マジックは楽しい | |||
派手な衣装を着た女性は、右手を高々と上げて観客に挨拶をし、舞台中央に置かれた棺桶のような箱の中に横たわります。黒いマントのマジシャンは、一度客席を見渡して、片方の眉を少し上げてから箱を閉じ、ご丁寧にカギまで掛けてしまいます。箱の右側からは女性のつま先が、左からは女性の頭が出ています。鍵のかかった箱に閉じこめられ、身動きができないという状況にありながら、なぜか笑顔の女性。 箱の向こう側に回ったマジシャンは、左右の手に大きな金属製の板を持ち、その板を高く掲げて打ち合わせ、金属音を観客に聞かせます。そして、箱の中央に、一枚の板を差し込む。そこは女性のウエストのあたりです。胴体は真っ二つ?でも、女性は笑っている!マジシャンはさらにもう一枚の板も同じ場所に。そして、こともあろうか、二つに切断された箱を左右に引き離します。ああ、女性の体はどうなってしまうのか。 どうもこうもなりません。このあと、ちゃんと元通りになります。不思議ですねえ。 最近、テレビでマジックをよく見るような気がします。上に書いた「美女切断」のような大がかりなマジックではなく、テーブルマジックと呼ぶのでしょうか、カード(トランプ)やコインを使ったマジックで、お客さんはそれを至近距離で見て楽しみます。昨日もテレビで見ました。鮮やかな手並み。見ていて楽しいですよね。 マジックを見ていて、「どうして?」と呟く人がいると思います。その「どうして?」には二つの種類がありますよね。 一つは、「どうしてか?」を考える人です。マジックですからタネがあります。そのタネを見つけようとする人です。「どうして」と言いながら、眉間にしわを寄せています。ときには、「あ、見えた。あそこに隠してた」なんて、鬼の首を取ったように叫んだりして。 もう一つは、「どうして?」と不思議がり、それを楽しむ人です。タネを見つけようとしているのではなく、驚いて、感心したときに「どうして?」が口から出てしまうのです。口をぽかんと開けて、そして笑ってしまいます。 私は、マジックの楽しみ方としては後者の方が正しいと思っています。
「あれは、簡単なことなんだ。右手にね・・・」 なんて、小鼻をふくらませて説明してくれる親切な人がいたら、私には迷惑な話でして。 とか書きながら、もし隣の人が解説をし始めたら、間違いなく聞き耳を立てるでしょうけれど。 で、ふと、三線や舞踊のことを考えました。マジックならば、素直に楽しめるのに、三線や舞踊の舞台を見たときはどうでしょう。 「うーん。調弦がちょっと」 「声が上がりきってないよね」 「衣装よー、ちゃんと着ろよー」 「あ!今、手を間違えたよ」 私自身、こんなことを呟いているんだろうなあと思うんですよ。とても、楽しもうとしている人の言葉ではないですよね。 これだけではありません。傍らの人に、ついつい、 「この踊りは、島のお祭りで演じられるのですが・・・」 「ここで、〈九〉まで声が上がるんですよ」 「島では、この部分が別の歌詞になっていましてね」 なんて、知ったかぶりをしてしまう。きっと迷惑かけています。 不思議なマジックも、素晴らしい歌や舞踊も、素直に楽しめるような心で見ていたいです。 ところで、沖縄らしいマジックってのは、無いのでしょうかね。 ※ボールの代わりにサーターアンダーギーを使って。 指の間に挟んだ一個のサーターアンダーギーが、二個、四個・・・。 (指が油で滑ってやりにくいかな) ※ハトの代わりにヤンバルクイナ まるめたハンカチの中から、ヤンバルクイナが出てくる。 (本物は使えないでしょうね) ※ロープの代わりにハブ 二匹のハブを結んで、おまじないをかけると一匹になる。 (命がけ?) ※ステッキの代わりに三線 赤いハンカチを一振りすると、三線になり、その三線を演奏していると、手から離れて空中を漂う。しかも、音を鳴らしたまま。 (BGMも兼ねて) そして、最後は、一瞬にして米軍基地が消えてしまうイリュージョン? |
歌い方と聞かせ方の違い | |||||||||||||||
学校給食を、高級食器に盛りつけると、レストランの味がした。 この事実から、2つのことが学べます。 一つは、料理は料理そのものの味も大切だが、盛りつける器も大切だ。 もう一つは、学校給食って、けっこうおいしい。 歌そのものが大切なことはだれでもわかります。それをどう盛りつけるか=どう聞かせるかということも大切です。 歌い方は一生懸命勉強します。 聞かせ方は?勉強しにくいです。 この場合の聞かせ方とは、一つの曲の聞かせ方と、一つの舞台をどのように作り上げていくかということの二つの意味があります。 コンサートやライブをやっておられる人は、聞かせ方が上手いと思います。私はあまり人前で歌ったことがないのですが、私なりの「聞かせ方」についての考えを書いてみます。 あ、そうそう。「聞かせ方」という言葉は少々強引に聞こえるかもしれませんけれど、気持ちとしては「聞いていただく方法」といったものですので。 たとえば、『鷲ぬ鳥節』を歌うとしましょう。お祝いの席で、踊り手がいて、プログラムの何番目かということまで決まっているのでしたら、聞かせ方など考えず、順番が来たら歌えばよいことです。では、『鷲ぬ鳥節』をほとんどしらない人ばかりが集まっている場所で、どういうわけか『鷲ぬ鳥節』を歌うことになったとしたらどうでしょう。 「次の曲は、鷲ぬ鳥節です」 と、突然歌を始めたら? お客さんは、聞いてくれるとは思いますが、はて、どのような気持ちで聞けばよいのか。とまどうかもしれませんよ。今は文字を見ているから「鷲」だとわかるでしょうけれど、言葉を聞いただけですと「え?バスィ?どこの?琉球バス?」なんてことも。 まったく何の知識も与えず、歌そのものを感じてもらおう。という考えもおもしろいですけれど、お客さんの立場になってみると、それはあまりにも不親切です。 「この曲は、鷲が・・・」 と説明してくれれば、たとえ歌詞の意味まで理解できなくても、聞き手は少しわかったような気分で聞けます。さらに、 「鷲って、ご存じですよね。八重山にはカンムリワシっていうのがいまして、・・・」 と、そうですね、カンムリワシの写真か何かを見せてくれれば、もっと嬉しい。 「扇子を持って踊るんですよ。私も去年結婚式で踊りました。姉が結婚したので・・・」 てな話を持ってくればもっと楽しい。まあ、長すぎるのはいけないでしょうけれど、歌にまつわる話というのは、歌の歌詞以上に歌をわからせてくれることがあるものです。 『時代の流れ』なんかも、説明をつけるのとつけないのとではお客さんの反応が全然違ってくるでしょうね。説明の仕方で、滑稽な歌にもできますし、メッセージを込めた歌にだってなりえます。 一つの歌を歌うために、説明を加えるとそれだけ時間がかかるわけです。ですが、歌だけを聴かせるよりも、説明つきの方がお客さんは短く感じるかもしれません。考えてもみてください。意味のわからない曲を、一番だけ聞くならともかく三番まで聞かされたとしたら、飽きてしまいますよね。 歌を聞くというのは、その歌のもつ力と歌う人の力を聞くと言えるわけですが、実際は、聞き手の知識や経験によって、歌から感じるものが変わってくるのですよね。ですから、あらかじめ歌い手が聞き手に、ある程度の知識を与えて素地を作っておくことも大切なのだろうと思います。 親切心で、歌を短くすることも考えられます。友人が「独唱は、腹八分がいい」と言っていました。腹八分というのは、聞き手の「腹」だと考えた方がよいでしょう。「もうこれ以上聞きたくない」というほど聞かせるのではなくて「もう少し聞きたいな」という程度にしておく。と解釈できます。 この言葉は、正しいと思います。ですが、私はあまり短くしてしまうのは良くないと思っています。先ほどの話と矛盾するのですが、飽きられてもいいから、しっかり歌う。というのがいいなと、最近思っているのです。 これは、たぶん歌う本人の問題なのでしょう。 「どうせ相手はわからない。全部歌っても飽きるだけだろう」 と、短くして歌うような歌は、ダメなんですよ。普段歌われている歌詞を最後まで歌いきってこそ、その歌の価値が相手に伝わると考えた方がよいと思います。 だからこそ、聞かせ方に工夫が必要です。最後まで歌っても、聞き手に飽きられないように。できれば、いい歌だなあと思われるように。 さて、一曲を歌う場合でも、このようにいろいろ考えたいことがあるわけですが、これが舞台ですと、数曲を組み合わせてお客さんを喜ばせるわけですから、考えるべき事はもっとたくさん。でも、それが楽しみだとも言えますね。 |
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【曲の構成】 歌や演奏の技術がうまくなることは大切ですが、それをどのように聞かせるかということも大切です。という話から始まった「歌い方と聞かせ方の違い」です。 ここまでは、一つの曲を聴いてもらう場合にも、解説の有無、あるいはその内容が歌を聞く人の気持ちを変えてしまうという話でした。次は、曲の並べ方=構成について考えます。 どの曲を聴かせるか。どんな順番で並べるか。だれが、どの曲を歌うか。発表会のプログラムですね。 最後はカチャーシー。と決めている人も多いと思います。また、見に来るお客さんもそのつもりで身構えているかもしれません。でも、私はあえて言いたい。 「カチャーシーは、最後だから踊るのではなく、踊りたくなったときに踊るものだ」 最後にならなくても、踊りたくなれば踊ってよいのです。ですが、途中で踊られてしまうと「あら、もう終わり?」と思われるかもしれませんので、ちょっとやりにくいでしょうね。最後にカチャーシーをやって締めたいと考えるなら、最後に踊りたくなるような構成にするべきですね。 では、どのような構成がよいのでしょう。 徐々に、盛り上げて、最後に最高潮に達する。というのが理想でしょう。 静から動 緩から急 低から高 これが基本です。 さらに、全体の流れとして、「導入 展開 まとめ」という、まるで授業のような構成を考えましょう。 導入=「つかみ」です。最初に、お客さんの心をぎゅっとつかんでおきたいです。先ほど、「緩から急」などと書きましたが、これは全体の話です。部分的に見たときには、また少し話が違ってきます。特に、導入ではあまりゆっくりした曲よりもややテンポのよい曲が良いと思います。あるいは、人数の多い演目とか、人目を引くような小道具を使う物、だれでも知っている曲などもよいでしょう。お客さんが「お、おもしろいな」「なかなかやるねえ」と思ってもらえるような「つかみ」にしたいです。 展開=やりたい曲をやる。ということでよいと思います。1時間程度の舞台ですと、曲数は10曲までです。導入とまとめをのぞけば、5曲から7曲というところでしょうか。 まとめ=カチャーシーで締めるとします。踊り始めるまでの勢いづけに一曲ほしいところですので、まとめは2曲ないし3曲としましょう。 実際にやってみた人はわかると思いますが、カチャーシーで終わるというのはけっこう落ち着かないものですよ。経験のない人も想像してみてください。みんなが立ち上がって踊る。音楽が終わる。拍手がわき起こる。これでおしまい、という気持ちになっていますか?なんだか終わったのかどうかわからないような気分でしょ。これが、八重山の宴会ですと、モーヤー(カチャーシー)の後に『弥勒節〜やらよう節』という、宴会をお開きにする曲がありますので、『弥勒節』になればお客さんは確実に終わった気分になってくれます(八重山ならば)。 『弥勒節』のない舞台なら、アンコール曲を考えてもいいでしょうね。また、八重山でも、アンコール曲を考えているのであれば、弥勒節はアンコール曲を歌ってからにする方がよいかもしれません。 次に、演じる人数によって、どのような展開が考えられるかを簡単に書いてみます。
舞踊やエイサーなどが入ると、展開の仕方もいろいろな工夫ができますね。 ここに書きました「導入〜展開〜まとめ」の形式は、お客さんに「ここから展開です」と伝えるものではありません。構成を考える側の、便宜上の区分です。 舞台が2時間近く、あるいはそれ以上かかる場合、プログラムの途中に休憩を入れるべきでしょう。そうすると、全体としての「導入〜展開〜まとめ」を考えると同時に、前半=第一部の「導入〜展開〜まとめ」と、後半=第二部の「導入〜展開〜まとめ」というものも考えるべきだと思います。つまり、前半最後には、前半のまとめになるような曲をもってきたいですし、後半の最初の曲は、後半の導入となるような曲を考えるべきでしょう。 演目を思いつくまま並べることでも、プログラムは完成するでしょうけれど、漠然と組み立てるよりも「導入〜展開〜まとめ」という形式を頭に入れて組み立てることで、よりまとまりのある舞台に近づけることができると思います。 【テーマ】 グループの場合はテーマ曲をもっておられる場合もあるでしょう。グループ結成のときに、最初に練習した曲がテーマ曲となり、舞台のときは必ずこの曲を最初に演奏すると決めているとか、あるいは、この曲に感動した人たちが集まったグループだとか。 このような曲を効果的に入れること(効果的な解説を入れるなど)で、メリハリといいますか、舞台が締まった感じになります。 また、その舞台にテーマを決めて、プログラム全体(あるいは一部)を統一するというのも、まとまりのある舞台にするには効果的でしょう。たとえば、「二部は、動物をテーマにしてみました」で、動物に関わる歌を集める。すると、お客さんは「次は、どんな動物が出てくるのか」と期待してくれるわけです。ただ歌を並べるだけよりも、聞き手にとっては楽しい舞台になるはずです。 このように、テーマを考えると構成にまとまりが出てくると思います。 |
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演目を決めることと同時に、それぞれの演目について、どのような見せ方、聞かせ方をするのかを考える必要があります。 どの演目も、同じ人数、同じ楽器、「解説→演奏」という同じパターンではおもしろくないでしょうね。楽器を加えたり、衣装に変化をつけたり、照明や幕の使い方も工夫するとおもしろいものです。
これらのことを十分に考えて、もう一度プログラムを考え直します。特に、出演者の多い大がかりな舞台の場合、実際の人の動きを考えてみると、プログラムの組み方で衣装の着替えが間に合わないところがでてきたり、マイクの準備に手間取ることが想像されたりと、いろいろ不都合が出てくるものです。そのような点を解決しながら、プログラムを完成させていきます。 さて、頭の中で舞台はできあがりました。でも、実際に発表会をするとなると、舞台以外にも考えることがたくさんあります。次回はそのあたりについて書いてみるつもりです。 |
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発表会をする。そのために、プログラムを考え、歌や踊りの練習をする。のはあたりまえ。舞台を作り上げる時には、演じる内容を充実させることはもちろん、その他にもやるべき事がたくさんあります。 ☆計画と準備 ○役割分担 全てを一人でやる。というのも悪くありませんが、仲間がいるなら、舞台に立つ事以外の雑用も分担すべきでしょう。そのほうが、舞台をやり遂げたときにみんなの達成感をアップさせられます。 逆に、何でも全員で取りかかるというのも無理があります。役割を分担して、それぞれについて責任をもってもらう。責任者だけでは負担が大きいと感じたら、そのときにはあなたが手伝いに行く。といった形がよいでしょう。 役割については、以下に書かれている項目が目安になると思います。 ○予算 どうやってお金を集めるか。 チケット収入とプログラムに載せる広告収入が一番大きいはずです。 ところが、この二つですべての費用をまかなえるように金額設定をすると、高すぎるチケットになるかもしれません。ここでは、プロの舞台を想定していませんので、「できるだけ多くの人に見ていただき、楽しんでもらいたい」という趣旨ですから、チケットは安くしたいですよね。 当日にお祝いをいただける場合もありますが、隔日ではありません。 そうすると、自己負担も覚悟することになりそうです。予算を考える場合は、収入を増やすことよりも、支出を減らすことに重点を置くべきかもしれませんね。 ○会場の選定 ストリートライブでもないかぎり、会場を押さえる必要があります。(ストリートライブでも、場所の選定は重要ですが)サークルの定期公演ですと、今年の舞台が終わった時点で、来年の予約をするという形になるでしょう。 商業目的ではないでしょうから、会場の選定は、出演者の都合で決めることになるでしょう。集客力(何人くらいのお客さんを集められるか)に合わせた広さ、出演者の職場や居住地域からそれほど遠くなくて、使用料の安いところ。といった条件が考えられます。他に、 1,会場の使用料の他に、照明や音響、空調が別料金になることがある。 2,会場でスタッフを用意していただくのか、主催者側がスタッフを用意するのかを確認する。 3,使用できる楽屋の数と広さ、道具搬入の時間と置き場所の確認。 などにも注意が必要です。 舞台の広さも気にしたいのですけれど、一般的な民謡や舞踊の発表会ならば、それほど広い場所は必要ありません。むしろ、狭いくらいの方が見やすいものです。 ○演目と出演者 誰が、どの演目に出演するか。プログラム決定と同時に決まればよいのですが、準備の段階で出演者の入れ替わりや、衣装の問題(着替え)、個人の負担の軽重によって変更することも考えられます。 ○外部との連絡、連携 協力していただいているみなさんとの連絡ですが、協力とはどのようなものなのでしょうか。 他団体に、共演を依頼する場合もあるでしょう。三線教室の発表会で、「舞踊をあの研究所にお願いしよう」ということはよくありますね。 プログラムの中に「広告」を出していただくこともあるでしょう。広告代をいただく、というとなんだか「宣伝してやっている」ように聞こえますが、実際は「寄付をしていただいた企業やお店の名前を載せさせていただく」と表現する方がいいかもしれません。 他に、「○○協会」といった団体に所属しているのであれば、上部団体との連絡も必要です。 本番当日の受付や照明、着付け、ビデオ撮影など、お手伝いをしていただく場合には、その人たちとの連絡も必要です。 ○プログラム・チケット・ポスターなどの準備 印刷会社を決め、予算の見積もり、原稿の受け渡しの期限など、決めておきます。プログラムは、当日までに間に合えばよいとも言えますが、ポスターとチケットは、宣伝や招待状にも使いますので、できるだけ早く作りましょう。発表会の一ヶ月前までには完成させておくべきでしょう。それでも遅いくらいかも ○招待状 招待状を送る場合は、チケットも同封することが多いと思います。そのためにも、チケットは早めに作っておくことが必要です。 招待状を送る相手には、無料でご覧いただくという気持ちがあるわけですが、招待された人が「寸志」などの名目で寄付をしてくださる場合もあります。その点を考えても、あまり招待状を乱発するのは慎むべきかもしれません。 ○宣伝 沖縄の歌を発表するのですから、沖縄関係の場所で宣伝を。 飲食店では、発表会のポスターをよく見かけますね。その中の一枚として、あなたのポスターも。 案外難しいのが、チケットの販売方法です。ポスターを見た人が興味をもってくれても、どこでチケットを購入してよいか分からないのではこまります。ポスターを貼らせていただいた飲食店にチケットを置かせてもらうか、ポスターの中にチケット購入時の連絡先を記入しておくべきでしょう。 ○練習場所の確保 歌だけですと、音の問題だけを考慮すればよいわけですが、舞踊のことを考えると、ある程度の広さと鏡が必要です。発表会場が、いつも使えるのでしたらそれが一番よいのですが、普通は当日だけか、その前に一度リハーサルで使うという程度になると思います。 地域の公民館や公共の施設を探せば、料金も安く(無料の場合も)すませることができるかもしれません。 ○練習時間の設定 社会人の場合は、毎日練習するなど無理な話。少ない回数で効率的な練習をしたいものです。とはいえ、短い時間では練習の内容にも限界があります。何度も足を運んで集まるよりも、回数を少なく、時間を長くというのがよいでしょう。あとは、「自主練習」ということにしておきます。 ☆本番当日 一日のスケジュールを決めておきましょう。 集合時間、舞台上の準備、時間があれば舞台合わせ(リハーサル)も。片づけて開場を出る時間も確認しておくことが必要です。 ○リハーサル リハーサルの日を設定できればよいのですが、予算や時間のことを考えると難しいです。結局、発表当日の本番前ということになるでしょう。 リハーサルは、本来、歌や舞踊のチェックをする場ではありません。実際に動いてみて、問題があるかどうかを確かめる場です。同時に、出演者以外のスタッフも自分の仕事を確実にこなすために点検していきます。練習ではないということを念頭に置いておきましょう。 ○打ち合わせ リハーサルの前に行うべきでしょう。スタッフとの打ち合わせ、出演者の打ち合わせなどです。舞台に慣れた人にはあたりまえのことが、初心者にはまったくわからないということもあります。「出番のないときは、ここで待つこと」「自分の出番の前に下手に集合」「舞台の袖では静かに」といった話から、着付けや髪結い、舞台のスタッフのみなさんへの挨拶など、細かいところまで配慮し、出演者全員に徹底することが必要です。 あとは、本番を待つのみです。 ○撤収 会場を使用できる時間は決められているはずです。その時間内にすべての片づけをします。 ○打ち上げ 集まって、飲む。ただそれだけでもよいわけですが、司会進行を置いて、お世話になったみなさんへの感謝の場としたいところです。 また、本番直後に打ち上げをする場合、舞台で使った衣装や道具類の片づけ場所を事前に確保しておく必要があります。 ☆総括 ○決算 予算通りにいくことはめずらしいものです。赤字ならば、出演者で負担するとか、黒字ならば、その黒字分をどのようにするか。事前に決めておくべきでしょう。決算報告は、迅速確実に行うべきです。 計画時には気づかなかった出費も、あとから分かる場合があります。出演者や関係者が個人負担していることも考えられます。たとえ小さな金額でも、きちんと経費に入れてみんなが平等に負担するよう心がけます。 ○お礼状 お世話になったみなさんへ、お礼状を送ります。広告を出してくださった方、祝儀(寸志)をいただいた方にもお礼状を送ります。 ○反省会 打ち上げは当日。しばらくしてから、反省会をもつといいでしょう。といっても、暗い話ではなくて、楽しい思い出を語り合える場所を作りましょう。当日のビデオや写真を見ながら、本番当日の打ち上げとはまたちがった雰囲気で楽しめると思います。その場で、次の発表会の話で盛り上がるかも。 |
心がないとは心ない | |||||||||||||||||||
「形だけ真似して、心がないんだよ」 歌った後、こんなふうに言われたらショックでしょうねえ。 「心がない」という言葉は、『言った人=攻撃する人』『言われた人=攻撃されている人』ですから、攻撃されている方がかわいそうに見えるのですが、実は言っている人の方がよほどかわいそうだったりするかも。 ちょっと横道へ逸れます。
お話を戻します。 「歌に心がない」と言われたときに、考えるべき事は「心」ではないのかもしれません。まだ歌が十分ではないということだと思うのです。とても簡単な説明をすれば、「まだ沖縄の(あるいは地元の)人ではないことがわかってしまう程度の歌」だということです。つまり、練習が足りないということです。 歌が完璧なのに。あるいは、歌を聞きもしないで、「沖縄の人じゃないから歌に心がない」と言った人がいたら。それって、「外国人に嫉妬する私」に似ているかもしれません。だとしたら、言った人は恥じ入るべきでしょう。で、私としては、そう言いたくなる人の気持ちもわかってあげてほしいなんて思うわけです。 練習に練習を重ねて、何度も何度も歌を聞いていただいて、人間関係ができた上ですばらしい歌が歌えたときには、「心がない」と言った人からも「他の人はともかく、君の歌には沖縄の心があるねえ」なんて褒められる日がくるかもしれません。 最後にもう一つだけ。私は「完璧に沖縄の人のように歌える人」だけが三線を弾く資格があるなどとは思っていませんよ。どんな楽しみ方があっても良いと思っていますから。
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お辞儀ができない | ||||||
「舞台上で演奏が終わったら、何と言いたいですか?」 あと3行でこのお話をまとめることもできるのですが、もう少し引っ張らせてください。 「舞台」という文字を見て、頭の中で自分の位置を考えます。客席にいますか?舞台上の演奏者として考えていますか?このページをご覧の方は、演奏者の側に自分の姿を想像しているのではないでしょうか。 発表会でもコンクールでも、舞台に立つときには演奏以外のこともいろいろ気になりますよね。舞台慣れしている人なら、舞台の常識のようなものが身に付いていて、気にならないようなことでも、初舞台の人ですと些細なことまで気になるものです。
「落ちつきましたか」 「はあ・・・多少は」 「では、出番まで楽屋でゆっくりと休んで、お弁当を・・・」 「ああー!」 「ど、どうしました?」 「あの、お、お、お辞儀って、何秒するんですか?」 笑えました?笑いながら「自分もそうだったなあ」って、思いだしていませんか?「右足から歩くか、左足からか?って聞かないだけマシだと思った」とか? さて、お辞儀。何秒しましょうか。 一人で舞台に立って、一人でお辞儀をするのでしたら、2秒でも3秒でも問題ありませんよね。10秒もやられますと「あれ、眠っちゃった?」と心配されるかもしれませんけれど。まあ、気の済むまでお辞儀をしていればよろしいでしょう。 4〜5名ですと、目の隅っこで他の人をとらえていたり、衣擦れの音だとか空気の動きだとかでわかるものです。きれいに合わせられます。 10名くらいになりますと、難しくなります。 「真ん中の人に合わせて」って言うと、真ん中から両端へ順々に体が折れ曲がり、また真ん中から両端へ順々に顔が見えていく。そんなことになります。 そこで「お辞儀してから、3秒かぞえて、頭を上げる」といったルールを決めるわけですが、「イチ ニッ サン」と数えるか「いーち、にーい、さーん」と伸ばすかで変わってきますし、「あのー、サンと同時に頭を上げるんですか?それともサンを言ってからですか?」なんて、古いコメディーのようなことを言う人も出てきます。それでも何度か練習すれば、きれいに揃えることはできますが・・・ 邦楽の三味線店の店主が、こんな話をしてくれました。 舞台のリハーサルを見に行くと、舞台上での作法を知らない人が多いのに驚かされます。誰にだって初舞台はあるわけで、知らないことがあるのはしかたないかもしれません。でも、お辞儀の仕方もわからないのは困ったものです。「演奏が終わったときのお辞儀は、何秒ですか」なんて、真顔で聞かれることがあるのです。そんな時には、こちらから尋ねるんですよ。「誰に向かってお辞儀をするのですか」って。すると「お客様です」と答えます。「そのお客様に、どんな気持ちでお辞儀をするのですか?」 「感謝の気持ちです」 「感謝の気持ちを表す言葉は?」 「ありがとうございました」「だったら、頭を下げて、心の中で『ありがとうございました』を言って頭を上げればいい」そう言ってあげると「ああ、そうかあ」って納得してくれます。 これには、参りました。芸能をたしなむ人ならば、その芸に「心を込めなさい」と言ったり言われたりしているはずです。なのに、演奏後のお辞儀をしているときには「やっと終わった」「あそこを失敗した」「よし、今日はよかったぞ」「えっと、次の出番は」とお客さんへの感謝の気持ちはどこへやら。自分のことで頭がいっぱいだったりします。お辞儀を揃えるために「イチ ニッ サン」なんて、もってのほかですよね。
テレビで、作法の先生がこのようなことを言っていました。舞台でも社会でも、同じことが言えるかも知れません。舞台に立つ人は、その動き一つ一つの意味を考えてみるのも良いでしょうね。 |
足下を照らしたい | ||||||||||||
三線の話とは少し違うのですが、是非ここに書いておきたい話が二つありまして。一つは、京都にお住まいの三十代(だと思います)の男性のお話。もう一つは、やはり京都にお住まいの三十代(ですよね?)の女性のお話です。 男性のお話。 三線がきっかけで、お付き合いが始まりました。我が家へはときどき遊びに来てくださいます。2006年の4月のことでした。泡盛を楽しんでいただきながら、三線談義。そして、話題はお祭りへ。 「実家の方にお祭りがありましてね」 現住所もご実家も京都なのですが、少し離れているそうです。といった細かいお話はともかく、その祭りの話です。 京都。祭り。とくれば、日本はおろか世界的に有名な祇園祭。ですが、男性のおっしゃるその祭りは、その地区だけで行うものだそうです。有名なお祭りは、もちろんすばらしいのでしょうけれど、その地域の人たちが地域の人たちのために受け継いできたお祭りというものに、祭り本来の意味がある。そう考えている私などは、男性の話に興味をそそられてしまうわけです。 「お祭りですか。踊りなんかもあるんですか」 「あるんです。でも、曲はテープを流すだけで」 実はこの男性、昨年の夏に八重芸の練習を見学されまして。 (なんと、この男性は2005年の八重芸部長の親戚にあたる、ということが、八重芸の練習見学の後にわかったのです。恐ろしいほどの偶然です)その時、地方(じかた)と踊り手が生き生きと活動しているのを見て、感じるところがあったらしいのです。地元の祭りも、生演奏ならどんなにすばらしいだろうと考えておられる。なるほど。
「お祭りの楽器はこちらのお三味線なんかを使うのでしょう?」 「そうです。私ができればいいなとは思うのですが・・・教えてくれません?」 「私?だめですよ。私は習ったことないですし、弾いたこともないですから」 「そうですよね。三線とお三味線は、ずいぶん違うんでしょうね」
小さな祭りですけれど、地域の人の気持ちのこもった、大切な祭りだそうです。地域のために、地域の人たちのために、何かをやりたいというこの男性の気持ち、すばらしいですよね。三線に触れて、沖縄の文化に触れて、八重芸と関わったからこういうことを考えるようになったのだともおっしゃいました。
まだ何も手を付けていないけれど、やってみたいという気持ちは大きくなるばかり。そんな話を聞きいていた私は、気が付いたらずいぶん無責任なことを言っていました。 「本気でやろうと思っているのでしたら、今日、家に帰ってすぐにでも取りかかるべきです」 「え?すぐにですか?」 「そうですよ。来年とか、いつかきっととか、そんなことを言っていてはいけません」 「はあ」 「他の人がやってくれると思います?あなたしかいませんよ。すぐにやるべきです」 「はい」 「今日、こうして話をしたのが良い機会です。帰ったらすぐですよ。行動してください」 私の勢いにちょっと驚かれたようですが、我が家を後にするころには、男性の頭の中にはこれからの行動計画がある程度できあがっていたようです。 その後、音源の確保、お三味線の入手。指導してくれる師匠探しと、着実に一歩ずつ前進しておられる様子を、その都度メールで伝えてくださいました。 そして11月2日に、こんなメールが届きました。
私は、このような返事を出しました。
だれにでもできることではないと思います。心から、応援いたします。 続きまして、女性の話。 こちらは、先週我が家へいらしたときの会話からです。 「三線を始めたことで、人との繋がりが広がりました」 その、三線を始めたきっかけというのがおもしろいのです。あるとき川辺で三線を弾いている人に遭遇。その人から手解きを受け、三線の魅力を知り、とうとう三線を購入するに至ったとか。 もともと人見知りをするほうで、初対面の人と話をするのも気後れしてしまうし、自分から関わりを持とうと行動をおこすこともめったになかった。という言葉を信じないわけではないのですが、その口から出てくる言葉は、先日、外国人と知り合ってみんなでバーベキューをしたとか、サンタの格好で走る会にかかわっているのだとか、最近は驚くような話題をいくつも提供してくださいます。「三線を外国の人に見せて、聞かせて、広めています」というのも、あながち大げさな話ではないようです。以前の「人見知り」が事実であったなら、劇的な変化ですよね。 そして、この日はもう一つ驚かせてくださいました。 「こんなことも始めたのですよ」 手帳を分厚くしたような、あるいは、大きめの「単語カード」のようなと表現すればよいのでしょうか。ノートのように閉じられたものが私の前に。開いてみますと、数字と記号と言葉が縦書きになった、不思議なページが並んでいるのでした。その中に、はっきりと読める漢字が。 「女鉾・・・ですか?」 「はい。本当は笛をやりたかったのですけれど、鐘になりました」 祇園祭といえば、山鉾(やまぼこ)巡行です。絢爛豪華な山や鉾は、動く美術館と形容されるほどです。特に興味をもっているわけではない私でも、毎年テレビのニュースで流れてくれば、「山鉾(やまぼこ)巡行」といった言葉やコンチキチンのお囃子くらいは聞き覚えがあります。 で、先程の不思議なページは、お囃子の「楽譜」なのでした。コンコンチキチンなどと表現される祇園囃子。お祭りに参加できるのは、以前は男性だけだったようですが。 「女性の鉾ですか」 「はい。練習しているんですよ」 こちらも、。三線を始めて、地元のことも考えるようになったのだそうです。三線がきっかけではありますが、御本人に行動する意思がなければ行動できないわけでして。ますます「人見知り」が信じられ・・・いえ、良い意味で「人が変わった」としか思えないですよね。 新聞社のHPを調べましたら、2006年7月30日の読売新聞にこんな記事が。
おいおい、100年も待てないぞ。と言いたくなりますが、認められつつあることは確かなようです。参加者が広がり、認める人が増え、早く巡行が実現することをお祈りしております。 それにしても、このお二人の行動力。頭が下がります。尊敬しています。 |
芸を受け取るだけじゃない | |||||
「で、どうでした?できてました?」 コウエンが身を乗り出して私に尋ねたのでした。 大阪の、私の家です。彼がまだ、大学を卒業したばかりの春、彼の実家のある大阪で就職活動をしていましたが、いよいよ就職先も決まり、我が家に報告がてら遊びに来たのでした。 私は、この一週間ほど前に沖縄へ行って、八重芸の練習を見てきたのです。コウエンは、私に彼らの「与那国の棒踊り」の出来映えをたずねているのです。卒業したばかりのコウエンには、後輩達の様子が気になって仕方ないのです。 「よくがんばっていたよ。ただねえ・・・」 2003年の八重芸夏合宿は与那国島です。合宿の締めくくりとして、発表会を行うのは例年のこと。ですが、今度の夏合宿発表会では、「与那国の棒踊り」を舞台にのせます。 八重芸が、棒術などの民俗芸能を舞台にのせることはめずらしくありません。異例なのは、それが夏合宿であることです。12月の発表会を待たず、夏の段階でお客さんに見ていただくことは少ない。私の記憶では、これまでに一度しかありません。 その一度というのが、コウエンたちの波照間島合宿でした。 私は、その波照間合宿を見ています。たしか、発表会の前日に島へ行き、練習の様子も見たのでした。八重芸の夏合宿は、「夏」「離島」「学生」といった言葉から連想する開放感とは無縁です。それは、日程を見ればわかります。 彼らの日程は、朝食を食べて、歌や踊りの練習を開始。三時間ほどして昼食。わずかな昼休みの後、午後の練習が夕食の時間まで続きます。夕食後は、練習メニューは組まれていなかったと思いますが、それは「個人練習」のためでした。 これだけでもずいぶん辛いはずなのですが、この年の波照間合宿は、違っていました。 午後9時ごろ、島の男性数名が、合宿をしている所へ来てくださいました。部員に尋ねました。 「明日が本番ということで、今日は島の人がチェックしてくれるわけだな」 「いいえ、違うんです。毎晩こうして、教えてくださっているんです」 「なに!毎晩!!」 二つの驚きでした。 一つは、島の人が毎晩こうして教えてくださるということ。昼間のお仕事でお疲れでしょうに、八重芸のために時間をさいて、しかも、大勢の人(私の記憶では十名ちかく来られていたと思います)が集まってくださっている。本当にありがたいことです。 もう一つは、八重芸の棒術メンバーのこと。歌の練習や踊りを一日中やって、この時間から最も体力を使うであろう棒の練習。しかも、合宿中ずっとやってきたとは。頭が下がる、というよりも、あんた達、大丈夫か?と言いたい気分でした。 部員達が合宿をさせていただいたのは、公民館のような施設です。棒の稽古は、その前の広場でした。裸足です。はげしい動きはもちろん、迫力のある声も棒の大切な要素です。朝から歌を練習してきた彼らには、十分な声が出せる力が残っていないように見えました。 それでも、教えてくださる島のみなさんの気持ちに応えようと、懸命に棒を振り、声を絞り出します。 練習が終わって、教えてくださったみなさんにお礼を言ってから棒を片づける彼らの後ろ姿。「ゆっくり休め」と心の中で呟く以外、私には何もしてやれませんでした。 翌日。発表会当日は、会場の設営、髪結い、着付けなど、舞台の準備のため、ほとんど練習はできません。体と喉を休めるにはちょうどよいとも言えます。といっても、横になって休む訳じゃないですし、新入部員から4年生、いえ、OBまで忙しく動き回っているのですけれど。 歌や踊りは、館内の舞台で演じますが、棒術は館内の狭い舞台では無理です。どうするのかと思ったら、なんと、前の庭に投光器。棒だけは外で演じるというのです。これまた異例です。 暗くなった頃から発表会が始まり、棒の演技も終えました。最後の弥勒節まで無事終了。その後の、島の皆さんとの懇親会では、お褒めの言葉をいただいていたようです。 コウエンは、言いました。 あのときは、毎晩教えていただきました。その間に、僕たちと島の人たちとの間に人間関係ができていったんです。だから、もし舞台でミスがあったとしても、完璧な棒ができなかったとしても、この一週間を知ってくださっているから、心の中で許してもらえたのではないかと思うのです。今年の与那国でも、そういう人間関係が作れるかどうかが、大切になると思います。 島の芸能=歌や踊り、棒術など=を教えていただくということは、歌えたり、踊れたり、棒が振れるように技術を受け取っているだけでなく、同時に島の人の気持ちを受け取っているのです。だから、舞台で上手くできたときには、感謝の気持ちが自然にわいてきますし、失敗したときには、島の人に申し訳ないという気持ちになります。このことがわかって、初めて島の芸能を学んだと言えるのでしょうし、こういう気持ちが芸能を大切にするということの土台になっているのではないか、と思っています。つまり、八重芸の「与那国の棒踊り」も、これから島へ行ってからの練習にかかっているということです。 八重芸だけでなく、三線や舞踊の研究所に通う人にも似たような感情=教えてくださった人への感謝=があるのだろうと思います。 |
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「よくがんばっていたよ。ただねえ・・・」 前編では、芸能を教えていただくときには、技術だけでなく気持ちも受け取るというお話だったのですが、後編でお伝えしたいことは、この言葉の続きなのです。 八重芸が、夏合宿で「与那国の棒踊り」を発表するという話。で、私が夏合宿前の練習を見たわけですが。
琉大は、沖縄本島にあります。与那国での合宿までに、棒踊りを勉強したいということで、本島におられる与那国出身の方から教えていただいたり、ビデオを見たりして練習をしてきたわけです。 ところがです。彼らの棒踊りには、迫力がない。なぜか。考えました。 原因は、教えていただいている彼らが、本物を見ていないからだろうと思うのです。 練習では、教える方も教えられる方も真剣だったはずです。しかし、「教える場」と「本番」では、自ずと違いがあります。 「教える場」では、棒の持ち方、振り方、二人の位置、棒の合わせ方など、正確な動きをきちんと教わっているのです。しかし、ここに出てこないものがあります。迫力です。 もし、島の人同志であれば、これで十分だったと思います。なぜなら、島の人は、正確な動きは知らなくても、本番で見せるあの迫力を子どものころから何度も見ているはずだからです。だから、正確な動きを教えてもらえれば、あとは練習で、自分の知っている「棒踊り」の迫力に近づける努力ができます。 しかし、八重芸の彼らは本物を知らないのです。練習で教わる棒踊りがすべてです。「ビデオで見てるじゃないの」と思われますか?ダメです。ビデオなんて、本物の迫力に比べれば数%にもならないでしょう。それほど、本物を見ることはすばらしいし大切なことです。
ここでも、また「島」がキーワードになります。島へ行って、本物に触れる。芸能は、いつも島からスタートしなければなりません。 |