GO MOUTH HERE MOUTH 本物は歌えない?
Aさん Bさん
 よそ者の歌は、ニセモノです。

 正確に音を真似て、正確に発音を真似て、歌うときの表情まで真似たとしても、所詮ニセモノはニセモノ。真似でしかないのです。

 歌は、なぜ生まれたか。
 喜び、悲しみ、怒り、愛、さまざまな感情が言葉とメロディーを伴って体の外に溢れだしたものなのです。歌の生まれた島を知らずして、どうして歌うことができましょうか。
 島に生まれ育った人には、島の生活がわかる。お祭りやお祝いの席で歌われる民謡を自然に聞いて自然に覚えている。いえ、覚えていなくても、体の中に染みこんでいるのです。一つ一つの歌に多くの思い出があり、一つ一つの思い出の中に多くの歌がある。

 「子守歌かあ。隣のおばさんがね、よく月ぬかいしゃーを歌っていたなあ」
 「結婚披露宴で、浜千鳥踊ったんだけど、あれはひどかった。みんな大笑いよ」
 「大学進学のために島を離れるとき、おばあちゃんが歌った民謡は忘れられないね」
 生活の中に、いつも島の歌があった。幼い頃からの記憶は歌に彩られているのです。

 民謡とは、民の歌です。その土地で、連綿と受け継がれてきた歌は、島の人々の手によって育てられてきた歌でもあるのです。その土地に根ざした歌なのです。それを勝手によそ者が歌うということは、つまりは、美しい花の根を引っこ抜いてしまうようなもの。たとえ、上手に植え替えたとしても、花は元の土地を離れて寂しがっているに違いないのです。
 よそ者の歌だって、本物です。

 歌というのは、音でできています。子どもが言葉を覚えるのも、音を覚えてそれが言葉として意味をなしていく。音が出発点である限り、音を学ぶことによって本物の歌が歌えるというのは、自明の理であります。
 心だとか、血だとか、ありそうで、ありえそうで、実は実態のないものを引き合いに出して、本物だの偽物だのと言いたがる人はいます。それが、どれほど意味のないものか。例を挙げればきりがない。

 「小浜節を歌っているけれど、あの人は小浜の人じゃない」
 だったら、小浜島出身の人は、鳩間節を歌えないってこと?
 「八重山の人だって言うけれど、あの人の血の25%は、宮古だ」
 何代前からその島に住んでいないといけないというのでしょうか?
 「屋嘉節とはねえ。あの人、戦争を経験してないでしょう。戦争の何を知っているっていうのかねえ」
 だったら、やがて屋嘉節を歌える人がいなくなるってことですか?

 どうです。「よそ者」という定義そのものが、いかに曖昧か、わかっていただけたでしょう。

 つまり、歌を聞いたときに、それを歌う人が、よそ者かどうかなどということは、まったく意味のないことなのです。歌をどれだけ愛し、練習してきたか。そして自身の能力をどこまで高め、どれだけ聞き手を感動させたかによって、その人の歌が評価されるべきなのです。

 この2つの文章は、どちらも私が書きまいた。私の中にこの二つを同居させているつもりです。

 歌三線を始めるときには、Bさんのように「できる」と思ってスタートしますよね。
 ある程度できてきたら、Aさんのように「本当にそれが本物か?」と自問します。
 自信が無くなってきたらBさんに登場願い、自信がつきすぎたころにAさんからアドバイス。
 練習中は、Aさんと一緒。いつも、自分に問い返します。
 でも、もし舞台の上に立っつことがあったら、自分の出身地を言い訳にしないためにもBさんのように堂々と。

 こんなふうに、使い分けています。

 沖縄音楽が好き。歌三線を楽しみたい。少しでもうまくなりたい。沖縄の人みたいに歌えたらいいだろうなあ。ということでしたら、ここに書きましたように、よい意味で自分に都合の良い言葉を信じて、楽しく練習し演奏し、人に聞かせてあげてよいのだろうと思うのです。

 でも、これだけではあまりにも自由です。ジャンルによっては、もっと考えるべき事がありそうです。 そのあたりを、「本物は踊れない」で。



GO MOUTH HERE MOUTH 本物は踊れない
 たとえば、エイサーです。

 県外のエイサーは本物じゃないとか、何のためにエイサーをやるんだとか、県外のエイサー団体にきびしい言葉を投げかける人がいるそうです。それが、「もっと上達せよ」「エイサーの本質を学べ」といった意味であればありがたい言葉なのですが、ただ相手を攻撃するだけの言葉であれば、「心ない」と言われても仕方ないと思うのですが。

 エイサーについて、少し考えてみました。私見ですので、読んでくださるみなさんと意見が違う部分があろうかと思います。ご容赦ください。

 お盆は、地域によって多少考え方の違いはあっても、祖先を供養するという点ではほぼ一致していると思います。そのお盆の行事の中でも、エイサーは、家族や親戚の中だけで行う行事とはちがい、村をあげての一大イベントです。つまり、村のエイサーは村のものという意識が強い。

 二昔ほど前ですと、お盆以外でエイサーをやるなんて、考えにくかったでしょう。練習すら、決まった期間しかさせてもらえなかったと聞きます。守らないと、ご先祖様が右往左往してしまうのでしょうね。
 ところが、小学校の運動会で演目として踊られるエイサーは、ほとんど問題になりませんでした。
 同様に、県外のエイサー愛好者が公園で踊っていたとしても、問題にはしなかったはずです。なぜなら、運動会の演目も公園のエイサーも、それらは村のエイサーではありません。村のエイサーさえ守られていれば、村にとっては何も不都合はないわけです。

 祖先を供養するという意味を持たず、運動会の演目になったり、県外の人が公園で踊っているエイサーは、エイサーではないと言われれば、それは納得せざるを得ませんが、村の踊りをコピーされたり、村を名乗って演じられるのでなければ、学校や公園のエイサーを本気で問題視する人はいなかったでしょう。

 ところがです。今は、村のエイサーさえも村を飛び出し、季節に関係なく踊られるようになってしまいました。最初はエイサー大会とかエイサー祭りという、村の代表として参加し、順位を競ったり交流を目的としたものでしたが、今やイベントでもひっぱりだこ。有名な村のエイサーほど集客力があるので喜ばれます。
 そうなってくると、村のエイサーであってもエイサーの定義から外れてしまっているわけですよね。
 「いいえ。きちんと先祖供養のエイサーも継承しています。イベントに呼ばれて踊るからといって、お盆のエイサーをおろそかにしているわけではありません」
 「村の中では、お盆にしかやらないよ」
 などと主張するかもしれません。演じ手が自分自身やご先祖様に説明する言葉としてはよいでしょう。でも、いくら理屈を付けたり繕ったりしても、エイサーに対する意識と取り巻く状況が変わってきていることは事実です。もはや、「芸能」としてのエイサーと、「村のエイサー」とは、たとえ曲や踊りや演じ手が同じであったとしても、区別して考えるべきですし、区別して考える人が多くなっているのではないでしょうか。

 「先祖供養のエイサー」と、「芸能としてのエイサー」が、沖縄でもきちんと区別されるようになってきた。ならば、県外でエイサーを演じたとしても不都合はない。(もとより不都合など何もなかったはずなのですけれど)県外のエイサー団体にとっては、ますます「問題がなく」なって好都合のはずです。

 ところが、この状況の変化の中で、一部の人が県外のエイサー愛好家に対して最初に書いたような心ない発言をしているらしいのです。なぜ、そんな発言が聞かれるようになったのか?

 エイサーが演じる時と場所の制約から解放され、芸能として演じられるようになると、沖縄を代表する芸能として県内外で認知されてきます。つまり、「村のエイサー」から「沖縄のエイサー」と意識が変わっていくのです。これは、演じ手の問題ではなく、見る側の意識の問題です。
 村のエイサーさえ守られていれば、村にとっては何の不都合もないと考えられていた時代は、「村内か村外か」という点が重要だったのですが、「沖縄のエイサー」となった今では「県内か県外か」という点で区別するようになったわけです。それが県外のエイサー愛好家を困惑させるような発言を生み出す要因の一つだと私は考えています。でも、これも「先祖供養のエイサー」と「芸能としてのエイサー」の区別が明確になるまでの過渡期だからでしょうし、また、県外のエイサー団体が急激に増えたという事情(事実、中には目を覆いたくなるような内容もあるそうですので・・・)からであって、時間と共に、心ない批判もなくなり、本当の意味で励ましてくれる言葉ばかりになっていくと思います。

 ここまで読んでいただいたみなさんには、わかっていただけると思います。
 「本物のエイサーじゃない」という批判に対しては、先祖供養という意味では本物でなくても、芸能として本物であると言える。(これを読んで「じゃあ、これがエイサーだと言えば何でもエイサーになるんだな」なんて思われたらどうしましょう。そういう人には、演じ手が本物だと自信を持って演じられるエイサーであることと同時に、見る側が本物のエイサーだと感じられるようなエイサーであること。という断りを入れた方がいいですかね)
 「何のためにエイサーを」という批判に対しては、芸能である以上、楽しむことを目的としていいはずです。ためらうことはないでしょう。

 ともあれ、このような批判をする人は一部であり、それは確実に減っている=意識が変わってきていると思うのです。
 最近、県外のエイサー団体が沖縄へ行って踊ったというニュースを見ました。沖縄側が県外のエイサーを認めているのです。県民も、沖縄のエイサーが多くの人に愛されているということに喜びを感じている証拠ですね。これからも芸能としてのエイサーが発展していくことでしょう。同時に、村のエイサーを絶やさず、伝統を守っていってほしいものです。

 これで終わりではありません。もう一つ、エイサーについて違った話もしておかなければなりません。

 県外で生活する沖縄出身者の中には、たいへんな苦労を重ねてこられた方が少なくありません。なかには、沖縄出身であることを隠して生活しなければならなかった人もいたと聞きます。
 沖縄に生まれ育って、沖縄をふるさとと言えない。沖縄が好きなのに、沖縄の文化を好きだと言えない。自分の子どもや孫にさえ、沖縄のすばらしさを伝えることができない。
 しかし、その中からふるさとに誇りを持って、たくましく生きたいと立ち上がる人がでてきます。沖縄を遠く離れ、今生活しているこの街の公園で、ふるさとのエイサーをやろうと計画したのです。
 沖縄を隠して生きてきた人を、エイサーに誘う。簡単なことではなかったそうです。「そんなことをしたら、沖縄だとばれてしまう」「どうして、内地で恥をかかないといけないのか」尻込みする人を説得して、ついにエイサーを踊る日がやってきます。
 観客は、けっして多くはなかったそうです。でも、ずっと沖縄を離れて、沖縄を想いながら、沖縄を誇れなかったおじいさん、おばあさんが、ふるさとを思い、涙を流して手をたたいていたり、エイサーに誘われたけれど、とうとう参加できなかった人が、少し離れた木の陰からじっと見つめていたり、自分の親が沖縄だと知りながら、どうして沖縄のことを隠すのかわからずにいる子どもたちが、無邪気に笑顔を返したりしていたとか。

 この人たちにとって、エイサーは「芸能」という一言では言い表せないのです。「お盆の行事」という説明でも不十分です。わかっていただけますでしょうか。
 この話を知って、「だからどうした。オレには関係ないことだ」と言い切る人もいるのでしょうか。せめて「わかるなあ」とつぶやける人に、エイサーをやってもらいたいと思いますが、それは私のわがままでしょうか。


 「エイサー」は、「村のエイサー」から「沖縄のエイサー」に変化、分化し、発展しています。しかし、島の芸能の中には、島とは切り離せない芸能もあります。次は、そのことを考えてみたいと思います。



GO MOUTH HERE MOUTH 本物は持ち出せない
 先に結論を書いてしまいます。

 島の芸能を、むやみに持ち出したり、演じたり、改変してはいけません。

 良くも悪くも、商品として扱われてきた沖縄本島の民謡や芸能を考えると、著作権の問題を除けば、だれもが問題なく自分のものにできるといえるでしょう。
 八重山の芸能については、違った気遣いが必要な場合もあります。

 八重山にも(八重山が発祥の芸能にも)商品として流通している歌や芸能はあります。逆に、島の中だけで受け継がれていて、島の外へは出てこない歌や踊りもあります。

 そのような芸能の多くは、祭祀と結びついたものです。決められた祭りの場以外で演じることを嫌う場合が多いのです。
 たとえば、『稲が種アヨウ(いにがだにあよう)』という歌がありますが、これを歌うときには、姿勢を正し、手拍子もいれずに歌うことにしている村があります。それは、芽生えた苗が真っ直ぐに育つようにという願いが込められているからだと聞きます。
 有名な『マミドーマ』は、鎌、鍬、ヘラを持って踊られる、軽快でユーモラスな踊りです。八重山から沖縄本島まで、運動会から結婚披露宴まで、広く親しまれ踊られています。しかし、その発祥の地とも言われる竹富島の「種取祭」で演じられるときには、有名な歌詞「マミドーマよ・・・」で始まるのではなく「ちちぬにぬ種取・・・」で始められます。これは、余興用と祭祀用とを厳格に区別しているといえるでしょう。あ、そうそう。祭りでプログラムを紹介するときには「まみどー」とされています。

 特に、八重山の芸能を愛する私たちは、あまり知られていない特別な歌や踊りを見ると、「これぞ八重山の本質」と手を叩いて喜び、それを持ち出そうとしてしまいがちです。しかし、そのときに「なぜ、今まで知られなかったのか」を考え、島におけるその芸能の位置づけを見極めることが大切です。それを考えると、ほとんどの場合、むやみに持ち出すことはできないのですけれど。

 一方、島の芸能を広く知ってもらおうという動きもあります。
 八重山でもっとも有名な曲といってもよい『トゥバラーマ』『小浜節』『スンカニ(与那国ションカネー)』。これらは、年に一回大会が開かれています。特に、『小浜節』と『スンカニ』は、「島の歌い方」での審査も行われていて、県外の人にも、その島の歌い方を勉強して参加するチャンスがあります。このことは、「勝手に島の芸能を持ち出すな」ではなくて、「島以外の人もどんどん覚えて、どんどん歌ってちょうだい」という姿勢ですよね。
 また、島独自で工工四を作ったり、伝統的な祭祀で歌われる歌を集めたCDを販売するなど、島の芸能を島の外へ発信しようという意識も顕著になってきていることは確かです。

 それでもなお、「あの歌を歌っていいのなら、この歌もいいだろう」といった勝手な判断は危険です。芸能には、それぞれ性格があると思うべきでしょう。その性格とは、つまりは島の人々の、その芸能に対する思い入れのことです。
 島の芸能に興味があるのなら、島のことを勉強して、島の人の気持ちを考え、慎重に「伝授」していただくという姿勢を忘れてはいけないと思います。

 このHPにたびたび登場する八重芸は、ここに書きました「島の芸能」を持ち出すことが多いわけですが、必ず許可を得て、学び、舞台で演じるようにしています。
 しかし、ここで考えるべきことがもう一つあります。
 島で受け継がれてきたある一つの芸能を教えていただくとします。教えていただいたその芸能を、島の人間でないものが、本来演じられるべきではない場所で演じるわけです。それを、本物と言ってよいのかどうか。
 ここでも、私は「本物は歌えない?」で書いたことが必要だと思っています。練習では、徹底的に自分を疑い、本番では自分を信じる。「それだけで本物と言えるのか?」と言われれば、返す言葉がありません。判断は観ている人にゆだねるしかありませんね。
 でも、一つ付け加えさせて頂ければ、今まで八重芸は多くの「島の芸能」を舞台で演じてきましたが、教えてくださった島の「先生」がたや観てくださった島の人は、ほとんどの場合「教えてよかった」「すばらしかった」と喜んでくださいました。「島の歌踊り、そのままをやってくれてありがとう」と感謝されることもありました。八重芸も、芸能を育ててきた島と、教えてくださったみなさんに恥じないように精一杯練習を積んできているわけでして。本物と思って頂けるとすれば、彼らのそんな気持ちが、芸能に表れているからかもしれません。


 さて、またまたお話は変わります。
 CDを聞いて、歌を覚えて、楽しむ。そのことには何も問題ありません。じゃあ、だれかから、「沖縄の歌を教えて」と言われたら?
 次は、県外出身者が沖縄の歌を教えるということを考えてみたいと思います。




GO MOUTH HERE MOUTH 本物は教えられない
沖縄県民ではない私が、三線を手にするなんて、これは、沖縄文化に対する冒涜ではないだろうか。ああ、それでも私は三線に触れたい。沖縄の心に触れたい。どうすればよいのだろう。神様、教えてください。あーとーとぅ」

 これはちょっと大げさでしょうけれど、三線が今ほど流行する前には、これに似たような意識の人がいたようです。
 今では、三線を持つことに抵抗を感じる人はほとんどいないと思います。でも、歌三線を教えるとなるとまだまだ抵抗があるでしょうね。

 沖縄出身じゃないのに、沖縄の歌を教えていいのだろうか。
 沖縄出身じゃないのに、舞台で沖縄の歌をうたっていいのだろうか。

 この「沖縄」の部分を、「宮古」や「八重山」にしてくださってもいいと思います。

 沖縄県民でなければ、教えるべきではない。と考える人は、あるいは「沖縄の心を沖縄県以外の人が教えられるはずがない。教えるべきではない」という考えなのかもしれません。たいへん謙虚でよい人なんだろうとは思いますが、そのような迷いは捨てて良いと考えています。
 ここで「県外出身者の歌が本物かどうか」という話を始めますと、これまでに書いてきたことをまた持ち出さなければなりませんので、ここでは思い切って、「県外出身者の歌も、本物です」と言い切ってスタートします。

 話を進めやすいように、教える人と教えられる人を、先生と生徒としましょう。
 生徒は、三線が弾けるようになりたい。先生は、右手と左手の動かし方や工工四の見方を教えます。先生が県外の人かどうか、問題になります?ならないですよね。
 では、歌を教えるとします。メロディーを教え、歌詞を乗せる。これも、県外の人が教えて問題ありません。発音や歌詞の意味ですか?それは、沖縄県出身だからできるとはかぎりませんし、県外出身者でも、勉強すればできます。

 歌三線を教えるというのは、生徒が上手に三線を弾いて、上手に歌えるようにする。という行為です。これは出身地とは全く関係ない。もう一つ、歌三線の腕(技量)とも関係ないと言い切りましょう。まったく弾けない人がうまく教えられるとは思えませんが、でも、歌三線が上手いから、教えるのがうまいとはかぎらないでしょう。
 つまり、歌三線を教えるという点において大切なのは、出身地や腕前ではなく、「うまく教えることができる」ということです。言い方を変えると、「生徒にわかるように指導できる」「生徒の個性に合わせた指導ができる」「生徒に信頼される指導ができる」となるでしょう。

 なんとなく、頷いてくださったみなさん。ありがとうございます。でも、まだすっきりしませんよね。

うちの先生は、大阪出身なんだ。オレがなかなか上手くならないのは、そのせいなのさ。やっぱり、沖縄の人から習わなくちゃだめだよね」

 もし、この大阪出身の先生がダメだとしたら、それは大阪(出身)のせいではありません。その先生本人の問題です。先生が、沖縄方言をうまく発音ができないとか、歌詞の意味を十分つかんでいないとしても、出身地の問題ではありません。先生がしっかり勉強していないのが悪いのです。
 生徒がうまくならない=うまく教えられないのは、教え方の問題であって、断じて出身地の問題ではありません。この当たり前のことを念頭に置いておけば、基本的に「県外出身者が教えていいだろうか」という心配は、全く必要ないはずなのです。

 ちょっと話はそれます。その逆もありそうですね。生徒が上手くならないのを「私は教師免許も持っているし、仲間内からも認められている。なのに、あの生徒がうまくならないのは、生徒が悪いのだ」なんて。これも、沖縄出身であろうとなかろうと、先生自身の考え方が問題です。先生は、いつも自分の指導方法に問題を見つけるべきです。


 少なくとも、技術を教えるという行為は、出身地とは関係ない。という点ではうなずけても、読んでくださる人は、きっと心の中ではいろんなことを思っているに違いない。

でもね、歌には心をこめるものだよね。歌うことって、表現だよね。沖縄の民謡を歌うときに、やっぱり沖縄の心とか血とかが、大切じゃないのかな。歌うにしろ、教えるにしろ、やっぱり、沖縄の人には勝てないんじゃないかな。」

 とっても真面目な人だと思います。こういう人、私は嫌いじゃないです。
 でも、私の後輩がこんなことを言ったとしたら、私はこう言うと思います。

なに?沖縄の心だと?バカモノ!お前に心を語るなど、100年早いわ!!練習しろ。お前は出身地の心配するよりも、歌を覚えて、きちんと歌えるようになれ。完璧に歌えるようになってから、出身地だの沖縄の血だの、好きなことを言えばいい。それまでは、口にするな」

 えー、この文章で、私は多くの人から反感を買っているかもしれません。でも、本心です。

 補足しておきます。沖縄のことを知らなくてもよい。とは思っていません。その点は、「ゴーヤーは深い」など、私の書いた文章を読んでいただければ、私が歌のために歌以外のことを知ることをおろそかにしていないことをわかっていただけると思います。というより、歌以外のことを知るのが、好きなんですけどね。
 言いたいのは、出身地を言い訳にしてはならないということなのです。そして、もし、出身地や血という、練習ではどうしようもないものが自分の前に立ちはだかっていると思っても、いつもこう問い返します。

 「上手くならないのは、血のせいなのか?練習が足りないのか?」

 同じことを、教える立場でも考えればよいのです。

 「上手く教えられないのは、血のせいなのか?努力が足りないのか?

 舞台の上でも、同じでしょう?沖縄出身じゃないから、うまくできない。と考えたらおしまいです。

 「へー、大阪の人なのに、上手だねー」

 なんて、最も恥ずべき言葉だ、というのは言い過ぎでしょうけれど。
 お客さんは、出身地を聞きに来るわけではありません。歌や踊りに期待しているのです。期待に応えられるよう努力して、舞台にあがることに、何の遠慮がいりましょうか。いかなるときも、出身地を言い訳にしないで、努力を重ねていただきたい。

 ここでお話を終わることもできるのですが、ちょっと付け足します。
 生徒にも、いろんな人がいます。ここでは、歌三線を習いたい生徒さんと、それを教える先生のお話でした。生徒さんの中には、先生から歌三線だけではなく、沖縄そのものを感じたいと希望する人がいると思うのです。とってもわかりやすく言いますと、歌や三線のお稽古の合間に、先生から沖縄のおもしろ話でも聞かせてもらえたらなー。といったような。

 「先生!先生が生まれた島では、どんな歌を歌っていましたか?」

 これは、県外出身の先生には辛い。というより、無理。
 でも、県外出身であることも、実は教えるという立場にとっては都合よい場合があります。簡単に書いてしまいますが、地元の人が当たり前だと思っていることに、感動できる心。これが県外出身者の「特権」だと思います。そして、その感動を生徒に伝える努力をすれば、きっとよい先生になれます。

私は、東京生まれなので・・・でもね、この前竹富島へ行ったときなんだけど。民宿のおばさんがお祭りで踊るとかいって、練習してたんだ。その踊りがすばらしいの。あのね、こんな形の道具を持ってね、たぶん農具だろうと思うんだ。でね、こうして足をあげてさ、腰がはいっているんだよね。もっとこうだったか。・・・」

 眼を輝かせて話をする先生に対して、悪い印象をもつ生徒はいませんぜ、旦那。

 つまり、教える立場になっても、いつも学ぶ気持をもっていることが大切なのです。
 という、なんとも説教くさいまとめになってしまって、恐縮です。



GO MOUTH HERE MOUTH 本物以外は許されない
 本物シリーズ(いつの間にか、シリーズになってしまいました)を読んでいる人が、

 「えー!歌三線って、こんなに覚悟してやらなきゃならないのー。もっと気楽にやらせてよー」

 と思っているのではないかと、心配しています。

 みなさーん。気楽にやってくださーい。

 本物シリーズは、あの中で書いたような疑問にぶつかった人への言葉です。そのような疑問を持たずに、「歌いたい、演奏したい、楽しみたい」という人もいていいはずです。いいですよね。いいに決まってます。ほとんどの人が、そうですよね。

 正直なところ、歌三線をやるのなら、ちょっとは沖縄のことをわかってほしい。という気持ちはあります。でも、それは強いられるべきではありません。

 「いいや、三線は沖縄の魂。いいかげんな気持ちでさわってくれるな」

 ピアノは、楽器として広く世界で愛用されています。ピアノを学ぶとき、その成り立ちや発明された国のことまで勉強しなければならないでしょうか?ピアノで日本の音楽を演奏したら、邪道?ピアノの演奏者には、イタリアの魂が必要?全部否です。
 楽器は楽器として愛されるほど、地域色が薄れていきます。三線が沖縄という土地と強く結びついていることは誰もが認めます(奄美もですけれど)。しかし、今後楽器として世界中で愛されるようになれば、沖縄との結びつきはどんどん薄れていくでしょう。冷たい言い方をすれば、いつまでも沖縄の三線でいるようでは、楽器としては未熟である。といえそうです。
 まあ、私の場合は楽器として未熟であろうと無かろうと、沖縄の三線であることで十分なのですけれど。というよりも、そのことの方が大切なんですけれどね。
 それは私の趣味の問題でして。人によっては、三線をもっと違う音楽に使いたいとか、三線そのものに工夫をして楽器として発達させたいと想っている人もいるでしょう。私とは違う考え方ですけれど、それを否定する気はありません。

 そうなると、本物という定義もむずかしくなります。いえ、今まで書いた「本物シリーズ」をすべて無駄にしてしまう気持ちはありません。あのシリーズでの本物とは、本物の民謡。つまり沖縄(県)の音楽として本物であるということですから。しかし、先ほど書きましたように、沖縄の音楽だけに三線を縛り付けなければならないという理由はないわけでして。同じように、沖縄の音楽ではあるけれども、沖縄風でなければならないという決まりもない。
 つまり、三線も、沖縄音楽も、愛する人がどのような形で表現しようとも、それは自由だというわけです。

 なにをわかりきったことを書いているのだ。と自分でも思わないでもありません。しかし、演じる人は自分がどこに立っているかを考えておく必要があるのです。私が書いた「本物」なのか。それとも「自由」な世界なのか。それをまぜこぜにしてしまうと、どちらの世界からも反感を買うでしょうし、目標を見失うことにもなるでしょう。

 徹底的に、沖縄や宮古、八重山にこだわって、本物をめざす人。
 とにかく、好きな音楽を楽しもうとする人。
 新しい音作り、新しい世界へ自分の音楽を発信したい人。

 そのどれもが正しい道ですし、どの道を歩んでいる人にも敬意を払うべきです。


GO MOUTH HERE MOUTH 発表会は忙しい
 2003年8月23日
 琉球大学八重山芸能研究会が、与那国島で発表会をおこないました。

 この記事は当初、日記のコーナーに書く予定でしたが、離島で行う発表会の準備から本番までの様子を、一つの記事にしておくことで、舞台を作り上げるときの参考になると考え、記事を独立させることにしました。

 会場設営について
 発表会の会場は、与那国中学校体育館でした。離島で発表会を行う場合、公民館やそれに類する施設を使わせていただくか、今回のように小中学校の体育館を使うことになります。
 公民館も体育館も、舞台を使うことを前提に造られていますので、放送設備や客席用の椅子などは用意されていることがほとんどです。
客席  今回は、客席用にパイプ椅子を150脚程度用意しました。舞台から少し離れたところに並べるようにして、椅子と舞台の間にも人が座れるように考えました。椅子をまったく使わないで、全員に床に座っていただくという方法もありますが、お年寄りのことを考えると椅子は必要です。
 椅子は、床に直接ならべるのではなく、先にシートを敷いて、その上に置いてあります。このシートの取扱いが大変ですよね。ロールケーキのように巻いてあるあれですけれど、とっても重い。しかし、借りている体育館に傷を付けるわけにはいきません。きちんと敷きました。
音響  舞台上には、上手(かみて=客席から見て右)に放送室があります。この体育館は、放送設備が充実していて、マイクも6本程度使えるようになっていました。ワイヤレスもあります。マイクがあっても、マイクスタンドが少ないということがありますが、こちらはマイクスタンドもきちんと揃っています。ありがたいことです。
 緞帳(どんちょう)は、上から下りてきます。舞台の一番奥には、普通ホリゾントという白い幕がありますが、この体育館は、横に開く灰色の幕でした。その裏は壁です。緞帳との間に、もう一つ赤い幕があります。舞台の奥行きが必要ない場合に、この幕を引いて使うのでしょうけれど、どうやら開いたまま動かないようです。袖幕のようになっていました。
照明  舞台上の照明は、奥から蛍光灯が二列。客席に近い部分には白熱灯が並んでいます。普通、顔や衣装の色がきれいに見えるのは白熱灯です。ですから、客席に近い方に白熱灯を並べて、顔をてらすようにしてあるのでしょう。しかし、これだけですと、舞台の前(客席近く)に踊り手が進んだ場合、明かりが当たらなくなることがあります。当たったとしても、真上からの明かりで、顔が暗くなってしまうのです。
 今回、客席に並べたパイプ椅子の最後尾あたりに、投光器を3台並べました。強力なもので、これのおかげで舞台上どこに立っても十分な明かりが当たります。
 照明についてもう少し。客席は、体育館ですので水銀灯の明かりです。水銀灯は、スイッチを入れてからすぐに100%の明るさにはなりません。最初は暗く赤っぽい色で、徐々に明るく白くなっていきます。ですから、カチャーシーのような、客席に照明が必要な場合には、少し早いタイミングでスイッチを入れておく必要があるのです。
 これで、明るくする方は問題ありません。次は、暗くする方を考えます。
 舞台では、暗転というのがよく使われます。舞台上を暗くして、演目の区切りとするわけです。ときには、暗転の間に舞台上の道具などを移動したり並べたりすることもあります。
 体育館には窓があります。窓のないコンサートホールですと、昼でも夜でも、本番と同じような照明を見ることができるのですが、体育館は、昼間は太陽光線が差し込んで明るいのです。ですから、暗転にしたときどこからどのような明かりが漏れてくるのかを想像して対応しなければいけません。今回も、どうやら舞台裏側の明かりが、舞台上に漏れてきそうです。映画館のように完全に暗くする必要はありませんが、お客さんがきになるような明かりはいただけません。暗幕を張って対応します。
楽屋  化粧や着替えは楽屋でするのが普通ですが、体育館には楽屋がありません。では、どこで着替えるか?三線はもちろん、舞踊に使う小道具や衣装をどこに並べておくか?
 舞台の両端で客席からは見えない場所を袖(そで)と呼びます。一般的には、上手に地方。下手は踊り手が溜まるようになっていて、そこで出番を待ったりします。
 この体育館は、袖から下に下りた部分から舞台の裏側が倉庫のようになっていました。また、裏側から体育館の外へ出られるようにもなっていました。そこで、下手(客席から見て左)の袖を下りた部分に衣装の一部。上手袖を下りたところと裏側までに小道具を。外に出たところに、テント(運動会でよく見る、家の屋根だけのような形をしたテントです)を二張り設置して、その他の衣装を並べたり、使わない三線を置くスペースとしました。
 今回は、雨の心配はありませんでしたが、雨の場合も考慮すべきです。

 今回お世話になった与那国中学校は、照明、音響とも、たいへんめぐまれていましたが、必ずしも恵まれた場所で発表会ができるとは限りません。
 演劇やコンサートのために造られた場所ならば、照明も十分準備されているでしょうけれど、学校の体育館などでは必要な照明を自分たちの手で造り出さなければならないことがあります。
 ある島で発表会をしたときには、踊り手の顔がどうしても暗くなるので、教室から「オーバーヘッドプロジェクター」(通称:OHP)を2台借りてきて、客席の左右から舞台に向かって当てたことがあります。スポットライトの代用品というわけです。また、ある島では、工事現場で使う投光器を使ったこともありました。そこにある物で工夫することが大切です。

 これで、会場の準備は一通りできあがったことになります。ここまでは、いわば演じるための「うつわ」の準備です。会場の準備と同時に、衣装など演目に直結した準備や作業もすすめます。つづいて、そのあたりを。
 舞台で演じることができるのも、それを支える人たちがいるからだ。なんて言われなくてもご存じですよね。では、支えてくれている裏方たちが、どのような仕事をしているのか。
 八重芸の場合は、表に出る部員たちが、裏方も兼任している(部員が衣装係や道具係をしている)わけですが、発表会では、すべての仕事を部員だけでカバーするのは無理です。そこで、OBたちの登場となるわけです。どのような仕事があるのか、ご覧ください。

衣装  衣装は、前日に衣装ケースから出して、ハンガーに掛けておきます。シワを伸す意味があります。アイロンがけをする衣装は、当日の朝からアイロンがけをスタートさせます。準備のできた衣装は、演じ手ごとに分類します。事前に演じ手の名前を刺繍してあることが多いようです。
 襦袢やコシタ(ズボン下?)は、個人で持っていることが多いのですが、舞台の途中で着替える場合もありますので、置き場所はきちんと決めてあります。
 ここまでは部員たちが衣装係を中心にすすめるわけですが、着付けや着替え、使用後の衣装の片づけなどは、OBがやります。
道具  舞踊の小道具や舞台上で使うその他の道具を点検します。不足していないことを確かめることはもちろん、破損していないか、危険はないかなど、きちんと調べ、それらを使いやすいように並べておきます。舞台は、始まると「ちょっと待った」ができません。ですから、使い終わったものをもとの場所に並べるべきか、別の場所に集めるべきかなど、舞台の進行に合わせて考えておきます。これも、部員たちが、道具係を中心に行う作業ですが、開演後はOBに手伝ってもらう部分もあります。
化粧
髪結い
 化粧、髪結いは、たいへん時間がかかります。今回も、朝食をとってミーティングをしてからすぐに髪結いを始めました。髪結いのできる人が大勢いれば時間を短くできるのでしょうけれど、それは望めません。
 髪結いをして、化粧をして、手足におしろいを塗って、衣装を着る。これだけの作業が、朝から夕方の開演時刻まで続きます。その合間に、舞台で最終チェック。休む暇はありません。
調弦  調弦は、使う本人が合わせればよい。という考えもありますが、きちんと合わせたければ誰かが責任をもって行うべきでしょう。また、演目ごとに調弦が違うことがありますので、あらかじめ合わせておくべき三線と、後から合わせ直さなければならない三線(=最初に斉唱で本調子、あとで二揚にして独唱に使う、といった場合)を区別したり、使い回すための表を作成するなど、工夫が必要です。
 笛と一緒に演奏する場合は、笛の奏者と音あわせをする必要があります。吹き手が変わると、同じCの笛であっても微妙に高さが違っていることが多いものです。実際に吹く人に吹いてもらって、音を合わせなければなりません。
 八重芸では、OBが2名程度調弦係として仕事をします。
進行
照明
音響
など
 これらの仕事は、部員には無理です。必ずOBがあたります。
 プログラムは決まっているわけですから、決まった通り順序よく演じていけば、自然に舞台は成功する。というのは、理想です。実際は、アナウンスを始めるタイミング、演奏開始の指示、舞台上の小道具の準備や片づけの確認など、今の状況を把握して的確に指示を出す人物が必要になります。八重芸の場合、OBが進行係として舞台の上手と下手に常駐しています。
 普通、上手進行係が全体の進行をします。下手は踊り手の準備を確認したり(踊り手は、普通下手から舞台に登場し、下手に去ります)上手と連絡をとりあって演じ手に必要な情報を伝えたりします。舞台が明るいときは、身振りで「次の踊り手の準備OK」などと伝えられるのですが、暗転の場合はそれができません。そこで、彼らはペンライトを持っていて、それを回したり振ったりすることで、お互いに連絡を取り合っています。
 彼らは、照明、音響担当者や、道具の出し入れをする係とも連携し、事前に綿密な打ち合わせを行います。簡単な台本も作成しています。その名の通り、舞台を進行させる重要な役割です。
会場
 ここまでは、すべて客席から見えない場所です。他に、会場を担当する人も必要です。
 会場係は、お客さんの様子を見て、危険がないように注意を払うことはもちろん、空席につめていただいたり、お年寄りをサポートしたり、不測の事態に即応できるよう常に気を配っています。また、舞台を見て照明や音響が適切に機能しているかも確認し、不都合があれば対応しなければなりません。特に、音響は事前に確認していても、お客さんがいないときに聞いた音と、お客さんが入った状態で聞いた場合とでは大きく変わることがあります。実際にどのように聞こえているかは、始まってからしかわからないものです。その点をチェックするのも会場係です。
受付  今回の与那国島での発表会は、入場料もチケットもありません。ですが、受付をおいています。島のかたから、寄付や差し入れなどがある場合、きちんとお名前をうかがって、お礼を申し上げ、部員達に伝える必要があります。今回は、島出身のOBが担当しました。

 発表会のために多くのOBが集まるのも、手伝うべき仕事があるからなんですね。もし、仕事がなーんにもなくても、「お客さん」という仕事が・・・

 この記事が、発表会を計画しているみなさんのお役に立てれば幸いです。




GO MOUTH HERE MOUTH 八重芸は眠らない
 琉球大学八重山芸能研究会。略称「八重芸(やえげい)」のことを、ページを割いて書くべきかどうか考えました。でも、私がここの出身ですし、いろいろな記事の中で八重芸が登場していますし、そのたびに説明するのは面倒ですし、説明しないのも不親切ですし。というわけで、まとめて書いておこうと思います。
 創立は、1967年。八重山民謡同好会として発足しました。名前の通り、いわゆる沖縄民謡(沖縄本島の歌)ではなく、八重山民謡を楽しむ会です。翌年、第一回発表会を行っています。
 当初、八重山出身者が故郷を想って集まった、郷友会的集まりだったようですが、その後活動が広がるにつれ、沖縄本島、宮古島出身者や県外出身の部員も増えていきます。留学生が部員となった年もありました。また、琉球大学の学生だけでなく、近隣の大学、専門学校の学生も部員となっています。
 部員=八重芸は「部」ではないので「部員」と呼ぶのは不思議な気もしますが、今までずっと部員と呼んでいます。
 2002年12月と2003年1月に行った「八重山芸能発表会」は第35回でした。
 左の写真は、第35回八重山芸能発表会パンフレットです。

 この間、八重芸が基本としているのは「島の芸能を学ぶ」ことです。

 「島の芸能」の意味について説明しなければなりません。
 八重山の歌にも、いくつかの流派があり、その流派に所属する三線教室(研究所)や舞踊教室(研究所)があります。それら流派の中で歌い踊られているものは、およそ石垣島の中で継承され、育てられてきた歌や踊りです。ここでは、先生(師匠・教師)が存在し、先生の正しい歌や踊りを学ぶという形がとられています。「小浜節」も「鳩間節」も、一人の師匠が教えてくれます。
 一方、八重芸の「島の芸能」とは、「小浜島の小浜節」や「鳩間島の鳩間節」です。その島の人たちが、島の中で守り育ててきた歌や踊りです。島の祭りのために、先輩が後輩に教えるとか、あるいは後輩たちが先輩の芸能を見聞きして覚えるという形で、ずっと継承されてきた歌や踊りなのです。島そのものが継承してきた芸能が「島の芸能」と言えるでしょう。
 もう一つ書いておかなければならないことがあります。それは、八重芸が歌と踊りだけにとどまらず、「棒術」「獅子舞」「狂言(寸劇)」「ゆんぐとぅ」などの民俗芸能も学んでいるという点です。これらは普通「研究所」が手を付けない分野です。

 八重芸は「島の芸能」を教えていただくために、八重山の島々を取材します。
 島の歌い手、踊り手のみなさんは流派に所属しているわけではありません。一人の師匠からすべてを学ぶ三線教室や舞踊研究所とはちがって、

 あの歌は、あのおじさんがよく知っている。
 その踊りは、こっちのおばさんがいいんじゃないの。
 それはうちが教えてあげるさ

というように、島の皆さんと交流しながら芸能を教えていただくのです。「島が師匠」とも言っています。

 取材は八重芸の命です。その取材も、ただメロディーや踊り方を教わるだけではありません。実際に島へ行って、交流することで島を知る努力をします。
 その意味で、もっとも大切な行事が「夏合宿」です。
 毎年、離島で約一週間にわたって合宿を行います。「歌と踊り漬け」の毎日を送り、技術の向上を図り、島の皆さんとの交流をします。(年に一度だけですので、部員が在籍している4年間毎年違う島へ行けるようにします=同じ島へ行く場合、3年以上の間隔を開けるわけです)
 たった一週間で、島の何がわかるのか?たしかに短い一週間で島のことを十分知り尽くすことはできません。しかし、この一週間が島を知る上で大切な一週間であることは間違いありません。録音や録画をする機器が充実している現在でも、実際に島へ行っての一週間は八重芸にとって、島の生活から学ぶ最も大切な時間です。
 そうそう、忘れてならないのが、最後の夜の発表会。島のみなさんへ感謝を込めて、教えていただいた歌や踊りを含めて、練習の成果を披露させていただくのです。

 そして、活動の集大成としての定期発表会があります。
 取材してきた芸能をもとに、舞台を構成します。年によって違いますが、多くの場合、一つの「テーマ」を決めて、そのテーマに沿って舞台を作り上げます。歌や舞踊、棒や狂言といった芸能はもちろん、家造りの様子を表現したり、雨乞いを再現するなど、一般の「発表会」とは違った、島の生活に結びついたものを作り上げてきました。(現在の島の生活とは限りませんけれど)
 発表会は、12月(沖縄公演)と1月(石垣公演)です。

 もう一つ、特徴がありました。普段の練習です。
 研究所で教わるという形をとらない八重芸は、「島が師匠」。とは書きましたが、大学の練習場では、師匠に会えませんので、先輩が後輩に教える。あるいは、お互いが教え合うという練習をします。師匠がいないといっても、和気藹々(わきあいあい=難しい漢字ですね)として、のんきな練習なんてとんでもない。師匠がいないからこそ、みんな自分に厳しいのです。OBも一生懸命手伝います。

 八重芸の説明は以上です。
 なんだか、とっても堅苦しいクラブみたいでしょう。でも、かれらも二十歳前後の学生たち。厳しい練習や取材の中で、楽しむことも忘れていません。今夜も、部室で飲んだり歌ったりしているはずです。勉強は、いつやっているんでしょうねえ。
 「八重芸は眠らない(1)」では、八重芸の特徴を書きました。よいことばかりで、問題点を書かなかったので、今度は辛口の批評を。

 とにかく、未熟です。八重芸に入って初めて歌や踊りを勉強する部員がほとんどです。卒業までの4年間。留年もあるのですが、八重芸は留年させてくれません。4年たったら、大学を卒業できなくても八重芸は卒業させられるのです。ですから、一番経験を積んだ部員でも、4年しかありません。しかも、舞台に立つのは4年生だけではありません。1年生も含めた全員が出演者なのです。未熟者の集まりと思われてもしかたないです。

 島が師匠。ではありますが、その師匠から教えられたことをどれだけ理解できているか。また、どれだけ継承し続けているか。これが疑問です。先ほど書きましたように「最長でも経験4年」の部員たちが、島の人々から教えてもらうときに、どれだけきちんと受け取ることが出来ているか。そして、4年で卒業してしまう彼らが、教えて頂いた芸能を次の世代にきちんと引き継いできているのか。あるOBが、「芸能の使い捨てになっていないか」と苦言を呈していましたが、これは胸に刻み込んでおかなければならない言葉だと思います。

 卒業してOBになっても、八重芸のサポートを買って出る者は大勢います。普段の練習につきあってくれたり、舞台のときには裏方に徹してくれたり、また、島へ取材に行くときには、いろいろと便宜を図ってくれたり。「どうしてそこまで面倒をみてあげられるの?」と首をかしげたくなるくらい、一生懸命なOBもいます。しかし、そのOBたちが、自分の生活の中で八重山の芸能にどれくらい関わっているか。残念ながら、多くのOBが芸能に関わらない生活をしています。
 沖縄県内でも「八重山の歌と踊り」は大変すばらしいと評価をいただいているにもかかわらず、それらを学ぶ場所はほとんど八重山に限られています。沖縄本島や県外にもありますけれど、琉舞(琉球舞踊)に比べると桁違いに少ないでしょう。多くの卒業生が、就職先を沖縄本島や県外に求める昨今、社会人になってから八重山の芸能と関わることが、非常に難しい状況にあるわけです。残念なことです。

 さて、3つの点について、八重芸を酷評(のつもり)してみました。でも、OBとしては最後にフォローをすべきでしょう。

 わずか4年間の在籍期間中、彼らは懸命に練習をして、島に通い芸能を学んでいます。アルバイトでもなく、「なんとか免許」のためでもなく、ましてや就職に役立てようというわけでもない。とにかく純粋に芸能に打ち込んでいます。たぶん、その姿勢が舞台に形となって現れるのでしょう。定期発表会は、毎回お客さんに満足して頂いているようです。

 彼らの親が舞台をみると、みな口をそろえていいます。
「すばらしい。まさか、あんなことが出来る子だとは思わなかった」
そして、その次の言葉が、
「でも、勉強はしているのだろうか・・・」
 お金にもならない(どころか、取材などの費用は全部自腹です)し、勉強はそっちのけになるし、冷静になって考えてみると、ずいぶん「損」しているみたいですけれど、それでも情熱を損なわずに芸能に打ち込んでいる。そういう熱い人たちの集まりが八重芸です。

 そう、OBにだってがんばっている人がいます。東京に就職しているOBたちは、むこうで時々集まって芸能を楽しんでいるそうです。余興の依頼もあると聞きますし、OBが結婚式を挙げたときには、歌と踊りを披露しているようです。他のOBも、きっと12月になると発表会のことを想っているはずですし。日常的に八重山の芸能と関わることはなくても、心の中にはいつも八重山の芸能と八重芸がある。ということですよね。

 辛口のつもりが、やっぱり甘いですねえ。