意味がない」
 そうだろうと思います。でも、案外そのあたりを混同してしまっている人はいると思うんですよ。なかには、ヘタなのがいいなんて言う人がいたりして。まあ、少しわかる気もするんですが、ヘタが良いと言ってしまっては練習ができなくなってしまいます。そこのところは、きちんと区別しておくべきですよね。

なるほど。判断できる耳というか、心というか、そういうものを育てていくことも必要だし、自分の頭の中にどんな基準を持っているかを考えることが必要だということですか」
 はい。基準というと固定されてしまった感じがしますが。まあ、自分の心の中の基準に気づくということでいいと思います。誰でも、なんらかの基準で判断をしているはずです。そして、それをあまり固定してしまわないことが大切でしょうね。枠という点では、どんどん広げていける努力が必要なんでしょう。もし、人を感動させられるような歌をめざすのでいたら、まず判断できる自分であること。絶対に必要ですよね。

歌うだけではなくて、いろんな歌を聞いたり、いろんな経験を積むことが大切なんですね。よくわかりました」
 いやあ、長々と、どうもすみませんでした。で、最後に一つ。是非お伝えしたいことが。

 「はあ、まだあるんですか?」
 山羊のさしみは、こっちの皮のついている方がおいしいんですよ。是非一度試してみてください。



GO MOUTH HERE MOUTH 教え方を学んでいない
 教える人と教えられる人。昔なら「師匠と弟子」。今は「先生と生徒」でしょうか。

 師弟関係という言葉から思い浮かべるのは、芸能の世界か芸術の世界。弟子が師匠の家に住み込んで、師匠の身の回りの世話をしたり仕事の手伝いをしながら、師匠の芸や技術を盗む。幾たびの挫折を乗り越えて、やがて独り立ちして、その世界で名を知られるようになった頃、「今、私がここにいられるのも、師匠のおかげです」と遠い目をして語る。かっこいいですよね。

 先生と生徒(教育ではなくて、芸能の話)の関係では、一人の先生が大勢の生徒を教える。先生と生徒の関係は、基本的には授業の時間だけで、教室を出てしまえば、顔を会わせることもほとんどなし。先生は、その授業時間に、すべての生徒がきちんと目標を達成できるように、一人ひとりの生徒に合った指導方法を考え、実践していきます。そこが三線教室なら、先生は生徒に三線の演奏技術や歌を教え、生徒は先生に授業料を払うわけです。師弟関係では、師匠が弟子におごることはあっても、弟子が師匠にお金を渡すことは無かったでしょうね。

 もし、こんな三線教室があったら、どうでしょう。

生徒は先生に授業料を払う。先生は生徒の芸を見て、駄目だと言うだけ。あとは「芸を盗め」でおしまい。

 授業料の授受という先生と生徒の割り切った考え方と、教わるのではなく盗むのだという師匠と弟子の緊張感を持ったすばらしい関係だ。と思う人もいるのでしょうか。私は、こんな教室はだめだと思います。そして、残念ながら、これに近い教室は、実在するのではないかと思っています。

 私がこんなことを書いても、まじめな「生徒さん」はこう考えるでしょう。

なんだかんだいっても、うちの先生はすばらしい。歌もうまいし、三線もうまい。あの先輩はあんなに上手になっているし、舞台で活躍している生徒もいる」

 もちろん、本当にすばらしい先生かもしれません。
 でも、大勢の生徒を教えれば、中には優秀な生徒も出てきます。教えなくても、先生のまねが立派にできる生徒や、先生にできないことまでやってのける生徒も出てくるかもしません。その優秀な生徒を見て、「あの先生の教え方はすばらしい」と思う人もいるでしょうね。それは先生がすばらしいのではなくて、生徒が優秀なのです。先生としての技量は、優秀な生徒を見てもわかりません。

 技術がなかなか習得できない生徒。覚えるのに時間のかかる生徒。やる気がなかなかわいてくれない生徒。どこかで躓いて前に進めずにいる生徒。そういった生徒を、どのように指導して「授業料」に見合った結果を残せるか。そこが大切だと思うのです。

 叱咤激励してくれる先生は多いようです。

 「できないのは、練習が足りないから」「よく聞いて、もっと歌いこみなさい」「なんでできないの?」「あんたは、いつもそこができないね」「それができるようにならないと、次へ進めないよ」

 こんな言葉を投げかけられた人もいると思います。激励だと思えばそのように聞こえますが、私には指導できない自分の力量を棚に上げて、生徒のせいにしているだけに聞こえます。

 「できないのは、練習が足りないから」=どのような練習をすれば良いかを指導せずに、練習量だけを言うのは、根性でなんとかなるという二昔前のスポーツの世界と同じ。

 「よく聞いて、もっと歌いこみなさい」=よく聞いていない人がいるでしょうか。聞くべきポイントを教わらなければ、何度聞いても進歩しないし、歌いこむにしても課題をはっきりさせておかなければ、喉を痛めるだけ。

 「なんでできないの?」=それを一緒に考えるのが先生。

 「あんたは、いつもそこができないね」=それがわかっているなら、どうすれば克服できるかを指導すべき。

 「それができるようにならないと、次へ進めないよ」=できないことだけを責めて、次へ進むための指導をしなければ意味がない。

 こういった「配慮を欠いた指導」が、大勢の生徒さんを苦しめ、三線の世界から排除してしまっている。というのは、私の考えすぎでしょうか。

 これが、師弟関係であれば、すばらしい師匠といえるかもしれません。弟子の中から優秀な人材を発掘し、一人前に育て上げる。一方、この世界に向いていない弟子には、才能が無いということを思い知らせて、別の世界で活躍できるように配慮するのです。
 趣味として学んでいる三線は、師弟関係の世界とは違うはずです。先生がもっと的確な指導をしてくれていれば、途中でやめることもなかったし、趣味としてもっと楽しめたかもしれないのです。

 「指導の上手下手はともかく、先生のおかげで私は上達できた」とか「先生の人間性が好きだから教室に通うのが楽しい」と言える人はいい。ですが、言えずに去っていく生徒がいることを考えなければいけないし、そういった人を無視する指導者は、本当の意味で指導者とは言えないと思うのです。

 三線音楽の世界には、「すばらしい歌い手」は多いですが、「すばらしい先生」はまだ少ないと思います。今後、すばらしい先生を増やすためには、生徒自身が「私はだめだ」などと自分を責めてしまってはいけないと思います。「技術だけじゃないものを教えてもらっている」などと自分を慰めるのはもってのほか。できないとき、わからないときには、先生に食い下がって「だから、どうすればいいのか教えてください。一緒に考えてください」と訴えて、先生に、本気になって考えさせなければいけないと思います。生徒が自分に厳しくあることはすばらしいのですが、「指導をしてくれない先生」を「本当の指導ができる先生」へと、生徒の力で変えていかなければ、三線の世界が本当に広がることはないと思うのです。




GO MOUTH HERE MOUTH 質問は宝物
 いろんな質問をいただきます。
 三線の購入についてはもちろん、チューナーの使い方、工工四の記号、演奏の方法、歌詞の意味、練習向きのCDを教えてくださいというものまで。そうそう、沖縄県内の見所を教えてくださいという質問も受けたことがあります。

 どの質問も、私にはとても参考になります。うれしい質問です。ですが、ときどき不思議に思うことがあります。
 それは、教室に通っておられる方からの質問です。なぜ、教室の先生に質問しないのだろうと思ってしまいます。
 決して、質問を受けるのが面倒だから言うのではありません。先ほども書きましたが、質問を寄せていただけて、私は嬉しいのです。先生だって同じように、質問されれば嬉しいと思うのです。

 指導する立場の人にとって、生徒さんからの質問は宝物と言っても良いでしょう。その宝物を、生徒さんが、先生以外の人にプレゼントしてしまうなんて、ああ、もったいない。
 教室に通っておられる方で、私に質問をしてみようと思ったときには、教室の先生にも私にも、同じ質問をしてみてみるといいでしょうね。私の回答が先生と違っていたら、二つの違った答えが手にはいるのですから、生徒さんにとっても楽しいことですよね。

 なぜ、質問が指導者にとっての「宝物」なのか。
 まず、生徒さんのことがわかるからです。生徒さんが「今何をわからない状態なのか」、そして「何を知りたいのか」、時には「どこでつまづいているのか」までわかるのです。
 そして、指導者自身の問題点も見つかることがあります。質問の内容を聞いて、指導が抜け落ちていた部分があったことがわかったり、もし指導してあったとしても、十分に伝わっていない(身についていない)のであれば、その部分の指導が弱かったと考えられるのです。
 また、質問に答えることで、生徒さんとの距離が縮まることもあります。一つの質問に答えることで、次の質問をしやすくできるかもしれません。質問のしにくい関係よりも、しやすい関係の方が、普通は上達も早いでしょう。

 こういうことを書きますと、「答えられないような質問をしてくる生徒がいる。そういうことは、後々わかってくることだということが、わからないんだ」などと、質問する生徒さんが悪いような言い方をする人もいるかもしれません。それは大間違い。なぜなら、「後々わかってきますから、今はその点は気にしないで先に進みましょう」とか「それは言葉では表現しにくいですねえ。それよりも、この練習を続けてみてください。だんだんわかってくると思いますよ」といった指導もできるはずなのです。答えられないから質問が悪いといった考えは、最悪といってもいいでしょう。

 質問が宝物だと思える指導者は、指導することを学ぼうとしているはずです。そんな指導者が増えてほしいものです。




GO MOUTH HERE MOUTH 習い上手になりたい
 今はなくなってしまった大阪梅田の飲食店。店主が主催する「サンシン友の会」という集まりが、その店で月に一度ありました。私も参加させていただいたのです。参加費300円という、店主には申し訳ないような金額を手渡して、大きな声で歌えて、情報交換ができて、おしゃべりが楽しめて、お茶(お酒)やお菓子まで出てくるという、夢のような場所でしたねえ。
 まだ、その店があった頃、沖縄に住んでいた友人たち(八重芸OB)が大阪に移住してきました。そもそも彼(彼女)らは関西出身なので、帰ってきたと言うべきなんですけど。で、「サンシン友の会」へ参加するように誘ってみたわけです。
 その中にノリコとフミという二人の女性がいます。八重芸OBですから舞踊ができる。よい機会だから、「サンシン友の会」で顔を合わせている間に、舞踊を一つ私に教えてちょうだい。とお願いして、私、無謀にも舞踊を始めました。扇子も買いましたよ。楽しいですよ『鷲ぬ鳥節』。ビデオを見て形を覚えて、彼女たちの前で踊って、指導を受けるわけです。といいましても、2度やっただけ。彼女たちも指導というより「よく覚えましたねー。えらいえらい」ってな感じなんですが。

 ある日、店のチーフ(店主の妻)が『鷲ぬ鳥節』に挑戦したいとおっしゃいます。たまたまこの日は、ノリコとフミが都合で参加できない日でしたので、教える人がだれもいません。で、私が先生に。無茶ですよね。
 踊ったことがない、扇子を持ったこともないという人に、踊りを教える。難しいです。何から教えればよいのかがわからないのです。足から?手から?歌から?チーフのやる気に支えられて、なんとか一番をやりましたが、教え上手な人ならばもっと効率よく覚えられたでしょうに。申し訳ないです。

 ノリコにメールを出しました。『鷲ぬ鳥節』の先生をやったけれど、難しかった。今度よろしくお願いします。すると、彼女からこんな返事が来たのです。

そうなのです、踊りを教えるというのは難しいのです。
歌にも共通するものがあるのでしょうが、体で覚えるものなので
ひとりひとりの感覚にマッチするまで手を替え品を替え言い方を変え…
教えるほうも体力が要りますよね。
八重芸でも二年次になって新入生に教えてはじめて、教える側の大変さを知ります。
そうして、また教わる側に立ったとき、
何が大事なのかというポイントを押さえながら指導を受けられるようになる、
いろんな先輩後輩と接しながら、卒業するまでコレを繰り返します。
卒業した今となっては教わるということがぐっと減ってしまうので、その辺で私は現役をうらやましく思います。
あ、今、必死こいてあーでもないこーでもないと言いながら練習したころを思い出しながら遠い目をしてしまいました。

 また、後輩から教えられました。なんだか、人生を学ばせていただいたような気になっています。

 私も遠い目で・・・あらら、遠すぎて何も見えませんねえ。




GO MOUTH HERE MOUTH 子どもになりたい
 子どもは、何をやらせても上達が早い。だから、子どもの頃から習い事をさせたい。とはよく聞くお話。世の芸術家の多くは、幼少の頃からその分野で才能を見いだされ、すばらしい指導者の下で大成できたのでしょう。
 「ああ、もっと若い頃から三線に出会っていればなあ」と悔やむ人がいるようです。気持ちはわかります。でも、趣味で歌三線をやるのですから「何歳からだと遅すぎる」といったことは考える必要はないと思います。


 「よく聞いて繰り返してください。ディス イズ ア ペン」
 「ディス イズ ア ペン
 「ディス イズ ア ブック」
 「ディス イズ ア ブック
 「はい、よろしい」
 「はい、よろしい
 「あはは、それはいいの」
 「あはは、それはいいの
 「だから、それは真似しなくていいの」
 「だから、それは真似しなくていいの
 「こら」
 「こら


 これは、コントの世界でしかありえません。子どもにだって、考える力があります。先生の言ったことの、どの部分を真似ればよいのかはわかります。歌を学ぶときにも、同じことが言えます。先生が途中で咳払いをしたからといって、それまで真似て歌う子どもはいないでしょう。

 子どもですら、「真似ていない部分」があります。でも、大人と子どもを比べてみると、「真似ていない部分」の多さは(大人)>(子ども)だと思いませんか?
 たとえば、私たちが先生から歌を教えていただくとします。まず、先生の歌を自分の目や耳を通して自分の中に取り込みます。そして、覚えた歌を自分の体を使って表現するわけです。さきほどの話のように、先生の歌の中に咳払いが入っていれば「これは真似なくてよい」と判断しますし、目を閉じて歌う先生だからといって、生徒も全員目を閉じているということはないと思います。目を閉じることは「真似なくてよい」ことだと判断するからです。

 人の真似をすることが、学ぶことの始まりだとだれもが知っているはずですが、案外真似ていない部分があるのです。咳払いや目を閉じるかどうかというのはともかくとして、先生の歌の中にある、小さな声のふるえだとか、声が上がるときに、一度沈み込むようになる部分だとか、声をえぐるように出すときに、顎(あご)が捻るように上下することとか、胸の反り方や顎の引き方、そういった部分を「真似なくてよい」と勝手に判断してしまっている。たしかに、「メロディー」とは関係ない部分かもしれません。でも、この「真似ていない部分」が、実はとても重要なのではないかと思っています。
 小さな事にこだわりすぎて、前に進まないというのは困りますが、先生の歌の、メロディーだけを覚えているようでは、先生に教わる意味がないでしょう。できるだけ多くのことを真似る=学ぶことで、味のある歌になる。先生の歌に近づける。だから真似られるだけ真似る。子どものように真似る。それが大切なのだろうと思うのです。


 そんなことは、わかりきっている。と思った大人のかたは、たぶん大丈夫だと思います。先生の歌をしっかりと真似ていらっしゃることでしょう。

 ところで、こんな心当たりはありませんか?

「ここは、三線の音よりも少し高い声で歌う部分だ。きみはそれができていない」と指摘されたときに、「どれくらい高くするのですか?」と尋ねる。

工工四に三つ並んだ「○」。この休符の長さがよくわからない。「先生、ここは三つ分休むのですか?それとも、三つ半くらいですか?」と尋ねる。

「声の下げ方に、味がないねえ」と言われて、「一度揚げてから下げるのですか?それとも、少し下げてから揚げてまた下げるのですか?」と尋ねる。

 大人になりますと、知恵がつきます。言葉も増えます。だから、一つのことをいろいろな角度から見て、様々な分析を試みます。分析して、納得してから真似たい。大人らしい考えですけれど、「分析してから」という気持ちが入ったとき、すでに真似ていることにはなっていません。上のような例では、もし子どもなら、尋ねるより前に、そっくりそのまま真似ているはずなのです。え?真似るのが難しい?分析する方が、よほど難しいでしょう。

 すでに子どもでなくなってしまった私たちですが、子どものように覚えたい。心がけ次第で、できそうな気がしますが、いかがでしょうか。


 「ディス は、舌を噛むんですよ。はい、ディス」
 「ディス
 「まだだめ。もう一度、ディス」
 「ディス
 「全然ダメ。だって、血が出てないもの」



GO MOUTH HERE MOUTH できない理由
あの人はあんなにうまくなっているのに、私はまだこの歌も満足に歌えない。私ももう少し早くから三線を始めていたらなあ。三線を始める年齢って、何歳くらいまでがいいのでしょうね」

先生からは、今日もダメだしばっかり。音感が良くないと、ダメなのよねえ」

手が小さいから届かないんですよ。だから、〈七〉や〈八〉の勘所が、ばらついてしまうんです。もう少し手が大きければねえ」

大阪生まれですから。沖縄の言葉がわからなければ、沖縄の民謡らしく歌えないですよね」

 真剣に悩んでいらっしゃるからこそ、いい加減な返事はできません。では、いきましょう!

 1番の方。あと1年早く始めていれば、もう少し早く上達していたでしょう。でも、あと2年早く始めていれば、1年早く始めた場合よりももっと早く上達していたでしょう。5年早ければ、10年早ければ、そりゃそうです。でも、タイムマシンはありません。何歳から始めるかなんて、考えても無駄です。若い方が覚えがよいのは当然です。でも、若くないからできないとは言えません。年のせいにするなんて、最低です。

 2番の方。音感が悪いんですね。そりゃ無理です。学校で習った曲も、童謡も、曲という曲すべてがまったく歌えないとか、音楽に合わせて手拍子が打てないというなら、それは大変です。私は今までに、一人だけそういう人に出会いました。でも、その人は音楽に合わせて踊る努力をして、舞台の上で踊りました。「与那国ぬ猫小」という踊りです。もう一度尋ねます。あなた、曲に合わせて手拍子が打てませんか?一曲も歌えませんか?もし、手拍子くらい打てる。音楽の授業で習った歌は歌っていた。というなら、音感の心配は必要ありません。できないのは、音感がないからではなくて、練習不足か、練習のしかたが悪いのです。できないことを、音感のせいにするなんて、最低です。

 3番の方。コントラバスって、知ってます?人の背丈ほどもある楽器です。左手で弦を押さえるのは、三線と同じ理屈です。コントラバスの演奏をする人は、指を広げると1メートルもある・・・はずがないです。手が小さいから勘所がばらつくのではなくて、勘所がばらつかないような訓練をしていないからです。できないことを、手の大きさのせいにするなんて、最低です。

 4番の方。だったら、もう、生まれ変わってください。ですが、その前に言っておきます。今の沖縄県民全員が沖縄方言を話せるわけではありません。歌手でも、方言の話せない人はいます。確かに、言葉が話せる人は、話せない人よりは都合が良いでしょう。でも、言葉が話せないから歌えない。という理屈は通りません。民謡らしく歌えないのは、民謡らしく歌う練習をしていないから。あるいは、その練習がまだ足りないからです。出身地や育ちのせいにするなんて、最低です。

 ひどい書き方です。でも、もしこれらの質問に「その通りですね」と答えてしまったら、どうなります?たとえば、
 「20歳までには始める方が良いですね」と言ったら、50歳の人に「あなたは、消費期限が切れてます」と言ってることになります。
 「音感の良さは、絶対です」と言ったら、音楽の苦手な人は三線をやるなと言っているようなものでしょう。
 「〈七〉まで小指が届かないことには、話になりません」と言ったら、手の小さい人は演奏できないことになります。
 「方言がわかる人でなきゃ、だめ」と言ったら、小さな島の民謡は、歌える人が数十人?そんなばかな。

 できない理由を見つけることは大切です。でも、その理由を年齢や出身地や体格のせいにしてはいけません。「若い方がいい」「大きい方がいい」「鋭い方がいい」「ネイティブの方がいい」というのは、おそらく正しいでしょうけれど、それらは「できない理由」ではありません。そんな理由を考えて立ち止まるくらいなら、目標を目指して歩く方が良いに決まっています。もし、何かに行き詰まったら、先生に相談しましょう。仲間に相談しましょう。だれもいなければ、どうぞ私にメールをください。ひどいことは言いませんから。