GO MOUTH UNDER MOUTH 本文へジャンプ
ページトップへ
波照間ぬ島節(八重山)      
 『波照間ぬ島節』は、その名の通り波照間島の歌です。波照間島は、沖縄県で一番南にある島です。日本最南端は東京都の離島だそうですが、この波照間島が「最南端」と言われることが多いのは、「沖縄の最南端だから日本の最南端だろう」という誤解と、人が生活している集落のある島としてはここが最も南の島であるという事実のためでしょう。つまり、小中学校や商店は、波照間が最南端なのです。

 私が八重芸1年生のとき、1978年の夏合宿は波照間島でした。
 当時の部長さんが、斉唱曲に『波照間ぬ島節』と『ちょうが節』を選択したのも、合宿地に合わせたのでしょう。合宿出発前から、この二曲が練習曲になっていました。
 その時に練習していた二曲は、どちらも八重山古典民謡保存会の工工四に書かれた歌い方でした。その時の私は、波照間でもその歌い方をしているものと思っていました。波照間島での歌い方とは、似てはいますが違った歌い方だということは、合宿が終わってずっと後になってから知りました。今思えば、波照間島で「工工四の歌い方」を堂々と歌っていたことを思うと、ちょっと恥ずかしいような気がします。八重芸は、その後波照間島の「波照間の島節」を取材し、舞踊も舞台に上げています。


 話は夏合宿に戻ります。初めての合宿は、何もかもが刺激的でした。
 宿泊は、公民館。布団などありません。板の上に寝転がるだけ。
 食事は自炊ですが、ご飯の他に一品だけという状態。一度、「味付けし忘れたソーメンチャンプルー」が出て、食べながらみんなで笑いました。
 お風呂は、ありません。ドラム缶を借りてきて、そこに水をためて、その水を使って体を洗いました。ドラム缶に体を漬けるわけではありませんよ。貯めてある水を使ったという意味ですから。
 そのころすでに波照間島には水道があったようです。でも、公民館のすぐそばの家には水道とは別に貯水槽があって「天水」を貯めていました。先輩が「水道よりも天水の方がおいしいんだ」と言っていたのを思い出します。「天水」という言葉が「天の恵み」を連想させて、神秘的な響きに感じたものでした。調べたわけではありませんが、あのころの波照間島では、多くの家が天水も併用していたのではないでしょうか。

 朝から晩まで練習。練習の組まれていない時間も、自分で練習。練習するしか、他にやることがないわけですから、それはもう、いやでも練習に打ち込めるすばらしい環境でした。
 練習時間には先輩が教えてくれますが、それ以外の時間は一人で練習です。一人のときは、公民館の入口に(といっても、舞台のある場所以外なら、どこからでも入れるような構造でしたが)外向きに腰掛けて、足下に工工四を開き、公民館の広場の向こうに広がるさとうきび畑に向かって歌っていました。
 ある時、昼食後の、午後の練習が始まるまでの短い時間だったと思います。いつものように、いつもの場所に腰掛けて練習していました。広場を左から右へ横切って歩いて来る女性が見えました。何か差し入れを持ってきてくださったようです。私の前を通過して、そのまま先輩たちのいる方へ歩いていきます。私は、また工工四に目を移しました。すると、女性は、私から少し離れた場所で立ち止まり、私の方に向きを変え、近づいてきました。気配を感じた私は、その女性に会釈しました。

 「内地から?」
 声をかけてくださいました。私は三線を抱えたまま、女性の顔を見上げるようにして答えました。
 「はい。そうです」
 女性の顔は、逆光になってよく見えません。が、その言葉の調子から、笑顔だったのでしょう。
 「そう、がんばってね」
 「ありがとうございます」

 女性は、向きを変えて先輩たちのいる方へ歩いて行きました。
 (見ただけで、わかるんだ)
 と心の中で呟きながら、女性の後ろ姿を目で少しだけ追いかけて、また工工四に目を落しました。先輩が、その女性に挨拶している声が遠くに聞こえました。
 ゴム草履。白い広場。広い青空。その下のさとうきび畑。ほこりっぽい風。私は、今でもこの光景を思い出します。


2003,11