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八重山育ち(八重山)       
 この曲を初めて聞いたときの違和感は、沖縄そばの店でラーメンを食べるような感覚でした。

 それまで聞いたり歌ったりしてきた曲は、呪文のような方言です。ほんのわずかな知識を駆使して、その呪文の中に意味を見いだしたときには、苦手教科のテストの中に、唯一答えのわかる問題を見つけたときのようなうれしさを感じたものです。まあ、うれしさは見つけたときの一瞬だけで、あとはわからない問題の山をみてため息をつくことになるのですけれど。
 ところが、この歌ときたら、どうです。最初から「八重の潮路に〜」ときたもんだ。
学生のころ、飲み会をコンパと呼んでいました。昨今「合コン(合同コンパ)」という言葉をよく耳にしますが、当時はそのような言葉はありませんでした。あったとしても知りませんでした。私たちの言うコンパといえば飲み会。しかも極めて低い予算で、部室で飲むという意味でした。
 コンパでいろんな民謡を歌うことは、民謡を知らない私にとって最高の「練習」でした。知らない歌でも声を出してついていく。三線を弾く先輩の指を見て真似る。そうそう、八重芸で作った「歌集」があって、それを開いて一緒に歌ったものでした。
 ひとしきり歌って踊ったころに、「八重山育ち」のような歌謡曲調の歌が始まります。とたんに私のテンションは下がってしまいます。「本物の」民謡は終わってしまった。練習終わりというわけです。といっても、ふてくされて寝転がるわけではありません。気が進まないながらも、みんなといっしょに歌っていました。
 先輩たちは違っていました。八重山育ちが始まる頃には、気分も最高潮。この手の曲を2、3曲挟んで、モーヤー(カチャーシー)に移ることが多かったように記憶しています。

 そんなコンパの中の「八重山育ち」を繰り返すうちに、先輩たちの表情の変化に気づきました。1番が終わって、2番に移る頃、先輩たちの視線がお互いを牽制し合うようにせわしなく動くのです。
 八重山育ちには、「与那国しょんかねー」「小浜節」「とぅばらーま」の3曲が挿入歌となっています。この3曲は、三線の勘所でいう〈九〉の高さまで声を出さなければなりません。しかも八重山民謡の中でももっとも有名な曲。とりあえず歌えばよいという曲ではなくて「聞かせる」必要があるわけです。「八重山育ち」をみんなで歌っていても、挿入歌の部分だけはだれかが独唱するのが慣わしでした。
 2番には「与那国しょんかねー」。つまり、先輩たちの視線のせめぎ合いは「誰がしょんかねーを歌うのか」を探り合っているわけです。
「おまえ、歌う?」
「いいの?でも、あっちの先輩が歌いたくしてるんじゃない?」
「いいや、オレはとぅばらーまの方が」
「私、歌ってもいいかな」
「一度僕に歌わせてよ」
と、口では歌を歌いながら、目が会話しているんです。そして「与那国しょんかねー」が始まるときには、だれかに落ち着いている。
 ときには、最後まで決着がつかずに、二人同時に歌い出すときもあるのですが、そんなときは「力関係?」で、どちらが必ず引き下がります。二人で歌うことは許されませんでした。
 そして、うまく歌ったときには必ずだれかが「シターイ(おみごと)」と声をかけるのでした。
 先輩の表情の変化は、まだありました。与那国の歌詞になると、与那国出身の先輩の顔がなんだかうれしそうになり、宮良川が出てくると、宮良出身の先輩の体が大きく動いたりします。八重山出身の先輩たちには、思い入れのある歌詞なのでしょう。ちょっとかわいいなと思うと同時に、ちょっとくやしい気持ちもありました。

 ある日のコンパで、「八重山育ち」が始まりました。さあ、今日はだれが歌うのかと思って見回していると、三線をもった先輩が私を見て、あごを突き出しました。
「え?」
歌いながら目をまるくする私。先輩はもう一度あごをつきだします。
「出船悲しや しょんかねー」
先輩と私の無言のやりとりを見ていたみんなの目が私に集まります。
「なみーのー・・・・」
なんとか歌いきると、三線を持っていた先輩が「シターイ」と。

 わたしの「独唱デビュー」はこんな感じだったと思うのです。20年以上も前の話ですから、正確に覚えているはずはありません。作り話です。ただ「八重山育ち」で歌う可能性がある、と感じたときから、「しょんかねー」をはじめとする3曲を(こっそり)練習し始めたのは本当の話。つまり、私にとって「最高の練習曲」となったわけです。そして、コンパでは「八重山育ち」がいつ出てくるかと、心待ちにするようになったのでした。

2003,6