GO MOUTH HERE MOUTH 学校の三線は新しい
 「三線を弾く人のことを、アシバーという」

 いつのことだったか忘れましたが、たしかこのような意味のことを聞いたことがあります。
 古典の歌三線を勉強しておられる人は、教養の一部。でも、民謡を弾いたり、歌ったり、浜辺で遊んだりしているのは、遊び=仕事を邪魔するもの、といった意味合いでしょうか。
 女性が三線を弾きたがると、

「おまえは、遊女になるつもりか」

と言われたそうです。この場合は、古典か民謡かではなくて、女性が三線を弾くことをよしとしなかった世相があったのです。

 1980年ごろから、沖縄県内の小中学校で「三線クラブ」とか「郷土芸能クラブ」というのが普通に見られるようになってきたと思います。実は、それより少し前に、大阪の大正区の子どもたちが、沖縄まで三線の演奏旅行をしました。そのことが、少なからず学校での三線の地位を確立する手助けをしてくれたように思います。

 こんな話があります。大阪の小学校で、運動会の演技の一つに、エイサーをしました。沖縄県出身者の多いところではめずらしくなかったのですが、その小学校には、沖縄県出身者の子どもたちはほんの数名しかいませんでした。
 締め太鼓やパーランクーはありませんので、ベニヤ板を丸く切り、指を通す穴をくりぬいて、赤い色を塗り、パーランクーに似せました。衣装はもちろんありません。紫の生地を腰と頭に巻いて、気分を出します。
 スピーカーから流れてくる沖縄民謡、ベニヤ板のパーランクーの音、一生懸命踊る子どもたち、見ている人たちには好評でした。運動会の後で、沖縄出身の年配の男性が、学校の先生にこんな話をしました。

先生、エイサー、とってもよかったよ。妻は、学校であんなことしてもいいのかって心配していたけど、何も悪くない。いいよと言った。とってもよかったよ」

 沖縄県内でさえ、三線が学校教育の中で取り上げられるのに、ずいぶん時間がかかりました。本土の学校でエイサーが演じられるということに、驚きを覚えたのも無理はありません。

 大阪では、運動会の季節が近づくと、教職員組合で「エイサー講習会」が開かれます。毎年盛況で、貸し出し用のベニヤ板パーランクーが不足する状況だそうです。なかには、独自でパーランクー(本物)を揃えてしまったという力の入った学校もあります。



GO MOUTH HERE MOUTH 三線でモテたい
 八重山高校出身の友人は、両親共に芸能達者。自身も、早くから歌三線を始めて、八重山民謡のコンクールでも最高の賞をとっています。そんな彼に、

 「でもさ、学生のときに三味線やってて、女の子にモテたってことは、ないよなあ」

 すると、

 「え?そんなことないですよ。モテますよ」

 これはショックでした。
 彼は私よりも20年近く後輩です。私が学生だった時は、三線やってると言うと「へー、若いのにねえ」とめずらしがられることはあっても、モテることはなかった。友人の中には「三線やってる」というのを、隠す人がいたぐらいでした。

 それが、今は「三線でモテる」時代なのです。

・・・・もう少し、後で生まれたかったです・・・

 「本土の人たちが、沖縄の良さを認めだしてから、沖縄の人がそれに気づく」

 と言われることがありますよね。でも、これは少し違っていると思います。
 方言にしろ、衣食住にしろ、よいものはよいとわかっていました。あるいは、「とりたてて、良いと言われなくても、生活の中に定着している」ともいえます。
 たとえば、ゴーヤー。体にいい。と本土から言われなくても、普段から食べてます。
 本土の人に言われるまで、良さがわからなかったのではなくて、本土の人に良さを指摘されることで、「実は、前からそう思っていた」ということを表現しやすくなるということだと思うのです。
 ことに、沖縄と本土の関係は、長い間「本土のものはよくて、沖縄のものは質が劣る」とか「沖縄のものは、はずかしい」という意識が強かった。そこに本土から「沖縄の○○は、すばらしい」と言われれば、これは嬉しいですよね。

 三線について考えます。
 20年前と比べると、三線人口はずいぶん増えたように思います。
 本土の沖縄ブームが沖縄に影響したのか?そうかもしれませんが、大きな影響を与えたかどうか。疑問です。

 私が最初に就職、赴任したのは、本部小学校でした。当時の本部小学校は、児童数が800人以上。過疎の町ではありましたが、小学校の統廃合で、児童数は多かったのです。
 職員の数は40人程度だったと記憶しています。たいへん雰囲気の良い職場で、仲間内で飲みに行くことはもちろん、年に数回、職員全員で食事会をしていました。そんなときに、私は三線を弾くわけですが、40人いる職員の中で、三線を弾けるのは私だけでした。
 まあ、男性が10名程度だったということもありますが。
 古典の三線教室は、地域に2つあったはずですが、運動会やその他の行事で、地域の人といっしょになるときにも、三線を弾ける人というのは、ほとんどいなかったと記憶しています。余談ですが、当時の校長と教頭は、私が赴任してから三線を購入しました。いいものでしたよ。

 その本部小学校に赴任したとき、職員の一人が、

 「大阪の仲村さんって、知ってる?」

 と話しかけてきたことを覚えています。
 今帰仁出身で、大阪の教員をしておられる仲村氏は、大阪の大正区に住む沖縄二世たちを集めて、子供会をつくっておられました。そこでは、教科学習と同時に沖縄の文化=エイサーや三線を教えておられました。
 その子ども会が、1980年に沖縄へ「演奏旅行」にやってきたというのです。演奏旅行中は、沖縄の新聞にも大きく取りあげられたそうです。記事の中に、

大阪から来た子どもたちが、三味線を弾いて歌うのに、それに対して、沖縄の子どもたちは、学校唱歌を披露した」

 というようなことが書かれていたそうです。
 当時の小中学校には、まだ「三線クラブ」も「芸能クラブ」もなかったでしょう。私の知る限り、北部地区には1982年までそのような芸能関係のクラブはありませんでした。(クラブのように継続した形ではなく、志のある職員が子どもたちに教えたという話は、他の地域であったようですが)
 なぜか?まだ「三線弾ちゃーは、アシバー」という意識だったからか?
 たぶん、違います。このころ、すでに「沖縄文化を見直す」機運は高まっていました。その証拠に、「音楽の授業の中に三線を取り入れる」という研究授業が教職員に歓迎されていました。

 それまで、小中学校で沖縄の芸能が取りあげられなかった理由。
 一つは、学校と三線がつながらなかった。これは、「アシバー」意識の後遺症といってよいでしょう。
 もう一つ。これが一番大きな理由だと思います。それは、指導者がいない。先ほど書きましたように、小中学校で歌三味線を指導できる人は、少なかったはずです。できたとしても、子どもに教えるという意識も、ノウハウも持ち合わせていなかったでしょう。
 そして、子どもたちの中に「三線やりたい!」という子がほとんどいなかった。あるいは、いても少数だったのでしょう。まあ、この点については、やりたいという子が少数でも、やらせたいという学校職員がいれば、活動は始まっていたはずですが。

 その一方で、当時から「エイサー」は学校の運動会などで必須の種目になっていました。また、本部小学校では、高学年が「方言劇」をやっていました。他の学校でも、方言による弁論大会というのがあったと聞いています。
 このように、1980年ごろまでには、沖縄文化を尊重する意識が学校現場にも入ってきていたのですが、三線クラブのような活動が、学校に定着していくのには時間がかかったのですね。

 さて、「三線クラブ」がめずらしくない現在。このままどんどん三線が普及していくと、三線が得意だという人が増えて、「三線でモテる」なんて言えなくなるかもしれません。