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ばがふにでぃらば(八重山)   
 (八重山)ではなくて(与那国)と書くべきでしょうけれど、ここでは3つに分類していますので、ご容赦を。

 ばが=若 ふに=船 という意味でしょう。新しい船の歌です。
 でぃらば=ジラバ で、ユンタと同じように三線などの伴奏を伴わない歌です。基本的に、掛け合いで歌います。

 『ばがふにでぃらば』を歌いながら、稲刈りの所作をし、それが終わったら『稲(んに)しり節』でにぎやかに踊る。という、たいへん楽しい演目を、八重芸は何度か舞台に上げています。実際は、稲刈りをしながら歌うことはほとんどなかったと思いますが、この演目は農作業の流れを見せながら収穫の喜びを表現する芸能としてたいへんよくできていると思います。
 私にとって、八重芸の舞台にのせたこの『ばがふにでぃらば』も思い出深いのですが、この歌には、こんな思い出もあります。

 与那国出身の友人、というのが、HPの中で何度か登場しています。彼に対して友人とか親友と表現するのは他人行儀で気恥ずかしいのですけれど、とにかくここで書く友人とは、彼のことです。
 宜野湾市のコンベンションセンターで「離島フェア」という催し物があります。毎年開催されていますが、数年前に一度だけ見に行きました。
 会場内では、沖縄県内の離島から持ち寄られた特産品が、それぞれの島の人によって紹介されていたり販売もされていました。さながら「離島見本市」といった様子です。
 外では、子どもたちが与那国馬や宮古馬に乗ることができます。会場内の舞台では有名な歌手が歌ってくれたり、また離島の芸能も見ることができます。子どもも大人も、島の人もそうでない人も、みんなが楽しめるように工夫されています。

 舞台の横にあるプログラムを見ると、「与那国郷友会」の名前。どうやら、与那国の芸能が舞台で見られるらしいのです。これは是非見たい。先輩や友人も出るかもしれないし。でも、始まるまでまだ少し時間があるようです。会場内を見て回ることにします。
 「あい、大阪から来たの?」
 声をかけてくださったのは、かの友人のお父さんです。当時、与那国馬の保存会で活躍しておられましたので、離島フェアへ馬を連れてこられたのでしょう。こっちへおいでと呼ばれ、後を着いていきますと、与那国の泡盛「よなぐに」のコーナーで立ち止まる。お父さんは、並べられた泡盛の中の一つを取り上げて、

 「これ、持って行きなさい」

 と手渡してくれました。めずらしい60度の一合ビンでした。
 写真が、そのときいただいたお酒です。高さ16.5cmです。何年前だったか、はっきりとは覚えていないのですけれど、96年ではなかったかと。だとすれば、すでに7年古酒。貴重品ですねえ。
 お礼を言って、会場を一周して、また舞台の前へ戻りました。
 舞台は、広い会場の一角に作られた「特設ステージ」です。袖幕もなければ、緞帳もありません。出演者は舞台の後ろから登場し、舞台の後ろに去るという形です。と、その舞台の後ろから、衣装をつけた与那国出身の先輩が、私を見つけて駆け寄ってきます。
 「ちょっと、こっちこっち」
 腕をひっぱられて、舞台の後ろへ連れ込まれました。
 舞台の後ろは、そのまま小さな会議室に通じていました。与那国郷友会の人たちでしょう。ドゥタティと呼ばれる衣装を着ている人、着るのを手伝っている人、おしゃべりしている人などで混雑していました。
 「はい。これ着て」
 ドゥタティを渡されました。
 「え?出るんですか?」
 「そうよ」
 「でも、与那国郷友会じゃないですけど」
 「いいから。早く」
 何をするかもわからず、とにかく着替えます。
 と、問題発生です。下着がない!いえ、下着は身につけていたのですけれど、ドゥタティの下にはく「コシタ」=膝上までの白い下着=がないんです。通常、舞台に立つ人は、コシタは自前のを持っているものです。私は、舞台に立つつもりではなかったのですから、そんなもの、持っていません。
 幸い、私はやせ形でした。はいていたジーパンの裾をくるくると膝の上まで折り曲げることができました。これで出るしかありません。
 なんとか形を作り上げて、出番を待っていると、あの友人が。
 「おお、お前も来てたのか」
 と、普通に肩をたたかれました。このとき、私は大阪から来ていました。友人には連絡をとっていませんでしたので、こんなところで会ったら、「あれ?おまえ大阪にいるんじゃなかったのか!しかも、ドゥタティなんか着て!!!どうしてここにいるんだ!」 と驚くべきですよね。なのに、普通に並んで出番を待っているって、変ですよね。
 というわけで、友人と共に出演しました。そのときに出演者のみなさんといっしょに歌ったのが、『ばがふにでぃらば』です。

 この経験は、私にとってとても楽しい経験でした。嬉しい経験と言うべきでしょうか。強く印象に残っています。「本土の人なのに、三線を弾くんだねえ」などと言われるよりも、島の人といっしょに、ただ、いっしょに楽しく歌っているのが、本当に嬉しいんです。

2003,9