三線でモテたい | |||
八重山高校出身の友人は、両親共に芸能達者。自身も、早くから歌三線を始めて、八重山民謡のコンクールでも最高の賞をとっています。そんな彼に、 「でもさ、学生のときに三味線やってて、女の子にモテたってことは、ないよなあ」 すると、 「え?そんなことないですよ。モテますよ」 これはショックでした。 彼は私よりも20年近く後輩です。私が学生だった時は、三線やってると言うと「へー、若いのにねえ」とめずらしがられることはあっても、モテることはなかった。友人の中には「三線やってる」というのを、隠す人がいたぐらいでした。 それが、今は「三線でモテる」時代なのです。 ・・・・もう少し、後で生まれたかったです・・・ 「本土の人たちが、沖縄の良さを認めだしてから、沖縄の人がそれに気づく」 と言われることがありますよね。でも、これは少し違っていると思います。 方言にしろ、衣食住にしろ、よいものはよいとわかっていました。あるいは、「とりたてて、良いと言われなくても、生活の中に定着している」ともいえます。 たとえば、ゴーヤー。体にいい。と本土から言われなくても、普段から食べてます。 本土の人に言われるまで、良さがわからなかったのではなくて、本土の人に良さを指摘されることで、「実は、前からそう思っていた」ということを表現しやすくなるということだと思うのです。 ことに、沖縄と本土の関係は、長い間「本土のものはよくて、沖縄のものは質が劣る」とか「沖縄のものは、はずかしい」という意識が強かった。そこに本土から「沖縄の○○は、すばらしい」と言われれば、これは嬉しいですよね。 三線について考えます。 20年前と比べると、三線人口はずいぶん増えたように思います。 本土の沖縄ブームが沖縄に影響したのか?そうかもしれませんが、大きな影響を与えたかどうか。疑問です。 私が最初に就職、赴任したのは、本部小学校でした。当時の本部小学校は、児童数が800人以上。過疎の町ではありましたが、小学校の統廃合で、児童数は多かったのです。 職員の数は40人程度だったと記憶しています。たいへん雰囲気の良い職場で、仲間内で飲みに行くことはもちろん、年に数回、職員全員で食事会をしていました。そんなときに、私は三線を弾くわけですが、40人いる職員の中で、三線を弾けるのは私だけでした。 まあ、男性が10名程度だったということもありますが。 古典の三線教室は、地域に2つあったはずですが、運動会やその他の行事で、地域の人といっしょになるときにも、三線を弾ける人というのは、ほとんどいなかったと記憶しています。余談ですが、当時の校長と教頭は、私が赴任してから三線を購入しました。いいものでしたよ。 その本部小学校に赴任したとき、職員の一人が、 「大阪の仲村さんって、知ってる?」 と話しかけてきたことを覚えています。 今帰仁出身で、大阪の教員をしておられる仲村氏は、大阪の大正区に住む沖縄二世たちを集めて、子供会をつくっておられました。そこでは、教科学習と同時に沖縄の文化=エイサーや三線を教えておられました。 その子ども会が、1980年に沖縄へ「演奏旅行」にやってきたというのです。演奏旅行中は、沖縄の新聞にも大きく取りあげられたそうです。記事の中に、
というようなことが書かれていたそうです。 当時の小中学校には、まだ「三線クラブ」も「芸能クラブ」もなかったでしょう。私の知る限り、北部地区には1982年までそのような芸能関係のクラブはありませんでした。(クラブのように継続した形ではなく、志のある職員が子どもたちに教えたという話は、他の地域であったようですが) なぜか?まだ「三線弾ちゃーは、アシバー」という意識だったからか? たぶん、違います。このころ、すでに「沖縄文化を見直す」機運は高まっていました。その証拠に、「音楽の授業の中に三線を取り入れる」という研究授業が教職員に歓迎されていました。 それまで、小中学校で沖縄の芸能が取りあげられなかった理由。 一つは、学校と三線がつながらなかった。これは、「アシバー」意識の後遺症といってよいでしょう。 もう一つ。これが一番大きな理由だと思います。それは、指導者がいない。先ほど書きましたように、小中学校で歌三味線を指導できる人は、少なかったはずです。できたとしても、子どもに教えるという意識も、ノウハウも持ち合わせていなかったでしょう。 そして、子どもたちの中に「三線やりたい!」という子がほとんどいなかった。あるいは、いても少数だったのでしょう。まあ、この点については、やりたいという子が少数でも、やらせたいという学校職員がいれば、活動は始まっていたはずですが。 その一方で、当時から「エイサー」は学校の運動会などで必須の種目になっていました。また、本部小学校では、高学年が「方言劇」をやっていました。他の学校でも、方言による弁論大会というのがあったと聞いています。 このように、1980年ごろまでには、沖縄文化を尊重する意識が学校現場にも入ってきていたのですが、三線クラブのような活動が、学校に定着していくのには時間がかかったのですね。 さて、「三線クラブ」がめずらしくない現在。このままどんどん三線が普及していくと、三線が得意だという人が増えて、「三線でモテる」なんて言えなくなるかもしれません。 |