GO MOUTH UNDER MOUTH 本文へジャンプ
ページトップへ
綱引き(沖縄各地)       
 「思ひ出の芸能」に綱引き?という疑問の声も聞こえてきそうですが、地域によっては、綱引きの日に芸能を披露するところもありますし、とにかく今回は綱引きです。

 沖縄の大綱引きを知らないころ。あの綱の写真を見て驚きました。綱の上に人が乗っているのを見たりすると、それが、まさか引くための綱だとは思えませんよね。

 「これは、綱の片方で、もう一方からも別の綱が来るの。で、真ん中で合わせるの」
 なんて説明をされると、
 「へ?この2倍。真ん中で合わせる?結ぶの?こんなに大きいのを??」
 と、「?」だらけになってしまいます。

 「そう。東と西からそれぞれ綱を持ってくるの。綱の先が輪になっていて、片方の輪をもう片方の輪に通すの。通した方の輪の中に、太い木の棒を入れると、それで抜けなくなって一本の綱になるでしょう。その棒のことを、石垣ではかぬち棒って言うわね。他の村でもだいたい同じじゃないかな。たぶん、閂(かんぬき)っていう意味だと思う」
 なんとか頭の中を整理して、写真に写っていないことを想像して綱引きのイメージを作り上げるのですが、
 「・・・でもさ、こんなに太い綱をどうやって持って引くの?」
 新たな疑問です。太い綱に、島の人々がアリのごとくとりついているという図・・・
 「引っ張るのは枝綱なのよ」
 大綱から枝綱がムカデの足のように出ていて、それに大勢の人が群がって、一斉に引っ張る。
 「す、すごい・・・」

 綱引きは、沖縄県内各地で行われています。行う時期は村によって豊年祭だったり、十五夜だったり連休のイベントの一つだったりといろいろなんですね。
 インターネットや新聞記事で綱引きのことを見てみますと、「復活」という言葉がよく出てきます。何年も、あるいは何十年も綱引きが途絶えていたのだけれど、復活させたと。

 なぜ途絶えたのか。
 戦争が理由の一つだそうです。戦争のために男が少なくなって、準備もできない。引く人も少ない。それで途絶えてしまった。さらには、復活させたくても、稲作が減ってしまって稲藁の入手が困難になっているという問題があるそうです。
 では、なぜ復活させることができたのか。
 一番大切なのは、地域の行事である綱引きを復活させようという気持ちですよね。沖縄の伝統文化を誇りに思える時代になって久しいのですが、ここにきて昔の行事を復活させたいという活動が活発になっているということでしょう。
 でも、復活させたくても、綱引きのために稲作を再開。なんてことできるはずがありません。綱はどうするのか?これが「輸入」や「移入」さらには「使い回し」という技もあるそうで。
 外国から稲藁を輸入、あるいは県外から移入する。それにお金をかけてでも、地域の行事を再現したいという強い信念。あるいは、それだけ沖縄も豊になったということでしょうか。
 そうして作り上げた綱。綱引きが終わったら、刻んで田畑の肥料にしたと聞きます。毎年新しい綱を作っていたわけです。でも、輸入しなければならないほど貴重になった現在は、たとえば、来年も使うとか、別の地域の綱引きに回すということもあるそうです。
 綱引きを取り巻く現状は、藁の確保の他にも、過疎化や引くための場所の確保、交通の問題などいろいろあるでしょう。それを克服して復活させたときの喜びは、何物にも代え難いのでしょうね。

 私の、初めての綱引きは、20年以上前の石垣市大浜だったと思うのです。夜でした。広い場所に大勢の人。月が出ていました。太い綱でしたが、那覇大綱引きのような特大ではなく、そこそこ太い綱だったと思います。
 先輩と一緒に見に行って、いっしょに引きました。自分の引いているのが東なのか西なのか南なのか・・・何もわからずにとにかく引きました。周りは知らない人ばかりなのに、不思議な一体感。ですが、いくら力を入れても綱は動きません。どれくらいの時間引いていたのか、勝敗はどうだったのか、その後何をしたのか、記憶にありません。月明かりと綱、大勢の人、ちくちくした綱の感触、それだけが「活動写真」のように、何度も繰り返して頭の中に浮かんでは消えていきます。

2003,10