漲水ぬクイチャー(宮古) |
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「かんちゅーきゃーどぅーみーーやーくー」
と聞こえるのです。
クイチャーといえば宮古。宮古といえばクイチャー。三線を弾く人なら、「そうそう」ですよね。
歌持が始まって、歌に入る寸前に
「かんちゅーきゃーどぅーみーーやーくー」
それから、
「にのよいさっさい」
ですよね。さきほどの「かんちゅーきゃーどぅーみーーやーくー」とは、いったい何なのか。何を言っているのか?そもそも、このような言葉なのか?もしかして、聞き違いなのか?
数年前に、この疑問を解決しようと、我が親友に尋ねました。
我が親友は多良間島出身。多良間島は宮古だから、あんたわかるでしょ?クイチャーの最初の言葉、あれ、なんて言っているの?
「ああ、あの、かんちゅーきゃーどぅーみーーやーくー。っていう、あれですよね」
そうそう。それなんだけど、意味は?
「うーん。神様が味方に付いている宮古島。ってのはどうでしょう?」
どうでしょう、じゃないでしょう。でも、けっこう近いような気もする。「かんちゅーきゃー」は「神付き」って意味かあ。クイチャーって、雨乞いにも踊るらしいし、そのときに、神様を味方につけてっていうのは、いけそうだよね。あ!そうだ、妻の母親は宮古島城辺町出身。おかあさんに聞いてみよう。(もう少し早く気づくべき!)
で、聞いてみたらぜんぜん違っていました。
「縁側で、腰掛けているでしょ。庭で子どもが遊んでいるのを見て、気持ちいいときに、かんちゅーきゃーどぅみゃーくーと言うわけ」
つまり「こんなふうにしていられる時が、幸せだなあ」といった気持ちを表した言葉だそうです。
神様とのつながりではなくて、もっと身近な生活の中の言葉でした。歌に使われるだけだと思っていたのに、普通に使う言葉だという点も驚きました。それに、もう一つ驚いたのは、みゃーくーというのは、宮古島という意味ではないということ。いやあ、聞いてみるものですね。
などと感心しているところへ、親友から封筒がとどきました。
「こんな本がありました。あの言葉の説明があったんですよ」
中には『五線譜宮古島のあやぐ』(富浜定吉 文教図書)に書かれた説明のコピーが。それを見ると、
「かんしゅズきゃぬ みやく」 訳:こうしているうちが人生の楽しみだ。 |
(ズ=表記できないむずかしい発音ですので、これだけカタカナ)
ほら、お母さんの言った通り・・・・お?「かんちゅー」じゃなくて「かんしゅズ」
余談:実は、この記事を書くに当たって、数年前に親友から送られてきたコピーを探したのですが見つからず。彼に「ごめん、もう一度本で調べて、その説明だけメールで送って。書名と著者名も教えて」とお願いして、教えてもらいました。感謝。
余談2:親友は、宮古なのに言葉がわからなかったのか?いいえ、多良間は宮古ということになっていますが、言葉は違います。彼は、多良間の言葉ならほぼ確実にわかります。
分析しますと、「かん(こう)」「しゅーズ(している)」「きゃーどぅ(間が)」ということになるのでしょうか。親友からのメールにこう書かれていました。
「かんちゅーきゃーどぅ」は、やっぱ神という連想をしてしまいますが、
「かんしゅ」 なら何となく。
「あんしーかんしー」=あれこれ
の「かんし」ですかね? |
彼に「神」を連想させたのは「かんちゅ」という音。わたしにも「かんちゅーきゃーぬ」と聞こえました。彼も私も偶然同じ聞き間違いをしたのでしょうか?
そこで、母の言葉を思い出します。私の目の前で母が発音してくれたその言葉も、やはり「かんちゅーきゃー」でした。では、本が間違えているのか?
どの地方の言葉でも、(共通語でも)、単語の最初や最後の音が前後の言葉(音)と影響し合って違った音になることがあります。一番わかりやすいのは、数の数え方「一本」「二本」「三本」=全部「本」ですが「ぽん、ほん、ぼん」と三種類の音になってしまいますよね。なぜかといえば、「そのように発音する方が楽だから」です。言い換えると、より自然に発音できるから。それが定着して、私たちは普通に使っているわけです。
「かんしゅーズ」の場合も、「ん」と「しゅ」がくっついて「ちゅ」になった。と考えられます。
「そんなばかな。くっつけても、「ちゅ」にはならないでしょう」と思われます?
最初から「かんしゅ」と言おうとすると、「ちゅ」にはなりません。でも、「ん」にも種類がありまして。舌を上あごにくっつける「ん」の状態から「しゅ」を言うと、確かに「ちゅ」になります。
これは、私が考えたことであって、当たっているかどうかはわかりませんが。とにかく、言葉を意味で分解して考えた場合と、音だけを考えた場合とでは、違ってくることはありえます。今回は、このように結論づけておきましょう。
話はクイチャーに。
クイチャーの島、宮古だけあって、島にはいくつもの種類のクイチャーがあるようですね。本来、三線を使わずに歌っていたもので、私も一度、テレビで三線なしのクイチャーを歌って(踊って)いるのを見たことがあります。
もっともよく耳にするのは、國吉源次さんのクイチャーでしょうか。
「漲水ぬ」から始まるこの歌詞は、「砂が粟や米になって打ち寄せたら」とか「白波が糸になって打ち寄せたら」といった内容です。ありえないこと、あるいは大げさな話を歌にして「予祝」=あらかじめよいことを歌って、そのようになってくれることを願う=しているように聞こえますが、ほかの予祝的歌謡が希望を歌っているのに対して、「米になって打ち寄せたら、みんな楽ができるのになー」といった諦めのようなものを感じてしまうのです。少しものがなしいような・・・私だけかもしれませんけれど。きっと、私だけでしょうね。
といっても、やっぱりこの歌を歌うときは元気が一番でしょう。あまり速く演奏すると、大きくジャンプした踊り手が地上に降りてくる前に歌が進んでしまいますから、適当な速さをキープするように心がけたい歌です。
2003,6
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