学ぶことはむずかしい。教えることは、もっとむずかしい。
なぜなら、教えることを学ばなければならないからです。






GO MOUTH HERE MOUTH ゆっくり覚える方がいい
 本部町出身のご夫婦と、その息子さん夫婦とばったり。

 「三味線教えてやってくれん?」

 と指さす先は、息子さんのお嫁さんです。まだ新婚さんと呼んでも良いでしょう。若い二人がにっこり。

 「じゃあ、明日にでもご夫婦で我が家へどうぞ」

 ということで、ご招待しました。

 「お父さんも、お上手ですのにね」
 「でも、父は我流で、工工四を使わないので」
工工四を使わずに弾けるようになるのが、一つの目標なんですけどね」

 しばらく練習しているうちに、だんだんコツをつかんできたのか、お嫁さんの方がどんどんと先へ進んでいきます。

 「あれ?もうそんなところまでできるの?」
 「うん。おもしろいね。だいぶわかってきた」
 「家に帰ったら、教えてね」

 楽しい夫婦です。

覚えが早いですね。お嫁さんに負けたと思ってます?ところが、違うんですよ」

 手を止めて、きょとんとする夫婦。

早いほうが負け。だって、お二人とも三線を楽しんでいるわけでしょう。舞台で歌って、お金をいただこうってわけじゃないですよね。だったら、できるだけ長く楽しめる方がいいわけですよ。一つの曲を、一日で覚えて、できた!っていうよりも、一ヶ月かかってできた人の方が、長く楽しんでいる。だから、早いほうが負け。長く楽しめた方が勝ち」
なるほど。そうよ。あんたの負けよ。ハハハ。でも、家に帰ったら教えてね」

 よくできた夫婦です。

 まあ、私の話は「負け惜しみ」みたいなものなのですけれど、ゆっくり時間をかけて覚えることで、早く覚えた人が気づかなかったことがわかったり、感じなかったことを感じたりできる。というのは、本当にあると思うのです。

 覚えが遅いとお嘆きのかたがおられましたら、ゆっくり楽しめることを喜びましょう。



GO MOUTH HERE MOUTH 発音を確かめたい
 宮古民謡『狩俣ぬイサミガ』を練習しました。
 なんとか、三線を弾きながら歌えるようになり、歌詞も覚えました。あとは、人に聞いていただいて、チェックです。沖縄で我が親友と会う機会がありました。彼に聞いてもらうことにします。

 宮古の方言=民謡では、基本的に平良の方言ということになるのでしょう。親友は多良間島出身ですのである程度は理解できるそうです。

 発音のチェックをしていただく場合、注意すべきことがいくつかあります。他のページと重複する部分もありますが、今一度確認しておきます。

1,「できている」という評価を信じてはいけない
 少しくらいできていなくても、努力に免じて「できている」と言ってくれる優しい人が、世の中には多いものです。ですから、できていると言われても発音が正確にできていると信じてはいけません。
 じゃあ、なんと言われたときに、発音ができたと思えばいいのか?
 ・・・・はて・・・・

2,歌の中での確認と、単語での確認
 この記事にも書きましたが、言葉は繋がることで発音が変わることがあります。たとえば、「海」は「いん(m)」、「下り」は「うり」です。この二つを続けると、「いんうり」とはならずに「いんむり」となります。つまり、一つの単語として正しくても、連続した言葉=歌の中の言葉としては正しくないとか、その逆だってあるわけです。

3,複数の人に確認する
 最初に書いた「できている」を信じてはいけないという事にも関連しますが、一人からOKをもらって安心せずに、多くの人に聞いてもらうようにしましょう。なかには「少しおかしいな」と言ってくれる人がいるかもしれませんから。


 さて、親友にお願いして、聞いてもらいました。この時は、2番まで歌って、2番の「坐しうんむ」を確認してらいました。
 まず、一番で音程がおかしくなります。発音の確認どころではありません。親友が「カク」とこけそうになります。それでもなんとか2番へ。そして、「どう?」

うーん。ちょうど、八重芸の1年生が赤馬節の「どぅくぃさにしゃ」を一生懸命歌っている様な感じ。つまり、意識しすぎて、すごく変です」

 ありがたいことです。これだけ的確な評価をしてくれる人は、他にいません。つまり、ダメということですね。
 最初にコケそうになったのも問題です。つまりは、歌い込んでいない。いえ、歌い込むといった立派な言葉ではなく「歌い慣れていない」という方が合っているでしょうね。それほど未熟です。未熟なまま評価してもらおうとした、自分が恥ずかしくなりました。

 親友に評価してもらうのは、もっと練習して「歌い込んでから」にしましょう。



GO MOUTH HERE MOUTH 早弾きはまだ早い
 どうにか2,3曲演奏できるようになったころ、早弾きの工工四を見て文字を追いかけてみます。

 「お・・・・おお!・・・・ああ」

 途中まではなんとかなります。もう一度。もう一度と、繰り返すうちに、引っかかりながらも最後までいけました。こうなると楽しいです。自分にも、あの早弾きができそうだ。そう遠くない将来、自分の三線で大勢の人を踊らせることができるかもしれない。

 そんな私を見た先輩が、

早弾きはまだ早い。ゆっくりした曲をきちんと弾けるようになってから早弾きをやれ」
 「はい!」

 しょんぼり・・・しませんでした。まだ早いと言われて当然だと思いましたから。当時の私は、なんというか、映画かドラマに登場する真面目な修行僧のようなところがありまして、師匠(先輩)の言うことには逆らわず、お許しが出るまでは余計なことはしないという考えでした。このとき、早弾きに手を出したときも、心のどこかに後ろめたさがあったのです。と同時に「おお、けっこううまい」なんて言ってもらえるかなという期待も、正直ありましたけれど。
 とにかく、先輩がまだ早いと言うなら、まだ早いのです。そして、今早弾きをやると、きっと後々悪いことがあるに違いない。先輩の言葉には、間違いはないのです!

 なんて書いてみましたが、これを読んでいるみなさんは、疑問ですよね。

 早弾きをやってみようと考える人は、それなりに弾けるようになった人でしょう。ぎくしゃくしながらでもなんとか早弾きらしきものが弾けるのでしたら、さらなる上達のために練習したい。それのどこがわるいのか?そもそも、早弾きを始める時期に、早すぎるということがあるのでしょうか?早すぎると、何が悪いのでしょうか。

 独学で練習を積んでいる人には当てはまらないと思いますが、先輩や先生から「まだ早い」と言われるとすると、その一番大きな理由は、「今勉強している曲がおろそかになる」ということだと思うのです。
 教室などでは、当然課題曲があるわけです。

安波節の歌詞をきちんと覚えて、工工四を見ないでも歌えるように練習してきなさい」

 先生から言われたら、それが課題です。ところが、安波節の歌詞を覚えるよりも「唐船どーいー」を弾く方がおもしろいといって、課題がおろそかになる。こういう人に「きみには、まだ早い」と言いたくなる先生の気持ち、わかりますよね。
 特に、初心者ほど「三線」重視になりがちです。でも、実際に三線を演奏し続けていれば、そうでないことがわかってきます。教室では「歌」重視、つまり、唐船どーいーの歌持が弾けたからといって「指がよく動くね」という程度の誉め言葉しか与えられない。「それより、もっときちんと歌えるようになりなさい」ってなもんですよね。

 無理矢理もう一つの理由をあげるとしたら、音楽のよさを知らずに通り過ぎるかもしれないということでしょうか。
 早弾きは、たぶん、三線を始めた人の多くが「最終目標」としていると思います。いきなりそこへ行けたとしたら、すばらしいこと。でしょうか?
 ゲームソフトを購入し、究極の裏技を使い、5分で攻略できてしまったら?楽しくないでしょうね。
 山の頂上へ登るのに、近道を探すのもいいですけれど、長い道中、周りの景色や風の薫りを楽しみながら歩くのもいいものでしょう。
 いろんな曲のよさを知りながら、早弾きへと近づいていければ長く楽しめますよね。

 では、先輩や先生から束縛されない人=独学の人なら何も問題はないのか?
 教室に通っている人には「課題」があります。「早弾きはまだ早い。今練習している曲を、もっときちんと演奏できるようになりなさい」と言われれば、それに従うべきです。それが先生と生徒の関係です。
 じゃあ、先生のいない人。独学で三線をやっている人の場合は、最初の一曲が「早弾き」でも問題ないのでしょうか?


 そこそこ早弾きができるようになった(と自分で思い始めた)ころ。先輩から三つの注意を受けるようになりました。

 一つは、スピード
 早くなるんですよ。弾いているうちにどんどん早くなります。先輩と二人で演奏すると、よくわかりました。しかも、早くなりすぎると、必ずリズムが悪くなっているんです。あの弾むようなリズムが流れてしまう。と言えばわかっていただけるでしょうか。早すぎるし、リズムはだめ。これでは「早い」だけの演奏で、「早弾き」とは言えないですよね。「早弾きは、ゆっくり弾け」というのは、この時に感じましたね。
 
 もう一つは、左手の指の動き
 つまり、音の長さです。次の音を出すまで、前の音をきちんと伸す。左手の指が早く離れてしまうと、音が途切れたようになってしまうのです。これは自分では気づきにくいのですけれど、「どういうわけか、他の人の演奏と比べて、自分の演奏はぎこちなく聞こえる」という場合は疑ってみるといいです。

 そして、〈尺〉
 〈尺〉だけに限りませんが、特に〈尺〉は小指で押さえる場所ですし、勘所がいい加減になりやすいです。〈上〉から〈尺〉という動きなどでは、〈尺〉の音まで小指が届いていなかったりします。「いまいち明るい雰囲気がでてこない」というときには、この〈尺〉の音やリズムに注意すべきですね。

 じゃあ、ここに書いてあることに「自分で注意して」演奏すれば、早弾きをいつ始めても=最初の一曲が早弾きでもいいじゃないの。
 それは難しいです。自分でわからないから注意されるのです。これらの問題点が、ある程度自分で気づくことができるようになるためにも、やはりゆっくりした曲で練習を積むべきでしょうね。
 ゆっくりした曲なら、どの音がおかしいのか、どこがちがうのかということが、自分にもわかりやすいわけですが、早弾きですと「次の音、次の音・・・」と追いかけるばかりで自分の演奏の問題点に気づきにくいのです。速さにまぎれて、細かい部分をおろそかにしてしまい、少しくらいおかしな音が混ざっていても、なんとなく弾けていると、弾いている本人は満足してしまうのです。
 その満足のままでずっと三線を楽しめるのでしたら、ある意味幸せですが、そのうち気づくのです。「あ、なんだか違う。オレの早弾きは、どこかがおかしい」
 自分ではある程度早弾きができているつもりなのに、いろんな部分を矯正しなければならなくなります。癖を直すのは面倒ですし、やる気も失せてしまうかもしれませんよ。

 では、いつから始めれば「早すぎない」の?
 時々、いたずらで早弾きをやってみるというのは、かまわないと思います。本格的に「次は早弾きのあの曲だ」と力を入れる時期を考えましょう。
 教室に通っている人は、先生に尋ねるといいでしょうね。「まだ早い」と言われなければいいわけです。
 独学の人はどうでしょう。個人差はありますが、「自分の演奏している音がわかる」ようになってから。ということになりますか。「もうわかっているよ」と思われる人は、それでもいいでしょう。ただ、先ほど書きました三つの注意を、ゆっくりした曲やある程度テンポのよい曲(『目出度節』とか『上り口説』など)で確認してください。それが確実にできていると自信が持てた頃に早弾きを始めていただければよいと思います。
 ここに書いたことは、「歌いながら」を前提にしています。「弾けるんだけど、歌いながらだとちょっと」という人は、「まだ早い」でしょうねえ。

補足

 三線以外の弦楽器に慣れている人なら、早弾きから始めても問題ないだろう。と私も考えていました。スピードや左手の動き、〈尺〉にしても、他の楽器で慣れている人なら自分で自分の音がわかりますよね。
 ところが、問題があったのです。たとえば、ギターを演奏している人が三線を始めます。最初から工工四を見ないで演奏できる人もいます。工工四を覚えれば、鬼に金棒。早弾きだって問題ありません。ところが、スタイルが悪い。ギターのようなスタイルなんです。
 同じく、ギターを演奏している人でも、三線を初心者と同様に勉強していきますと、ギターを演奏するときはギターのスタイル。三線のときは三線のスタイルで演奏できるようになります。ここでも、あわてて早弾きに手を出す必要はない。三線を三線のスタイルで弾いたときに弾きにくいと思わなくなるまではゆっくりした曲で練習を。という結論を出しているのですが、みなさんはどう思われます?




GO MOUTH HERE MOUTH 一目瞭然とはいかない
 「こう構えてください」
 「こうですか?」
 「いえ、こうですよ」
 「こうですね?」
 「いえ、だから、こうですってば」
 「こうですよね?」
 「ここを、こうよ。こう!」
 「もう!いったい、どうなんです!」

 というような争いになることは少ないです。なぜなら、教える人と教えられる人の間には、厳然と上下関係があります。下=教えられる人は、上=教えてくれる人に、強く出ることはまずありません。
 だから、平和だ。と思ってしまう指導者は優秀とはいえないでしょう。だから、困るのです。
 教えられる人、と書くのが面倒ですので、先生と生徒という書き方をします。生徒が、わからないことをわからないとはっきり言えたり、先生の指導のまずさをきちんと指摘してくれれば、教える方も学ぶ方もすばらしく上達することでしょう。

 話がそれてしまいました。「一目瞭然とはいかない」でした。

左手の指をそろえて伸ばし、親指だけを離す。人差し指の付け根あたりに棹を乗せ、その棹を上から親指でやさしく押さえるように持つ」

 棹を持つときの左手の形です。これだけ言葉を並べても、まだ足りません。棹のどの部分を人差し指の付け根に乗せるのか。肘や脇は?棹の角度は?すべてを文章にするのは、大変です。
 文章ではなく、実物を見せればもっと確実ですよね。先生が初めて三線を手にする生徒に三線を構えて見せて、「こう構えてください」と言ったとしましょう。目の前で構えているのですから、これ以上わかりやすいことはありません。なのに、その生徒はできないのです。
 「こう構えて」の、「こう」が「どう」なのかわからない。しかたなく、生徒の指を伸ばしたり曲げたり、肘を上げたり手の甲をつねったり(というのは冗談)しながら、なんとか正しい構えに仕上げます。
 この場合は、先生がそばにいてくれたから、なんとか正しい構えにたどり着くことが出来ました。もし、この先生が人間ではなく、写真などの映像だったらどうでしょう。生徒は、正しい構えを目にしているにもかかわらず、正しい構えができないままだったかもしれません。
 文章は、読み取り方で違ってしまうことがありますが、映像は非常にわかりやすい。一つの映像は、誰が見ても同じに見えるわけですから。ところが、実際は違うのです。見えているはずなのに、わかっていないということが多いのです。

 一目瞭然という言葉があります。百聞は一見にしかずとも言います。でも、教えるという立場に立つのでしたら、これらの言葉を信じてはいけません。「ちゃんと手本を見せているんだから、できない方が悪い」なんて、開き直りはもってのほかです。そして、本やCD、ビデオで学ぶ生徒のみなさんは、文章も映像も、そして、できれば他人の目を通して自分の技術を確認したいものです。




GO MOUTH HERE MOUTH 先生と呼ばれたくない
 受け取り方によっては、ずいぶん偉そうな題名でしたね。

 「いちにの三線」というホームページを公開したのが2003年3月でした。2008年2月で終了。3月15日から「いちにの三線remix」として再開しました。おかげさまで、多くのみなさんにご覧いただいています。
 アクセスカウンターというのがありまして、公開当初は「いったい、一日に何人くらい見てくれるのだろう」と、カウンターの数字をカレンダーに毎日書き付けていたこともありました。趣味で公開しているとはいえ、やはり見てもらっているということを実感できるのは嬉しいですし、励みになります。ありがとうございます。

 ときどきメールを受け取ることもあります。受け取って、返事を書いて、それでおしまい。ということがほとんどですが、何名かのかたとは、ずっとメールのやりとりを続けさせていただいています。
 そんな中で、「先生」と書いてくださるかたがおられます。HPの中ではみなさんに向かって情報を流しているわけですから、これをご覧になった人は「教わった」という感覚を持たれることがあるのでしょうね。でも、私は「先生はやめてください」とお願いするんです。

 「先生」と呼ばれたくないのは、似つかわしくないのと、気恥ずかしいのと、実力がないのと、実際だれにも教えていない。という理由からです。「先生」という言葉に悪い印象があるわけでも、「先生」に敵意を抱いているわけでもありませんので、先生方、どうぞご安心を。

 歌三線の「先生」と呼ばれている人。つまり教えている人はすごいなあと思います。歌三線の技量はもちろんですが、人に教えるという行為は少なからず自分をさらけ出しています。人間性が出ます。生徒に教えている内容は当然「歌三線」です。でも、その「歌三線」を生徒に教えているのは先生という人間そのものだと思うのです。技量と人間性。どちらも欠けてはならない。そんな人間に、私はなりたい。でも、なれないです。

 「おまえだって教えているじゃないか」と言う人もいますが、それは誤解です。私は、「こういうふうに演奏する。って書いてありました」「こうすればいいと聞いたことがあります」などとお伝えしているだけで、教えているわけではないです。もちろん、意見を求められれば「こうした方がいいと思います」と答えますが、それも一つの意見や考え方をお伝えしたというだけで、教えたのではありません。などと言葉を並べても、結局責任逃れ、というわけですね。お恥ずかしい。

 ところで、「先生小(しんしーぐゎー)」という言葉をご存じですか?
 「小(ぐゎー)」というのは、主に沖縄本島で使われる方言です。「猫小(まやーぐゎー)」というと、「ねこちゃん」という感じ。動物でも人でも物でも、「小」を付けると、かわいくなる。という理解をしておられますか?正解ではあります。
 でも、「先生小」となると意味が違ってきます。この場合は「先生だと言っているけれど、実際はそれほどの人格者じゃない。だめな先生」といったイメージです。決して「かわいい先生」という意味にはなりません。使用例としては、陰口で「ヤナシンシーグヮーヤー」といったところでしょうか。

 そういえば、登川誠仁氏のことを「誠小(せーぐゎー)」と呼ぶ人がいますよね。掲示板でも会話の中でも「誠小の歌、サイコー」なんて。

 あるとき、大阪の「沖縄民謡酒場」での話。店主は、登川流の師範(教師と表現するのか師範になるのか、はたまた先生と呼ぶべきか。区別がわかりませんが、とにかく指導する立場の人です)でいらっしゃいます。話題は店主の師匠、登川誠仁氏のことに。

 「そうですか。登川誠仁さんが、こちらに来られて演奏を!」
 「うん。大阪へいらしたときは、必ず店にも来てくださる」
すごいですねえ。登川誠仁さんの演奏が間近で見られるんですねえ。お客さんも喜ぶでしょう」
でも、最近の若い人は『せーぐゎー』とか、呼び捨てにするんだよね。私たちでも、『誠仁先生』か『せーぐゎー先生』と、必ず『先生』をつけるのに。困ったもんだ」

 沖縄本島なら「チルーグヮー」(ちるちゃん)。宮古なら「カナガマ」(かなちゃん)。八重山なら「ナベーマ」(なべちゃん)。というように、「ぐゎー」「がま」「ま」を人名に付けることで言葉を柔らかくして親近感を持たせます。とてもよい響きだとは思いますが、これらは相手と対等の立場かあるいは見下げているくらいの印象があります。普通は先輩や年上の人に対して使う言葉ではありません。ですから、登川誠仁氏を「誠小」と呼べるのは、登川誠仁氏の友だちか先輩だろうと推測されます。かの店主が言う「最近の若い人」はずいぶんご年輩ということ?

 と、そこまで考える必要もないのでしょうか。
 考えてみると、人気者はファンから呼び捨てにされることが多いようです。

 野球選手なら「阪神の赤星にサインもろた!」
 女優も「吉永小百合って、昔とぜんぜんかわらないよなあ」
 文豪も「漱石の文学について、研究しています」

 みんな呼び捨て。これが普通ですよね。面と向かって呼びかけることはめったにありませんし。沖縄民謡の世界でも、愛情込めて、

誠小のライブ、MCがおもしろいんだよねえ。半分くらいしか意味がわからないけれど」

 なんて、言ってよいのかも。
 とまとめておきますが、私は、やっぱり言えません。登川誠仁氏と面識はありませんし、「誠仁先生」とも言えません。もし、氏の名前を話題にするとしたら、やっぱり「登川誠仁さん」と表現するでしょうね。